洒脱日記129:我を忘れる時間

毎年初夏に日本に帰る時、白桃を食べるのが楽しみの一つだった。汁が溢れてむせてしまうような上品な甘みと香の白桃。アメリカで手に入りにくい食材の一つである。

...ところが!アメリカには日本の白桃に匹敵する黄桃が在ったのである! 箱で買ってきて、それを毎朝食べるのが楽しみの一つ。包丁を入れるだけで果汁がしたたる。香りで部屋中が甘くなる。白桃のような奥ゆかしさは無いが、その分陽気なパンチが在る。白桃がモナリサの微笑みだとしたら、黄桃は赤ちゃんの大笑いである。

黄桃の汁がこぼれないようにすすりながら食べていると毎朝一瞬我を忘れる。そして、自分の人生目標の一つが「我が忘れる時間をできるだけ多く持つ事」だとを思い出す。

美味しい物を食べたり、美しいものに見たり触れたり、的を得た表現に共感したり、突拍子もないことに度肝を抜かれたり...何かに反応して我を忘れるのも良いのだが、でもそういうのは一瞬で終わる事が多い。逆に目標に向かって邁進している時は何時間も没頭する。そういう時間が私にとっては人生の醍醐味。

例えば本当に音楽にはまり込んで演奏し終わった瞬間、2分の曲でも旅路から帰宅したような、夢から覚めたような感覚が在る。別の人の人生を生きて、真希子の人生の瞬間に戻って来たみたいな。文字通り「我を忘れる」である。

練習にはまり込んで、より良いものを目指し続ける時は時間も忘れるが、限度も忘れる。肉体の限度、聴覚の限度、物理の限度...全て忘れて、ただより良い物、より良い物と追及していく。

博士論文の追い込みーあれは何日にも渡って我を忘れた。本が何十冊も最後に読んだページのまま開いた状態で、床もテーブルも、兎に角全ての表面積を埋め尽くしていた。不思議な事に、どの情報がどの本のどのページにあって、それはのべにするとかなり広い表面積のどこに放置されているか、探さなくても直観で分かったことだ。(人間は凄い!)と思った。あの時は夜も昼も関係無かった。時々野の君がスプーンで食べ物を口に運んでくれた。それまではどう関連付ければ良いか分からなかった膨大な量の史実が、頭の中で一つのセオリーを形作っていく。あれは私の人生のハイライトの一つだ。

博士論文の様に形として残らないので、そこまではっきりと覚えていないのが残念だが、練習でもそういう経験は何度もある。ラストミネットで飛び込んで来た演奏会に向けた詰め込み練習の際など、私は本当に朝から晩まで起きている時間の全てを練習したりした。学校の練習室は閉館時間になると、警備のおじさんが最後の見回りに来て一人づつ追い出していく。練習室はグランドがやっと入る小さな部屋で窓もなく、時間の感覚を狂わせる。だから警備のおじさんに「閉館時間!」とドアを開けられると「な、なんだって~」と仰天するのである。

この話しはもう数回ブログやコラムに書いたが、こういう没頭状態の究極の例がパリで練習していた時である。この時は窓が在る部屋で練習していたが、私は見向きもせずに没頭していた。(バッハの半音階幻想曲とフーガだったのは覚えている。)弾き終わって鍵盤から頭を上げたら窓の外にエッフェル塔が見えて、本当にびっくりした。「い、いつの間に私はパリに~~~!!」という感じだった。一瞬でしたけど。それにその時は時差とか、他の要素も色々あったと思いますが。

こういう時間を人生目標にするのは、現実逃避だろうか?それとも「芸術気質」として許されるのだろうか?私はこういう時間が大好きである。人生目標にしても良いくらい。そして、そういう時間を多く持てる音楽の道を歩んできたことを特権だと心得、深く感謝しています。これからもそういう時間を多く持ちたい。

2 thoughts on “洒脱日記129:我を忘れる時間”

  1. 小川 久男

    お疲れ様です。

    迷いつつ、しっかり足元も観ています。
    それが、マキコスベシャルです。
    あなたの洒脱の道を歩んでください。

    小川久男

    1. ありがとうございます。
      仰る通り、視点のバランスは本当に大事ですね。
      真希子

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