洒脱日記152:音楽家の誇り。

今日はものすごい意欲とエネルギーに駆られて朝の4時に目が覚めました。フェローシップの応募要項のエッセーをまとめるのが楽しい!本をまた書く意欲が高まっています。そして勿論、瞑想とストレッチ!

今日の朝練配信はゴルトベルグ変奏曲第一番。なんて素晴らしい曲なんだ。何度弾いても新しい発見、新しい音楽観、そしてインスピレーションがある。この曲をこうやって世の中に発信できる私は何という幸せ者なんだ!

そして、昨日から続きを読むのが楽しみでたまらなかった藤原正彦の本。第二次世界大戦前・中・後の複雑な歴史を新しい視点で提示する単行本。私は今、歴史を物語りにする意義に懐疑的です。でも、著者がこの本を「日本人の誇り」と題し「いつまでも右と左が五分に組んで不毛な歴史論争を続けているという状態は、日本人が歴史を失っている状態とも言え、不幸...歴史を失った民が自国への誇りと自信を抱くことはありえません。この誇りと自信こそが、現代日本の直面する諸困難を解決する唯一の鍵なのです・」と東北大震災直後に訴えているその情熱にはとても共感し、読み進んでいます。

ただ、歴史の理解が誇りと自信に直接つながり、それが諸困難打破の唯一の鍵...この論点にはちょっと疑問。確かにGHQに管理された日本の戦後教育は日本文化と国民性を損ねる側面があった。でもじゃあ今から歴史教育を見直す事ですぐに誇りと自信が再建できるかと言ったら、それは安易では無いかと思う。明確な目的意識と将来の希望も、いや可能性としてはその方が、意欲と誇りに繋がるのでは?

私がそういうのは、今書いているフェローシップの応募エッセーで、自分がそういう事を主張しているからだと思います。私は、少なくとも自分の音楽人生に脳神経科学の見解を加えたことで、世界観と音楽観が大きく変わり、希望を抱くようになりました。脳神経科学は私たちがいかに社会的動物であるかということを示してくれます。そして「個人主義」のプレッシャーが私たちの性質に反した不自然なもので、そのひずみで色々な誤解と間違えが起きたと仮定すると、方向修正の希望が見えてきます。私は、ナイーブに聞こえることを承知で言うと、音楽活動を教育・医療・社会福祉の一環とすることによってコミュニティーの連帯感を再発し、相手に自分を重ね見るという人間の性質に基づいた博愛主義で社会の将来をより良い物にできる、と思っています。

GDP、平均寿命、平均年収、雇用率...そう言った数字は、生活の質や幸福度は反映しません。競争と焦燥感を煽るばかりだと思います。「時間の芸術」と呼ばれる音楽の修行を重ねていると、永遠に思える一瞬があること、そして一時間の曲が一瞬に思えることがあることを体験として常日頃実感します。一曲を演奏し終える時、長い旅から帰って来たような、人生を一つ生き終えたような気がするときもあります。例えその曲が3分でも、です。皆がそういう実体験をしていたら、客観的な年数に何の意味があるでしょう?長寿を人生の目標にする事に、何の意味があるでしょう?お金も同じく。

五感に集中する実体験。聴覚を研ぎ澄ます一瞬。作曲家や役者や架空の登場人物の気持ちを思いやって我を忘れる時間。こういう時間は、人生状況を超越したところに私たちを連れて行ってくれます。そしてこういう感動を共有する時、私たちは自分が一人ではないと思い知るのだと思います。これが不老の泉では?それを人生の目的にするべきでは?

こういう主張を、音楽家でない人にすんなり受け入れてもらえるようにするのは、とても難しいです。一つには現世では音楽や音楽家は商品化した娯楽だと思われているからです。私のように有名ではない音楽家が改革や未来を語って、誰が耳を貸すでしょう?でも私は、音楽家の社会に於ける位置づけを変えるべきだ、と主張しています。古代文明でヒーラーやシャーマンがコミュニティーのリーダー的存在にあったように。お坊さんや神父さんや神主さんの言葉にある程度の尊重が自動的に与えられるように。勿論その為には音楽家の教育も変えなければいけません。音楽家もそれなりの覚悟と責任を持たなければいけません。でも音楽家の多くは高等教育を受けた、優れた人材です。そして幼児期からの音楽の訓練は脳の発達を特別に即する事が分かっています。少なくとも脳神経科学的には、私たち音楽家は平均よりも発達した脳を持っているはずです。

こういうことを一日中書き続け、合間に練習し、読書をし...そして野菜たっぷりのオムレツをふわふわに焼いて、上にチーズを溶かして食べ...幸せ過ぎて申し訳ないくらいです。

ゆーちゅーぶ、今日の稼ぎは、32銭。

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