明鏡日記㉞:心を形にする術=芸術

今日のブログエントリーは隔週で日刊サンに発表しているコラム「ピアノの道」59回目(6月20日付け)を基にしています。

カリフォルニア州では今日6月15日(火)にコロナ感染予防のための規制がほぼ全て解除となりました。まだ細かい規制はあります。例えば屋内での演奏会は会場の大きさや席数などでワクチン接種済み又はコロナ陰性の書類証明が必要になったり前売り券のみの販売(当日券はなし)など。でも間違えなく希望に満ちた嬉しい時期です。

今日は10代の音楽学生だった頃からのピアニスト仲間と朝食を共にしました。パリ在住の友人は、国際便ががら空きの今、最後の最後に(エイやッ!)と来ることを決めたとのこと。先々週頃「ロスに行くかもしれないが、会えるか?」と打診されたときはびっくりしました。去年大学を事実上卒業した姪っ子の「振り替え卒業式」が行われることになり、それを口実に親戚一同が同窓会をする事になったそうです。もうパリに四半世紀住んでいる彼はでも、家族親戚は皆アメリカに居るアメリカ人です。コロナ禍を経た今回の渡米も色々な想い入れが在ったのでしょう。3日間の滞米中、親兄弟や親せきとの時間も限られている中、私との食事の時間を作ってくれるなんて...何だか胸に沁みます。

久しぶりに旧友と再会を喜びあう会合は話しも盛り上がります。「ピアノ演奏は芸術か、再生か。」議論になりました。友人は「作曲家が創造した曲を忠実に再生するのが演奏だ。そういう意味では創造性を求められる芸術というよりは、技術・工芸なのでは?」と言い、私は「楽譜は音楽ではない。レシピを料理にするシェフ、伝統を引き継ぐ工芸人、振り付けを体現する踊り手、そして戯曲を演じる役者が芸術家なのと同じに、演奏も芸術だ」と主張。

そもそも芸術とは「心を形にする術」ではないでしょうか?そして「形にする」というのは、自分の中にある気持ちを他の人に伝えるため。その為には一番大事なのは「オリジナリティー」ではなく、「万国共通性」ではないでしょうか?作曲が演奏よりもより「創造的」だという考え方は、作曲家が前代未聞の旋律・和声・リズムを創り出しているという誤解から来ます。でも、作曲家も聴衆に伝わる「形」にするためにはそれまでの音楽の伝統公式から大きくは外れられないのです。それまでの音楽を無視して「オリジナリティ」のみを追求した音楽は、そういう意味では「芸術」ではない「理屈」です。

「形にしたい心」は究極的にはただ一つ。「好きだから分かりたい・分かってもらいたい」だと思うのです。そして芸術が「気持ちを形にする術」なら、絶妙な言い回し・何気に懐かしい風景画・踊りたくなる演奏だけが芸術ではない。ひと手間かけたお弁当、手書きの手紙、慰めるために肩にかけた手だって芸術だと私は言いたい。そしてその心が人間性なのだ、と。

早口でそんなことをまくしたてていたら、友人がちょっと遠い目になって私を観ています。「英語、上手くなったね...」そうなのです。一番最初に彼に在った時は私はまだ渡米5年目で「無理だ!考えを英語にできない!お前が日本語を学べ!」とよく冗談を言っていました。その頃は本当に手取り足取り、彼にはお世話に成ったのです。思い出話にも花が咲きました。

最後には「こんな話しをこんな勢いで出来る相手はそうそういない!友達で良かった!今日話しが出来て良かった!もっと電話で話そう!」と友情交歓。

またパリに遊びに行きたいです。

この記事の英訳はこちらでご覧いただけます。

ヴィーガンの友人と一緒にアサイーボウルを食べました!最近の30度を超す猛暑対策にぴったりの爽やかな朝食してした。

2 thoughts on “明鏡日記㉞:心を形にする術=芸術”

  1. お疲れ様です。

    起承転結、鮮やかです。
    文意が一読で伝わります。
    読みやすいです。

    パソコンが壊れ、ノートに替えました。
    文明の機器に疎く苦戦もサポートを受けなんとかここまで来ました。
    きょう観た「グリーンブック」。
    黒人問題の根深さを知りました。
    平田真紀子さ㎜をはじめカラードの生き難さを改めて感じました。

    小川久男

    1. いつもありがとうございます。
      ノート、上手く作動しているようで良かったですね。
      真希子

Leave a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *