チャリティーコンサートの後。
私はまったく気がつかなかったのだが、チャリティーコンサートには全国ネットのテレビ局も取材に来て、演奏を録画していったらしい。月曜日の演奏会がこの世のものとは思えないほど素晴らしいと感じたのは私だけでなかったようで、出演してくれた教授や奏者から続々と「あの演奏会に参加できたのは私の一生の思い出となった」、「あの素晴らしい演奏会の一部となれたことは、非常に光栄に感じる」とメールが来ます。今日はもう水曜日ですが、廊下で呼び止められて、「用事で旅行に出ていたけれど、魔法の様な演奏会だったと聞きました。聞き逃してしまって残念ですが、せめて私にも少し貢献させてください」と小切手を渡されたり、「この学校の誇りとなるイベントでした」とお礼を言われたりする。校長先生にまで、「音楽が社会に置いてどういう役割を果たすべきか、しっかり提示してくれる、素晴らしいイベントでした。ありがとう」、とお礼を言われてしまった。なんだかくすぐったい。み~んなが一生懸命積極的に手伝ってくれたから、私は申し訳ないほど楽ちんだったんです。。。 演奏会の後、ライスのヴァイオリンの学生でモーツァルトのピアノ協奏曲おオケに入って一緒に演奏してくれたJちゃんが、私にハグしてくれた。Jちゃんは、金髪青眼の美しい女性だが、両親が宣教師として日本にずっと住んでいるため、日本の公立学校にずっと通っていた。したがってしぐさも日本語も、私よりも日本人である。私は普段は、日本人と会話をするときも英語が混じってしまう位、日常会話の大半は英語で暮らしている。Jちゃんは特に見た目がアメリカ人だし、Jちゃんと話しをする時は回りにいる人は日本語がわからないことが多いので、Jちゃんとの会話はいつも英語。このときまでJちゃんの両親が今も日本に住んでいることさえ、忘れていた。「そういえば、ご両親はどこだっけ?大丈夫?」と言う私の物凄くおくればせな質問にJちゃんは「うちは仙台なの」と日本人らしく控えめに答えてくれる。「え!本当!大丈夫だった!?」と私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「うちは内陸のほうだったし、津波の影響もほとんど無くて、大丈夫だった」と謙虚に説明してくれるJちゃん。 地震の後、私は突然自分が学校一の人気者になったかと錯覚する位、色々な人に家族の安否を尋ねられ、心配してもらった。私はぜんぜん平気だったのだけれど「泣きたかったら、いつでも電話してきてくれていいよ」、と涙声で電話して来てくれた人もいる。私がぜんぜん平気だったのは、もしかしたらそうやってみんなが気遣ってくれていたからかも知れない。でも、Jちゃんは、その見かけから、日本で生まれ育って、日本に両親がすんでいるなんて誰も想像しなかったと思う。きっとそういう周りの心配も私の半分も受けなかったに違いない。悪いことをした。私よりずっと若いのに。 日本人である、ってどういうことだろう。私はもう日本を離れて22年になる。Jちゃんはまだ4年。でも、周りは私を明らかに日本人と見て、Jちゃんをアメリカ人と見る。世界中を感心させた、非常時の日本人の沈着冷静さや、その後の迅速な復興活動やを見て、私は今更ながら日本人であることに誇りを覚えたりするけど、Jちゃんはどうなんだろう。 演奏会の後、少し年配なおしゃれな日本人の女性から手を握り締められて、「ありがとう、ありがとう」と泣かれた。ちょっと離れたところには、彼女の夫らしきアメリカ人男性がいた。特にまだ国際結婚が少なかった年配の世代は、国際結婚後、日本人コミュニティーとまったくつながり無く生活する結果になった人も多いと思う。そういう人にとって、この遠い祖国の地震はどういう体験だったんだろう。ライス大学の図書館にある朝日新聞を毎日読みにくると言う、ミステリアスな日本人老婦人にも、このチャリティーのための広報を通じて出会った。彼女は「毎日、新聞を読んで泣いているの。あなたはまだ若いからわからないだろうけれど、戦後を思い出すのよね」と言われた。 色々なところに、色々な日本人がいて、そしてみんな日本を気遣って、一日も早い復興を心より祈っています。