November 2016

ドイツ理想主義の音楽に関する言及のまとめ

私は哲学史は全くの素人です。 私は19世紀のピアノ演奏様式の中でなぜピアノ曲が暗譜で演奏されるようになったのか 博士論文で書こうとしているだけです。 でも、その中でどうしても哲学と美学の歴史に触れずには片手落ちになることを無視できず、しょうがないので付け焼刃で(えいや!)と音楽に関係があるところだけをつまみ読みしたものをまとめているだけです。 誤解にお気づきになられた方はメッセージでご指摘いただければ大変助かります。 更には、文献のご提案なども本当にありがたいです。   私が以下に書くものは次の文献に基づいています。 更に、論文を書いていく上で整理が必要になったらこのブログに戻って校正する予定です。 多分どんどん付け足していく事になると思います。   Zarko Cvejic著「The Virtuoso as Subject」Cambridge Scholar’s Publishing (2016)   Immanuel Kant (1724-1804)が人間の主観と、実際の世界の間にギャップがあると最初に提唱した。これはコペルニクスの地動説に次いで、思想史の中でも非常に革命的な事だった。カントに続く哲学者は、このギャップをどのように埋めるかと言う事を重大テーマとした。その中で抽象性を持つ芸術が「真実」を垣間見させる、あるいは「真実」に到達させる、と言う考え方が主流になってきた。   後世の哲学者とは違い、Kantは「演奏や演奏家を無視した音楽そのもの」と言う概念に至らなかったので、音楽の抽象性をそれほど高くは観ていなかった。(「自分は音楽をあまり知らない」と言っている。)しかし、美の条件を「無私でどんな概念からも独立している」とした上で、こう言う物に打ち込む時、人間の自由な理性と道徳性を通じて、総合意識のような物に到達できる、とした。   Johann Gottlieb Fichte (1762-1814)はカントを引き継ぐ。それ程美的意識を重要視したわけではないが、私の論文に於いて重要なのは私が絶対的な自由(主観と客観を超越した域)に到達できるのは道徳を通じてのみで、この道徳と言うのは個人が自由意志によって自己を抑圧する事である、と言う所が演奏者が作曲家のお筆さきとなるべく自分を消す、と言う態度に似ている。    Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831)はベートーヴェンと同じ年に生まれている。さらにA.B. Marxと言う私の論文に重要な音楽評論家と同時期にベルリン大学で教鞭を取っている。ヘーゲルの講義はエリートを気取る連中が鈴なりになって聞きに来たようで、音楽理論や作曲の教授だったMarxも講義に通った。カントに続き、芸術活動(能動的でなくてはいけない)は自分と世界を同時に知るために重要だと考えた。芸術は、個人の個性(=独立性)を反映できると考えた。しかし、ヘーゲルは芸術は感覚に訴え、個人を啓蒙へと導くきっかけのみだとした。美の感覚によって啓蒙に導かれた個人はこの後、精神性(ヘーゲルにとってそれはルーテル派)、そして哲学へと段階を経て、最終的に絶対的な真実へと到達する。   Friedrich Wilhelm Joseph Schelling (1775-1854)はピサゴラス・ボエティウスの「音楽=宇宙を体現する数式」を引き継ぎそのまま「音楽=形式」とした。ハンスリックはシェリングの圧倒的な支持者。シェリングは音楽を神を体現するものとした。   Arthur Schopenhauer (1788-1860)は無神論者でシェリングが「神」を据えるところに、「意思」を据えた。芸術のみが人々が客観的に時間を超えた真実を垣間見られる媒体だとした。そして音楽は「表象」の過程を超越し、「意思」その物を体現できる最高の媒体だとした。我々は究極的には主観から自由になる道は「死」のみだけれど、『美』に我を忘れる事によって瞬間的にこの自由を垣間見ることができる、とした。          これ等の哲学者に於いて、音楽とか芸術の抽象性の重要度と言うのは、それぞれの哲学者が個人と言う物をどれだけ自由と観ていたかに大体反比例している。   音楽の重要性:Kant < […]

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タイマーは効果抜群!今日も頑張る!

昨日は20分タイマーで論文・練習と交互にやり、非常な効果を上げた。 20分と言うのは集中すると意外と長い。 そして「もうすぐ終わるから頑張る!」と言う気迫が効率を良くしてくれる。   今日は贅沢な事に丸一日練習と論文に充てられる。 朝5時に起きてすでに1時間半、文献を読んだ。 軽く外を散歩して、朝食を食べ、これから12時間、頑張る日にする。 今日は論文40分、練習10分の、約1時間サイクルで頑張る。   論文は今、Schumann’s Virtuosityと言う本を中途まで読み進んでいる。 これを読破して書評を書き、さらにThe Virtuoso as Subjectも読破するのが目標。   最近焼きタンポポ茶と言うのを毎朝何杯も飲んでいる。 まず鍋一杯の水にしょうがのスライスを入れて沸かし、そこに茶葉を入れて煮立てる。 「肝臓の能率を上げる」と言う能書きなのだが、なんだか飲むとお腹がすっきりする。 そしてカフェインとは全く違った感覚でお腹の中からモリモリと元気が湧いてくるのである。   さ、今日も頑張るぞ。音楽人生、万歳!

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20分タイマーの巻:精神(論文)と実技(練習)のバランスの試みその①

来週の木曜日に論文最終章をある程度形にして見せる、と言う締め切りがある。   しかしムズムズするほど、練習もしたいし、 来年以降の演奏の企画に関するミーティングが今週はほぼ毎日ある。 その度に演目の案が協議され、掻き立てられる。 さらに英国のEU離脱に続き、今度の大統領選の結果は今年2度目の大ショック。 ニュースやFacebookの外部からの雑音も多いが、 これからの経済や移民法、医療を含める社会福祉問題など、 将来への不安も内部からの雑音となって湧き上がってくる。   ええい、やかましい!黙れ皆の者!心頭滅却火もまた涼し。   これからどうなるのかなんて、誰にも分らないし、今は何にも出来ない。 今はただ、自分の道に専念してこれから何が起きても対処できるように、 出来ることを鎮静に一生懸命やっておく、 片づけられることを大事な事から順番に片づけていくだけ。 私にとってそれは、論文と練習。   20分タイマーをかけ、練習と論文を交互にする。 その間はトイレも水飲みもメールもメディアもストレッチも深呼吸も無し。 タイマーが鳴ったら、10分何してもよし。 ブログ、トイレ、Facebook、メールチェック… でもまた10分タイマーが鳴ったらすぐに集中!   私が今やっているのは: ハンマークラヴィアの4楽章(フーガの変奏曲)、ゴールドベルグ変奏曲、エロイカ変奏曲。 全部変奏曲で細切れなのが、このスタイルの集中に利用できる。 論文ではまず今日は3章のまとめを仕上げ、Romantic Anatomiesを復習してノートを取り、 Schumann’s Virtuosityの論文への関連を見極め、全部読むべきか見極め、 そして3章を肉付け執筆していく。   私は頑張る! 音楽人生万歳!

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ピアニストのジレンマ:ヴィルチュオーゾの実物主義vs.音楽楽理の精神主義

お世話になっている方にご紹介いただいて、先日こちらの番組を観た。   私は反田恭平君と言う若手ピアニスト(22歳!)の存在すら知らなかった。 そしてこの番組を観て、久しぶりに「また寝食忘れて練習に没頭したい!自分もまた超絶技巧をやすやす弾きこなす所までバリバリ練習したい!もう一度ラフマニノフの2番をオケと弾きたい!」と掻き立てられた。番組では反田君が朝の4時まで夜を明かして練習するところや、弾き始めるとすぐに汗が噴き出すさま、さらには「ピアニストには体力が必要」とサンドバックを手のあざが流血にいたるまで殴ったり、ウェイト・トレーニングをする所が映される。これはまさにヴィルチュオーゾのイメージである。   ヴィルチュオーゾは練習量を誇示した。リストは毎日何時間とオクターブでスケールやアルペッジオを色々な調性やパターンで行う技術訓練を行った。退屈をしのぐために本を読みながらだった。リストの有名な弟子、Hans von Bulowによるとリストの練習はあたかも「救世主の様に自分の指を痛めつけることによって『死んだ手(”Dead Hands, ‘la main morte’”)』で弾く事を勝ち取るものだった(I crucify, like a good Christ, the flesh of my fingers in order to make them obedient)」。1832年の事だ(ただし、パガニーニに衝撃を受ける直前)。リストの「死んだ手」は後にリストのライヴァルThalbergの「骨抜き手」、さらに19世紀最後に「解離した手(la main dissociee)」、そしてその後20世紀初頭までの有名なピアノ教授(Mason, Deppe and Leschetizky)の「活力を奪われ開放された」手と、名前を変えて受け継がれた、演奏に於ける一つの理想である。そしてそれを可能にする練習と言うのは自虐的で膨大でなければいけなかった。アドルフ・ヘンゼルト(1814-89)は一日10時間、練習用の無音ピアノでバッハを弾きながら聖書を読んだ。アレクサンダードライショック(1816-69)は一日16時間練習した。こういうのは多分、誇張だろう。でも、そういう誇張がまことしやかに史実として残る、と言うことの歴史的態度と背景がここでは検証に値する。   暗譜は、この膨大な練習によって意識せずに自動的に弾ける域に到達する、と言う事の延長線上にあるとも言える。一方、こういう練習は暗譜忘れで舞台が恐怖になるピアニストへの唯一の恐怖への対処法でもある(ヘンゼルトは有名なあがり症で、協奏曲を弾くときは舞台袖でオケのイントロぎりぎりまで隠れていて、ピアノソロの瞬間に走って行って弾き始めたそうだ)。   この「質より量」の練習、「起きてる時間は全て練習!」を美徳とする文化は今でもピアニストの間で在る。私も何年にもわたって朝起きたら兎に角歯だけは磨いて家を飛び出し、道中で朝食を確保して一日中練習室にこもる、と言う生活を続けていたこともある。そうして難曲とされる曲に次から次へと挑んだ。そうしていると確かに自分の演奏が自分の肉体も意識も時間の感覚も超越した所に行くように感じられる。それは快感で満足感があり、練習は中毒になる。昨日反田君のドキュメンタリーを観て私が感じたのは、禁断症状に似たものが在ったのかも知れない。あるいは今論文を演奏や練習に優先させていることがまるで背徳行為であるかのような罪悪感かな。   膨大な練習によって自分のピアノ技巧や演奏を肉体や意識を超越した所に持っていくこと事を目指すピアニストは苦行を甘受する僧侶の様にも見えるかもしれない。   19世紀に入り、啓蒙主義で従っていれば良い権威(教会・公邸・慣習)などを失い「自分」と言う物に責任と義務を急に持たされた人々は、戸惑った。どこにそのモデルを見出せばよいのか…そして流行したのがヴィルチュオーゾたちだった。料理、探偵、チェス、手品…色々なヴィルチュオーゾが出現したのだが、ピアノ・ヴィルチュオーゾが特にもてはやされたのにはいくつか理由があった。まずピアノと言う楽器が工業革命の産物であり、19世紀前半を通じてみるみるうちに品質改良と量産が進んだこと。品質改良の度にピアノは鍵盤の数や音量をどんどん増していき、それまで不可能だった新しい演奏技術が披露され、その度にセンセーショナルだったこと。そして工業革命を体現するピアノと言う巨大な楽器を臆せずに制するヴィルチュオーゾピアニストは時代を君臨する英雄、自分の指や膨大な数の音符をまるで歩兵の様に操る司令官、と言う風に憧れの対象となった。   しかし、この「あたかも肉体やピアノと言う巨大な機械を超越しているかの様に弾いて見せる」ヴィルチュオーゾピアニストと言うのは、19世紀のロマン主義に於いては少なくとも一部の哲学者(ヘーゲル)、音楽理論家(E.T.A. Hoffmann、A.B. Marx)、評論家(ロバート・シューマン、Hanslick)などによって「実物主義的」として、世俗的なくだらない物と評価され、Charlatan(山師)などと酷評されるようになる。ヴィルチュオーゾが提示するものは即実的である。演奏は見えるし、聞こえる。ヴィルチュオーソその物もカリスマを持ったスターと言うイメージを持った実際の人物。しかも彼らはその演奏とイメージの見返りとして富と名声と言うあまりにも世俗的な報酬を受け取る。   ヴィルチュオーゾに対して音楽に於ける世俗性を超越した「精神性」を求めてドイツロマン派主義の音楽家や哲学者たちが到達したのが先日私がブログに書いた「観ない演奏、聞こえない音楽」。ここでは演奏家は作曲家のお筆さきとして、演奏会と言う儀式を司る司祭として、作曲家とその作品を際立たせるために自分は作品の中に消え入らなくてはいけない。この作品に消え入ると言う事を最初にやったピアニストで最も有名なのがクララ・シューマンだ。クララを始め精神性重視のピアニストは、自分がいかに練習をしないか、を誇示した。クララは「3時間以上の練習は無駄」としている。そして人間としてバランスの取れた成長をすることでより良い音楽家となるために、読書をしたり外国語をしたり他分野の芸術作品に触れたり、自然の中で体を動かしたりすることを実践し、生徒にも進める。(ショパンも同じ考えだった。)こう言う精神性重視の音楽や音楽界に於いては聴衆は「時間と共に流れゆく音楽を聴く」のは邪道とされた。本当に正しい聴き方を会得するために自ら作曲の勉強をし、作品の音楽の構築や作曲技法を理解し、作曲家の創造者としての意図を理解し、その作品を把握することによって自分の精神性を高める、と言う事が求められたのである。   私は今この「精神性」 を目指して、この論文をかいているのだろうか?しかし精神性と言うのはあまりにも抽象的で、実際性に欠け、苦しいくらいである。この論文のリサーチと執筆を通じて私は確かに脳の新しい域を開拓していると実感する。毎日新しい見解が生まれる。それをどんどん進めるのは楽しい。一文、一章と書き進めていく上での満足感もある。でもはっきり言って、練習の方が達成感が大きい。より多くの人を幸せにできる。練習がしたい!でも論文を仕上げなければ…   でもこのジレンマと言うのはリストの様なヴィルチュオーゾもクララの様なピアノ司祭も同じく感じていたに違い無い、と私は思う。練習時間だけ取ってみてもどちらの話しにも誇張がある。二人の練習量、そしてジレンマは実は凄く似通っていたのでは、と私には思える。技術獲得のための練習をするのか・精神修行のために読書や芸術鑑賞をするのか、スター性を前押しした演奏をするのか・作曲家を崇める演奏をするのか、音楽が自分のためにあるのか・自分が音楽のためにあるのか…これ等はすべて抽象的な問いかけであり、実際にははっきりと黒白がつけられる問題ではない。リストもクララも実際の演奏にはいつも多かれ少なかれ両方の要素を持っていたと思う。そして練習時間に限って言えば、私たちは皆1日24時間しか無い。そして演奏は実際の演奏会場への交通や着替えなどの直接的な時間のほかに、事務的な交信やアレンジにかなりの時間がかかる。さらに二人とも副業として生徒を教えている。そして二人共家族や愛人などの人間関係のしがらみがある。これらをすべてこなしてさらに練習をするのは3時間でも難しいし、10時間に至っては毎日やるのは無理である。それをあたかも実際に毎日やっていたかの様に書き残すのがロマン派であり、クラシック音楽なんだと思う。「歯だけは磨いて練習室に直行して夜になるまで…」の時代の私だって、実際は練習室でノートに日記を書き連ねたり、練習の「お休み」に友達と昼食を食べながら何時間もだべったり…振り返ると「睡眠以外は全て練習!」とはとても言えない。そうなのだ、大体そんなに練習していたらクララやリストの膨大な交信記録や日記が残る訳がないではないか!   そして私も目指すは悲愴感や哲学をにおわせる究極の我武者羅ではなく、バランスである。「1日論文!」も無理だし、「1日練習!」も無理。バランスを取って健康的に、生産的に、着実に、練習も執筆も進めます!ブログも書いちゃうし、日本語テレビも見ちゃう。   音楽人生万歳!

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ハロウィーン、そして11月

個人的に非常に盛りだくさんだった10月の最後の日はハロウィーンの月曜日。 でもこうして図書館でブログを書いていると、周りは仮装をした生徒も居らず、 皆必死でコンピューターに向かったり、ノートに何かを熱心に書き込んだり 計算機を片手に私には宇宙語にしか見えない記号を紙一杯に模様の様に描いて行ったり、 ハロウィーンである事も、外は小春日和である事も、全く感じさせない。   でもそう言えば、いつもよりは図書館の混雑は具合が若干少ない。 図書館を一歩出れば、ライスキャンパスはお祭り。 事務スタッフがコスチュームを着て、お菓子やフルーツポンチや綿菓子や 出来たてホヤホヤ湯気が出るポップコーンを「ポンポン!」と出来上がる先から袋に入れて 群がる生徒に配ってくれる。 私は普段お世話になっているスタッフのコスチュームがなんとなく照れくさく それに最近「砂糖は毒」と言う研究を続けざまに読んで、甘い物を割愛しているので ポップコーンの列にだけソッと並んでつまみながらちょっとだけ休憩。   久しぶりに朝はゴールドベルグ変奏曲とハンマークラヴィアを練習した。 溜まっていたメールに対処してブログを書いて頭を整理した後は論文を再開。 実は怖いのだ。 ずっと休んで脳みそが溶けてしまっているようで。 でもやらなければ。   11月からは元の生活に戻ろう。 手術後初めて、2週間半後にして、昨日はかなり本気で運動した。 7キロ走り、7キロ歩き、ラジオ体操や、腹筋やスクアット。 ピリピリつるので、手術で腹筋が少し切られたのが分かるけど、 もう痛いと言う事は無い。 このままピリピリやっていればまたつながってくれるのが実感できる。 運動は凄い!乱れていた生活や体内のリズムを一気に戻してくれる。 頭も段々しゃっきりしてくる。   人生、と言う事に想いを巡らせるような10月だった。 平均寿命の約半分をもうすぐ超える自分が、 自分の手術と、周りの人々の死、そして運命共同体となる人々との儀式を経て 今までの自分の人生を振り返り、 これからの人生について希望や目標を語り、宣言し、祝ってもらった。 来月は誕生日だ。   私がしたい事。 それは自分が意義を感じる事に寝食忘れるほど、我を忘れて、没頭して打ち込むこと。 今までそれはピアノの練習を通じた音楽修行だった。 でも私にとって音楽修行は演奏のキャリアとは少し違う哲学的な自問自答のプロセスだった。 私の博士論文はそんな自問自答のプロセスの集大成に成り得る。 楽しんで打ち込もう。 さ、頑張るぞ。    

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