ソロとアンサンブル


 ニューヨークに帰って、今日で一週間になりました。 日毎にぐんぐん秋めいています。今朝は公園で銀杏の実が地面に散らばってあの特有な匂いを放っているのを見つけました。登校する子供達ももう皆カーディガンやジャンパーを重ね着しています。日本は如何ですか?
 9月20日の土曜日にジュリアードのリサイタルホールでクラリネットのS教授の伴奏をしました。この話は私が日本に帰郷中に来たもので、楽譜を日本まで郵送してもらってはあったものの、怠けて日本では殆ど譜を見る事をせず、帰りの飛行機で読もうと思っていたのに機内食を食べそこねるほど爆睡してしまい、ちょっと心配していたのですがうまくいき、大変楽しく弾けました。
 偶然これもアメリカの作曲家を並べたプログラムで、バーンスタインの「クラリネットソナタ」がコープランドのピアノソナタに大変似ているのを発見したのも面白かったです。それからエリック・エウェイゼンと言う、これもジュリアード教授の作曲家の「クラリネットとピアノの為のバラード」も弾きました。これは五音階(ペンタトニック)を沢山使った一寸印象派、一寸ニューエイジと言った風の曲です。とてもきれいな曲で気持ちよく弾きました。残りのプログラムは、アレック・テンプルトンという、ベニー・グッドマンの為に働いたピアニスト/作曲家(盲人だったそうです)のちょっとふざけたジャズ風の「ポケット・サイズ・ソナタ」とバビンの「ヒランデールのワルツ変奏曲」でした。
 伴奏はやはり気楽で簡単です。
 伴奏が簡単というより、二人以上で弾く事が簡単なのかな。一人で音楽を全て創る、と言うのはたとえその音楽が単旋律から成っていたとしても、二人以上で弾くより難しい。これが何故かというと、舞台で独りで聴衆に向かう事や、暗譜で弾くという表面的な独奏の難しさとは別にもっと深い所に有ると思う。 それはきっとリズムじゃないかな。
 学校で生徒一人を立たせて朗読させるのと、クラス全員で同じものを一緒に朗読するのとではテンポが変わる。メロディーをソプラノがソロで歌った後、コーラスが同じメロディーを歌ってもやっぱりリズムが違う。否、リズムは同じだが、でもリズム感が変わる。
 何が変わるのか
 究極的に、音楽が目的とする所は時間と空間を共有しているという実感、つまり共感だと思う。その目的をどう果たすか ─ 呼吸と心拍をリズムとフレーズによって操作し、統一する事によってではないか。だから一人で、皆が呼吸と心拍を一緒に合わせる事が出来るリズムを創るより、二人、三人、四人、と集まって「いっせーのせ」で一緒に息をして一緒に創ったリズムの方が、聴衆も乗り易いのは当たり前だ。演奏家としても一人でホール一杯の人々の呼吸と心拍を操作するより、共演者と呼吸を合わせる事で聴衆も一緒に乗ってくれる方がよほど楽だ。だとしたら、独奏の意義は何か。
 音楽学者、ドブルド・フランシス・トビーが「協奏曲が感動をさそうのは個人対大衆という古典的な劇的構図を描くからだ」と書いたのを読んだ。
 独白劇は入り込むのが難しい。でも、よい独白劇はとても感動する。何故か。「大衆」を成す一人一人が、自分の事を「個人」だとおもっているから、そして更にいつも何処かで「独り」だと思っているからではないか、人は「独り」という不安をぬぐいたくて「共感」に安心を求める。でも「共感」は束の間で、「孤独」は持続する。だから「孤独感」を「共感」する事が一番痛切な「共感」で、そこに独奏、独白劇、そして協奏曲の意義が有るのではないか。
 私はやはり独奏家でありたい。 独奏家であるよりも、ピアニストであるよりも、演奏家であるよりも先に、音楽家でありたいが、独奏が好きだ。