今日、素晴らしい室内楽経験をした。
ブラームスのピアノ四重奏(ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)の2番の特に2楽章(作品26)は、本当に美しい曲なのだが、今日私の先生にレッスンしてもらって、このグループで初めて息がぴったり合い、お互いの考え、感じていることが手に取るように分かり、一緒に音楽を創る、と言う域に達したのだ。このグループはコルバーンの中でも特に選りすぐりの弦楽器奏者が集まっている。オーケストラの座席も主席や、主席のアシスタントに選ばれることが多い3人だ。ところがなぜか、音楽的な話しになると表現の仕方も、テンポの感じ方もずれが在り、最初に一緒に弾こうと決めた時は皆凄く興奮していたのに、リハーサルも間遠になっていた。でも、今日先生の指示が始まったら突然、皆の気持ちの方向性が一瞬にしてぴったり合ったのだ。後はもう、今までの苦労が嘘のように簡単に、それぞれが自由に音楽が出来た。
そして、不思議なことに気が付いた。
私がここ数日ずっと気にしてた手の痛みなのだが、レッスンが終わって気が付いたら全く無くなっているのだ。レッスンの最中はもう無我夢中で汗が出るほど集中して一生懸命弾いていたから微妙な手の痛み位気がつかなくて当たり前だが、レッスンが終わってからもずっと痛くないのである。
これは昨日のパーカッション・アンサンブルの演奏会の後でもちょっと思ったことだ。スティーブン・ライヒと言うミニマリストの作曲家のセクステットを弾いたのだが、ミニマリストとの音楽と言うのは時間の感覚が変わる位同じパターンを繰り返し、しかし意識的には分からない位ずつそのパターンを非常にゆっくりと変更していくことによって、曲を発展していく。だから同じ和音を本当に数分にわたって繰り返し打ち続けたりする。この演奏会は、本当に手のことが心配だったが、コンサートをキャンセルするわけにはいかない。ところが、演奏会では皆、奏者も聴衆もノリノリになって、私も弾いてて凄く楽しく成って来てしまったのである。演奏の途中で一瞬(ヤパイ、今痛みを感じないのはアドレナリンのせいだから、少し手加減して弾かないと、余計手が痛くなる)と思ったのは覚えているのだが、もうステージの上の皆が興奮しているから、私も巻きこまれてガンガン弾いてしまった。ところが終わってみて、全然痛く無かったのである。
やっぱりこういうのは心理的要素がとても大きいのかも知れない。
それか、音楽の、あるいは音楽に喜びを感じる心の癒しのパワーと言うのは、想像以上に物凄いのかも。
病は気から、を思い出しますね。
わたしの父母の実家は酪農をしています。
面白い話があつて、乳牛にクラシックを聞かせると牛乳の出が良くなるらしいです。ことにモーツアルトがきくらしいです(笑)
それはともかく、きっと演奏中の「喜び」が、痛みを追っ払ったんですね。
>abbrosさん
私は高校の時科学の自由研究で「音楽の植物への影響」と言う題で、音楽が植物の成長を促進するのはすでに科学的に立証されているが、長調と短調の曲では長調の方がより効果的に違い無い」と言う仮説を立てて立証し、賞を取りました。でもこういう研究は日本で最も盛んらしく、音楽=植物生長促進の学説を発表されていた早稲田大学の教授にコンタクトを取って、色々親切にアドヴァイスを頂きました。その頃私は早稲田と言うのをずっと「ハヤイナダ」と読んでいて、(こんな研究をする人はやっぱりこんな名も無い農業学校に飛ばされちゃうんだなあ)と子供心に思っていましたが、後で早稲田=かの有名なわせだ大学と知り、びっくりしました。
マキコ