今日のブログは日刊サンに連載させて頂いて3年目になる私のコラム「ピアノの道」の11月6日発表の記事を基にしています。
想像してみてください。
真暗で狭い部屋の中。周りに数人居る気配。部屋の真ん中には巨大な物体。恐る恐る触れてみる。「太くて重い円筒型。柱だ。」教えてあげます。ところが別の声が「いや、薄くて大きくてパタパタ動く…団扇だ。」するとまた別の声が「違う!長く伸びてるホースだ!自分の認識が全てだと仮定して周りの意見を否定し合い、結局誰も象の正体を掴み取れない「群盲評象。」世界中様々な宗教や文化で古くから語り継がれているこの訓話、すでにご存じだった方も多いでしょう。
最近思うのです。
芸術の真価が発揮されるのは、この暗い狭い部屋の中に、光を照らす時ではないか。光はぼんやりとおぼろげかも知れない。一瞬パッと照らすだけかも知れない。変な角度で照らして影が本体を見えにくくすることもあるかも知れない。芸術だけで人間の未聞や不明の全てが明白になることはない。それはそれでつまらない。でも芸術が照らす光は限られてはいてもその閃きが、それまでの着眼点の見直しや、感覚を動かす感動のきっかけにはなりえる。
芸術は想像力と技術を兼ね合わせて創造します。その技術を培うためには芸術家は浮世離れした時間と労力をつぎ込みます。想像力を養うために非常識で不合理な挑戦に挑んだりもします。多くの芸術家は自分の健康や人間関係を省みず、道を極めるために専念します。その結果身につくのは、直観力と社会常識に捕らわれない発想力、そして自己保全よりも大事な物があるという姿勢。それでも、芸術が象を撫でる人々の為の明かりだと仮定したら、最終的には一番大切なのは、その芸術家の技術の高さや創造物の完璧さではない。運命的なタイミングと、暗闇の中でも目を見開いている人々、光さえあれば見える人がいるという信念ではないか。
この記事の英訳はこちらでお読みいただけます。
全然関係ありませんが、最近アップロードした動画を下にシェアさせてください。近況報告のつもりです。
お疲れ様です。
芸術について「群盲評象」の喩は、とても分かり易く
理解できました。
芸術の至高性は、自らが開拓するものとも。
小川久男