このブログエントリーは日刊サンに連載させて頂いて3年目になる私のコラム「ピアノの道」12月18日発表の記事を基にしています。
私は小学生の頃お正月に羽根つきや凧揚げなどをしましたが、現代っ子はどうなのでしょうか?「福笑い」もやりました。目隠しをして、目や鼻や口などをおかめの輪郭の中に手探りで置いていく―これも「ボードゲーム」と呼んでも良いのでしょうか?目隠しを取るとピカソの様な顔が出来上がっていて皆で大笑いするのです。
笑いは生きるのに必要でしょうか?…これは、何を持って「生きる」とするかで答えが変わると思います。
酸素を吸い、二酸化炭素を吐き、一個の生命体として代謝を保つことを「生きる」とするのであれば、笑いは必要ではない。でもいきいきと生きるには「笑い」は不可欠ではないでしょうか。美意識と音楽、伝統とコミュニティー、儀式と遊びも、そういう意味では笑いと同じ。人間としての自尊心と誇りを持って生きる為の術なのだと、脳科学・人類学・考古学・社会心理学・哲学などの専門家が色々な研究で同じ結論に達している様に見受けられます。
私は笑えるか笑えないかを自分の状態のバロメーターにしています。どんな状況でも笑える人間でいたい。笑えない時は、悩み事や状況に対して不健康に近視的になっていると考えるのです。同じように、私は「美しさ」を自分の言動の指針にしています。「美しさ」といってもメディアやコマーシャルに洗脳された画一的な「美人」ではありません。努力や無理で人工的に繕うのではなく、自然の道理を信じる強さと余裕。持続可能な自然体な創りや動きが、結局一番理に叶っていて美しいと、3歳から音楽をやって来て今、思います。
美や音楽も笑いと同じ。いきいきと人間としての誇りを持って生きる為には必要不可欠。そう思うのは、私が音楽家だからでしょうか?
この記事の英訳やこちらでお読み頂けます。https://musicalmakiko.com/en/life-of-a-pianist/2830
お疲れ様です。
「笑門来福」、運気の充実ぶりが一文に溢れています。
素晴らしい。
小川久男