November 2016

書評:「作曲家の魂に通じるように演奏」

孤立した個人が歴史を動かす事はない―と言う事が、私がこの博士論文へのリサーチを通じて認識したことの様な気がする。例えば、コペルニクスの地動説やカントが指摘した「主観と客観の間のギャップ」、ダーウィンの進化論、さらにはピサゴラス、ベートーヴェン、アインスタイン…これらの人は画期的な見解を提示した。でも、それが受け入れられたと言う事は、それが理解される土壌が社会にすでにあったと言う事。   でもじゃあ、いずれは多数意見となる見解にはいつも何等かの客観的真実の反映があるのか?必ずしもそうでは無い。かつては天動説が信じられていたのだから。そして何よりアーリア優勢が一時期とは言え、民族虐殺を社会的に許すまで信じられていたのだから。   私は天邪鬼である。社会的に自分よりも信憑性が高いとされる人に「これが真実」と言い渡されても自分の頭で「本当に言い渡されたことが真実だろうか」と考えてみたい。子供の頃からそうだった。   歴史と言うのは、実際の社会変動を物語にすると言う事。3次元的なモノを2次元的なものにする作業に似ている。例えて言えば、球を描くのに視点を定めて一方向からしか書けないような感じ。その時に視点を定めるのに都合が良いのが、あたかも一人で歴史の方向を変えてしまったかのように見える科学者や哲学者や物書き。でも、そういう歴史には必ずウソがでる。歴史的真実とか美的概念言うのは実際には捉えどころがないはずであるべき。その両方を無理やり体裁の良い物語にしようとする音楽学なんていうのは、私は元々懐疑的なのである。   しかし、今回は頭を抱えてしまう。色々な人が、色々な時代に、色々な場所で同じことを言っている。そして何よりも困るのは、今私が言及している多数意見と言うのは、私がこのリサーチを始める前に、自分が自分の実体験に基づいた見解として述べたり書いたりしていたことなのである。   「音楽は言葉を超えたコミュニケーション」 「音楽を通じて、文化・時空・個人的背景を超越した(作曲家ー演奏家ー聴衆との、更には古代永劫全人類との)一体感を味わう事が出来る」 「音楽は、だから、人類愛」 「演奏中は時間・言葉・肉体・意識…要するに『自分』を超越して自由になることが出来る」   私はこういった事を19世紀の主にドイツ人哲学者が言っているとは知らなかった。もしかしたら19世紀のロマン派理想主義ドイツ哲学者が言った事がクラシック音楽の文化の中に浸透し、一般知識として先生から生徒へと代々と言い方を変えて伝承されて来たものが私の中からまた似た様な言葉や考えとなって書き表されたり、言い表されたりして来ていたのかも知れない。でも、私は正直に実体験に基づいた個人的な実感として言っていたつもりだった。   実際に音楽を稼業としていた人達に関する研究は少ない。それはこう言う人達があまり書物を残していないから、と言う事もある。しかしそれでも、教則本や手紙や日記などには彼らの考えが残されている。これをひっくり返して研究した音楽学者、Mary Hunterの書いた記事を二本、続けて読んだ。 Mary Hunter著To Play as if from the Soul of the Composer:The Idea of the Performer in Early Romantic Aestehtics, Journal of the American Musicological Society, Vol. 58, No. 2 (Summer 2005), pp.357-398 Mary Hunter著‘The Most Interesting Genre […]

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書評:音楽作品のイメージ的美術館

この本はすでに一回去年読んでいたのだけれど、その後読んだ文献があまりにもこの本への言及が多く、更にこの本を読んだときは自分に理解をするために必要な土台が無かったことを深く自覚していたので、腹をくくってもう一度読みました。音楽学の発展に於いて非常に重要な本。邦訳が出ているかな~と思って、今グーグルしたら、何と知り合いが一部訳していた! http://ertb.hateblo.jp/entry/20150812 この福中冬子さんは、たまたま私の修士時代の友人の妹さんでいらして、別に私の音楽畑の知り合いではないけれど、でも最近こういう風にネットワークがつながって来ていてるのを再発見する度に、自分の活動がどんどん専門的になっているのを認識する。   Lydia Goehr著「The Imaginary Museum of Musical Works」(1992)   最近、「古い学術論文を読むよりも、それを下地にした新しい研究を読め」をモットーに、出来るだけ新しい本や記事を漁っていたが、あまりにも多くの学者がこの本に関して言及を繰り返しするので、ついにギブアップ。全部読み直してみた。この本のみで4日ほどかかってしまったのは、感謝祭があったとか、締め切りが一つ終わって次までまた少し時間があるのでたるんだとか、それだけでは無い。   (なぜこんなに読みにくいんだ~)とはじめは頭の中で文句たれたれで読んでいた。 でも開眼!この人はやっぱりすごい。 1.この人は哲学者である。作曲家の娘で、音楽・美学・歴史に焦点を当てた研究を行っている。哲学の視点から音楽史を読み解くと言う画期的な事をやってのけた。その後の人達の方が読みやすいのは、この後の研究家は彼女のこの本を消化した上で解釈を乗せているのだから当たり前である。 2.92年に書かれた、と言う事はサーチエンジンがすごく使いにくかった時代である。私は高校生で図書館でインターネットを使ったリサーチの授業が在ったので、はっきりと覚えている。何だかやたらと記号を多く使って、その記号の順序なんかもすごく厳密で、しかも全部タイプしてから大層待った記憶がある。今の私がはっきり言って基本的な学問の訓練も受けずとも曲がりなりにも博士論文を書けているのは、全てグーグルとWikiのお陰である。「1848年の革命とは」とか「ショーペンハウアーって誰?」とかどんな基本的な質問をしても、馬鹿にすることもせずに寸時に応えを出してくれる。この人は基本的な知識を全て脳みそに踏まえた上で書いている。少々堂々巡りしたってしょうがない!   この人は音楽が「美術作品」、作曲家の創造となった経緯とその結果を1800年くらいを中心にまとめている。音楽と言うのは歴史上演奏されて初めて形となるもので、作品ではなくイベントであった。作曲家が記譜したものは料理のレシピの様なもので、それをたたき台に料理人が料理する。出来た料理はレシピを書いた人と作った料理人の合作、あるいは料理人の創作、という感じ。音楽も同じだった。ところが今では奏者が弾くのは「ベートーヴェン」「バッハ」「ショパン」の作品である。奏者はこれら創作者の糸に可能な限り沿って音楽を再生する。作曲は絵画や彫刻と同じように確固たる芸術品であり、美術館と同じように日常生活から切り離された、音楽鑑賞のみに徹したスペースで敬われる。観客は奏者と同じく、作曲の前では自己を消して音楽鑑賞することが要される。   なぜそうなったのか。その結果私たちの文化とか音楽とかに対する認識はどう変わったのか。作曲家・奏者・観客はどのように歴史を踏まえて変化して行ったのか。資本主義の中でこの動向はどのような意味合いがあったのか。   しかし、読んでいて感じた事がもう一つ。私はこの人が言及している考え方や研究は大体もう踏まえている。だから読んでいて発見が少なく、スリルが無いので、読み解いて行くのに時間がかかる。   やっぱりもう読むのは最小限にして、書き始めた方がよさそう! でもあともう一つだけ、記事を…  

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アメリカは感謝祭です。私も感謝です。

関東地方でもNYでも雪が舞ったりしているようですが、ヒューストンは小春日和です。 今日は感謝祭! …と言っても私は昨日も明日も教えが入り、 さらに練習はそろそろ本腰、論文は正念場なので 大方のアメリカ人口の様に4日連休ではありません。 でも、幸せです。   感謝祭では自分が感謝することを思い出すのが習慣です。 1.健康で、生産的であること 2.より健康に、生産的になる生き方を楽しく一緒に探求するパートナーに恵まれていること。 3.自分が心の底から意義を感じる活動に熱中出来ていること。 4.毎日音楽家として、学び、向上していることを実感できる生活が送れていること。 5.4)の成果を報告して分かち合えるコミュニティーに恵まれていること。   最近は20分タイマーにはまっています。 20分練習!20分論文!と自分で決めて自分に課すと、 信じられないほど没頭します。 タイマーをかけたことすら忘れてしまい「ピピピ!」とタイマーが鳴ると毎回びっくり。 そしてどんなに良い所でも20分経ったら、きっぱりと休みます。 短い休みの時はお茶を一口すするだけで、次の20分のタイマーをセットする時もあります。 長い休みの時はおやつを食べたり、トイレに行ったり、少し歩いたりストレッチしたり。 論文ー練習ー論文ー練習とやる時もありますが、 昨日はこの方法で練習ー練習―練習―練習と4時間やりました。 来年用の演目を考えて譜読みを始めています。 今朝は、論文中心。   今朝は、感謝祭を祝して生まれて初めてパンを焼きました! お祝いに頂いたパン焼き器ー忙しいのにかまけて今日まで使っていませんでしたが、 感謝祭を機に初めて焼きました。 5時に起きて、論文用の文献を読みながらパン焼き器がウィンウィンと大活躍するのを ドキドキしながら見守り、ビーっと鳴ったところですぐ食べました。 おいっしい! 今日作ったのは小麦粉を使わない、玄米粉とポテト・スターチと蜂蜜のパンです。 周りがサクサク、中がしっとり。 焼きたてのにおいと食感は最高です。   感謝することの多い、幸せな感謝祭です。 皆さまにも幸多くアレ!   音楽人生万歳!  

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書評:アンチ・ヴィルチュオーゾ闘争

明日の締め切りに向けて書き始める前に最後に読んだ記事。 Dana Gooley著 ”The Battle Aginst Instrumental Virtuosity” in Franz Liszt and His World, ed. by Gibbs and Gooley, Princeton University Press, 2006   ま、またまた新しくて非常に面白い見解をいくつも学んでしまった…   まず、人々がなぜ19世紀の初頭からヴィルチュオーゾにそこまで魅了されたのか。   社会学者Richard SennetteのThe Fall of Public Man(1974)を受け… 最初に18世紀から中産階級の人々は啓蒙主義を受け、「内面」と言う物に目覚める。 この「内面」のモデルを、人々は演劇の中の登場人物などに見出した。観客はこれらのモデルが「非現実的」と言う事は認識していたが、必ずしも「偽り」だとは思っていなかった。 19世紀初頭の都市化でプライヴァシーの問題が浮上した。 人々は自分たちの「本当の内面」を隠したい、でもそれに常に本当でありたいと言う気持ちと、社会的外面が偽りではないかと言う気持ちとの間の交渉に悩んだ。 1830年と40年に絶大な人気を誇ったヴィルチュオーゾは、強力な個性の誇示を持って「内面を公開」する方法、しても良いと言う勇気、そしてヴィルチュオーゾの個性に反応して観客として感情表現をする場所を提供してくれた。   次に歴史家Peter GayのThe Naked Heart(1995)に基づいた「内面」に関する観察と、それがなぜヴィルチュオーゾへの敵対心と言う結果になるのか。 19世紀半ばの中産階級は「内面」を熟考することを好んだ。 まず、「内面」と言う物を自分の中にあるスペースと言う風にイメージ化。そしてそこにロマン派の詩人や小説家の作品を自身の反映として詰め込んでいく。さらに、自分も手紙・日記・自伝・伝記と言ったものを執筆し、ひそかにそれを公開したいと思っている。 内面と外面の間の摩擦が起こる。 ヴィルチュオーゾが「偽りの空虚な内面」を見世物にしてもてはやされている、と思う。 この敵対心が一番強く表明されたのがドイツだった理由はドイツの中産階級が一番強く自分の内面性を音楽活動に見出していたからかも知れない。   さらにこの本は、ヴィルチュオーゾへの敵対心と言うのは、少なくともドイツに於いては1802年から発表されていたんですよ~、と言うとんでもない情報をくれる。(ふつう、ヴィルチュオーゾの全盛期は1820年代から48年の革命まで、とされ、ヴィルチュオーゾへの敵対心もヴィルチュオーゾの繁栄への反応、と言う風に理解される)。 ヴィルチュオーゾと言えばパガニーニ(1782-1840、ただし演奏旅行の全盛期は1820年以降、それまではイタリアからあまり出ていない)とリスト(1811-1886神童としてデビュー、1832年にパガニーニの演奏会を聴いて一念発起してパガニーニ級のヴィルチュオーゾを目指す)だ。両方とも1820年代から活動し、リストは47年で演奏旅行からは引退している。その結果、ヴィルチュオーゾの全盛期が1820年代から48年の革命で旅行が困難になるまで、とされるのだが…   でも放浪旅芸人と言うのは実はどの世にもいた。そして1802年にはこう言う人達はすでに「ヴィルチュオーゾ」だった。(このイタリア語はもともとは音楽に長ける人と言う意味でむしろ作曲家や音楽理論家に使われていた。)Farinelli (1705-1782),は歌手。 そしてご存知Mozart (1756-1791)

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書評:ヴィルチュオーゾを主題に

ヴィルチュオーゾを敵対視する、と言う19世紀の動きは19世紀の様々な側面を反映している。 1.ヴィルチュオーゾの流行 2.ヴィルチュオーゾの音楽体現性に真っ向から反対する精神性を重要視した「ばりばりクラシック」と言う考え方の浸透 3.②の背景にあった音楽の抽象性を神聖化する哲学の動き。   これをまとめたのが、この本。 Zarko Cvejic著、The Virtuoso as Subject: The Reception of Instrumental Virtuosity, c. 1815-c. 1850 Cambridge Scholars Publishing. (2016)   この本はヴィルチュオーゾと言う現象はあまりにも19世紀に敵対視され、事実上音楽史から抹殺されてしまった。でも、演奏様式や演奏者を検証すると言う立場から音楽史を見直すと言う最近の動向に賛同して、1815から1850年くらいまでのヴィルチュオーゾとその抑圧について検証する、と言う本である。   この本はフランスとドイツとイギリスの批評の引用が非常に多いし、それから最近の学術論文の引用も多い。それから考えをまとめてリストにする。と、言う意味では参考になった。しかし、内容は私が知らなかった事にはあまり言及せず、むしろ(そろそろ私もこの狭い分野の中では物知りになってきた。そろそろ書けるかな?)と勇気づけてくれた。

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