書評:ベートーヴェンを評論した人々

生前ベートーヴェンが音楽評論家に叩かれまくった…と言う一般常識はウソ!? Robin Wallace著「Beethoven’s Critics: Aesthetic dilemmas and resolutions during the ocmposer’s lifetime」Cambridge University Press、1986 この本は著者の博士論文が元になって出版されている。 この人は、Leipzigで1798年から1848年まで出版されていた音楽週刊誌、Allgemeine Musikalische Zeitung(AMZ)、1824年から1830年まで出版されていたBerliner Allgemeine Musikalische Zeitung、同じくドイツのMainzで1824年から1839年まで出版されたCaeciliaなどを中心にベートーヴェンに関する批評を読み尽くして書かれている。 言及されているのはまず、今まで一般的に音楽学で「ベートーヴェンに対する批評」の一般的な例として繰り返し引用されて来たもの(E.T.A.Hoffmannの物を中心に、特に悪い酷評)が、実は全く一般的では無い、としている。 更に、「絶対音楽」のドイツロマン派的理想と言うのが、ベートーヴェンの位置づけとほぼ同時進行に、評論文を通じて行われた、としている。 1790年代にTieckとWackenroderと言う作家が、哲学的概念としてはすでに100年前に提唱されていた「崇高」と言う美的概念が、歌詞の無い器楽曲に見いだせる、と言う考え方を発表する。歌詞が無いから、言葉を超越した計り知れない畏怖の念を呼び起すような素晴らしい世界を打ち出せる、と言う考え方。 1798年に刊行したAMZは初刊から毎号ベートーヴェンに関して言及していたが、最初の3年は確かにベートーヴェンへの評価は「すごいピアニストだが、作曲家としては分かりにくすぎる」と言うのが一般的だった。「悲愴」や作品11のピアノ三重奏などは好評だったが、それはベートーヴェン以前の作品にすんなりと比べられるから良しとされていて、斬新的なアイディアは全て「考えすぎ」と批判されていた。 1801年にベートーヴェンはAMZの出版社でもあり、彼の楽曲の出版社でもあったBreitkopf und Hartelに脅迫文を書く。「私の作曲を出版したがっている出版社は沢山ある。例えば出版社Aにはこの曲を約束した。出版社Bにはピアノ協奏曲!しかし、自分が一番気に入っているもう一つのピアノ協奏曲はまだ出版社を決めていない。お前の所でも良いのだが…ところで、お前の所で出版しているAMZの評論家はそろいもそろってなんだ!けなされて良い作品が書けるか!?」…と、まあこういう内容である。 上の脅迫文が功を成して、「ベートーヴェンはいつも分かる人には分かる斬新さを持って新しい音楽を打ち出してきたが、その芸術性が最近どんどん明らかになって来ている」など、今までは「聴衆が分からないのは作曲家が悪い」だったのが「作品が理解できないのは聴衆が悪い」と言う風にスタンスが変わり、これが「月光」を含むピアノソナタ作品26と27の批評を境に定着する。 、 さらに、ピアノ協奏曲第3番、交響曲3番「英雄」などで、それまでは「作曲家にどう作曲した方が良いか進言する」と言うスタンスだったのが「聴衆にどう聞けば良いか教える」、いわば曲の説明文のような形になっていく。 1810年、E.T.A Hoffmann(「くるみ割り人形」を書いた作家だが、音楽評論ですごく音楽史に於いて影響を持った)が第五の批評を書き、「ベートーヴェン=崇高」の構図が確立する。長い、長~い評論文、しかもその3分の2は「これが起こって、次にこれが起こって」と言った、音楽の説明文と言うか描写文なのだが、その中で「ベートーヴェン=崇高」を確立した例文を一つ。「ベートーヴェンの音楽は戦慄、恐怖、驚愕、苦痛の梃子を動かし、ロマン主義の本質たる無限の憧憬を喚び覚ます」これぞ、まさにドイツロマン派。 ここで特に重要なポイントの一つは、E.T.A Hoffmannは明らかに総譜を片手にこの評論を書いていて、しかもこの時点で彼が実際に第五の演奏を聞いた事があったかどうかも定かでは無い、と言う事だ。それまでは演奏されて聞く人が居て、初めて音楽となる、すなわち音楽とはイベントであった。ところがドイツロマン派に於いては、楽譜がすでに作曲家の創作した音世界、『音楽』なのである。 この本はさらに、Berlinでベートーヴェン信望者として最終的に「ソナタ形式」など、主題や副題などの「テーマ旋律」を元に音楽の構築を解析するやり方を設立したA.B.Marxの評論、第9をめぐる論争、ベートーヴェンの死後始まった「ベートーヴェンこき下ろし文」、「絶対音楽=ドイツ」なのでフランスではベートーヴェンはどう受け止められていたか、などを検証する。 この本は、1986年出版と生憎少し古いのだが、ここで検証されている評論文は英訳が無い物が多く、私にはとても読み応えがあった。4つの事を強く思った。 1.ドイツ人は面白い。「器楽曲と言うのが一番崇高な芸術形式だ。なぜならば器楽曲には歌詞が無く、故に言葉を超越した人間の意思や感情の伝達を可能にしているからである」と言う事を、音楽家だけでなく、哲学者、文学者、宗教家までが延々、本当に延々と言葉を使って論じている。そして最終的にこのアイディアが定着し、ベートーヴェンが「偉大」で崇高な作曲家として歴史に名を遺すのは、どこまでがベートーヴェンの音楽のためなのか、どこからが評論文のためなのか? 2.ベートーヴェンは明らかに自分に関する評論文を読んでいる。自分が好きな評論を書く評論家には感謝状を送ったりもしている。私には当たり前に思われる「ベートーヴェンが評論を読んで自分の作風を変えていった。あるいは意図的に評論文におもねって作風を変えなくても、影響を受けた」可能性を、なぜ誰も考えないのか?とっても不思議である。 3.この本がRobin Wallaceと言う人の博士論文だったと言う事は最初に書いた。Robin Wallaceはイエール大学で哲学と音楽学で博士課程を収めたツワモノである。この人がこの博士論文で暴いている「音楽学のウソ」と言うのは、私の様なエセ学者でも、すでに感づいてしまっていることである。特に19世紀の半ばごろから評論文と言うのは洪水の様に出版されている。そしてこの時代の人は手紙や日記を書くのが大好きで、その多くが参考資料として読めたりする。しかし、この膨大な資料を、正直に全て検証するのは多分人間的には無理なのである。それで、ある学者がたまたま自分の研究発表の裏付けのために使った、もしかしたら例外かも知れないある評論文や手紙や日記が「当時の一般的考え」として他の学者に引用されてしまったりする。そしてその引用がまた引用され、その引用がまたまた引用され...すぐに収集がつかなくなってしまう。暗譜の言及に関してもそう言う事が多々ある。でも、それに気がついてもどうやってそれを正せば良いか、分からない。大きな問題である。 4.このツワモノRobin Wallace.私はこの人の博士論文に多いに触発された。この人はドイツ語だけでなく、フランス語でも当時の文献を実に根気よく読み進み、データにしたり、まとめて解釈したり、頑張ってこの論文を書いている。ところが、私はこの人をGoogleして知ってしまったのである。こんなにすごい人なのに、テキサスの本当のド田舎のとてもさえない大学で教え居る…音楽界ではどんな分野でも世俗的な出世を望むのは難しいのか。Robin Wallaceに幸あれ。

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