1820年に12%だった世界の識字率が、現在では逆:文盲率が12%です。
識字率の一般化は確かに情報伝達や思考の発展などを通じて我々の人生を豊かにし、科学技術や経済の急伸に貢献しました。しかしその副作用として感性や体験よりも知性を優先し、社会的動物としての人間の性を個人主義で侵すとい現象が今日懸念です。
「Lend ears(耳を貸せ)」は、中世の文書に繰り返される表現です。当時は読書とは通常声に出して行われる活動であり、一種のパフォーマンスでした。識字率が低かったためです。その頃の文書は手書きの巻物—ページが無いから目次も索引もありません。一度読んだ情報は記憶に刻まなければ、再度見つけるのは困難でした。だから口を動かし、声に出し、耳で聞き、目で読み、五感と時間と共感を総動員して一期一会のインプットをありがたく愛でたのです。でも今日、「読む」という行為は黙って静かにしますよね。インターネットや生成AIが瞬時にあらゆる質問に答える時代において、情報は使い捨て。記憶は機械任せです。20年前まで誰もがいくつも暗記しているた電話番号が、今ではスマホ頼り。
中世初期には音楽は時間と記憶に於いてしかその存在はあり得ないと考えられていました。ところが、聴いたことが一度もない音楽でも忠実な再現を可能にする記譜法の出現によって西洋音楽は急発展します。産業革命では楽器の大量生産と共に印刷技術の発展よる楽譜の低価格化が起こり、曲が人間同志の時空や体験のシェアリングから独立した概念として存在可能になります。更に蓄音機の出現で音楽鑑賞さえもが世界を退けて一人で行う知的行為となるのです。
文盲が普通だった時代、人々は必要な情報を歌詞にして、音楽を記憶術として使っていました。情報を歌って覚え、読書を発声して周りの人々と共有した時代に憧れを覚えてしまう私は、手書きの方がタイプした文書よりも言霊が生きていると思いながら、このコラムをカタカタコンピューターに打ち込んでいます。
この記事は、日刊サンに連載中のコラム「ピアノの道」のエントリー126(4月7日付)を基にしています。英訳はこちらでお読みいただけます。
文字や譜面の発明は、ことばや音から一回限りという神秘性の特権を奪ってしまいました。
それらの出現は芸術的表現の一般化(大衆化)を促進したかもしれません。
ところがそのことが、人間の持つ表現力を減算しているようにも思います。
文字ができれば発音もいつのまにか文字に引っ張られてしまいます。
書き言葉が知らぬ間に優位を占めてゆくのです。
簡単に言うと個人や地域における話し言葉の自由度が減ります。
つまらないなぁ、と考えていたら気づいたことがあります。
それは若者言葉といわれるものです、昔は嫌いでした。
けれどひょっとするとこういう破壊的な自由さがなにか新しいものを生みだすのかな?
そんなことを真希子さんの言霊話から想いました。
音楽にとってのことだまってのはどんなものなんでしょうね?
Abbrosさん!お懐かしい。久しぶりのコメント、大感激です。ブログを最初に発表し始めたころの思い出一気に蘇ります。ありがとうございます。
「若者言葉」という四文字熟語は私は初めて聞きました。日本の若者言葉は私は知らないと思うのですが、アメリカではスマホのテキストメッセージやツウィ―ト(現『X]』)の初期の語数制限の影響から省略後が非常に横行するようになりました。「新しいものを生みだす破壊的な自由さ」と捉えれば確かに希望はありますが、私は表現することに対する怠慢さの懸念を感じてしまいます。若い世代の語彙や読解力の低下を示す統計も気になります。音楽も同じく。今「音楽」として市場に出回るものの多くは単純で決まった方程式に目先だけ変えた味付けをしたものが多いです。
そして最後にことだまとは、言葉の音楽であり、音楽の言葉ではないでしょうか。