博士論文

書評:「19世紀に於ける視覚とモダニズム」

昨日、一昨日と読者数が倍増…な、なぜ? もしかして「バイト先でスカウトされて急遽明日の映画収録に出演」と書いたから?   その映画収録ではこの人と共演。 私がドビュッシーの「月の光」を弾く横でこの人が激しく踊っているところを (なぜこの激しい踊りに「月の光」なんだ…しかも、弾きながらじゃ見えん!) と言う思いが渦巻く頭を無視する葛藤に、半分呆然としながら弾いて、 私には見えない踊りを踊るこの人が突然踊りながらドカンとピアノ椅子に乗って来たり、 ピアノにつかまって激しくダンスをするので、激しく揺れるピアノを必死で弾いたり それを何度も、何度も撮り直して、「月の光」がもう指自動演奏になったころ、終わりでした。 しかもなんか弾いてる最中にいきなり霧とかもくもく出されたり、 弾き始める前に見つめ合わされたり、弾き終わった後に手をつないだりしながら (な、なにが起こっているんだ~…て、照れくさい…)と思い、どうしてもにやついてしまい、 私は台詞は無かったのだけれど、私が出ないシーンの撮影で 「彼女は弾くと色が見えるんだ…」とか言う台詞に 「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、どうもどうも…」と一人で照れ笑いしたり、という感じで終わりました。 …しかもこの録画が映画なのか、ミュージックヴィデオなのか、なんなのかも 私には全然不明、全然聞かされていない! そして、私のギャラはどこ!? どこ!? いつ払われるの!?!?!?   でも、私はそんなハプニングがあっても博士論文のリサーチに邁進!   私が今読んでいるのは、19世紀に段々解明されて来た知覚のメカニズムについて。 元々の知覚の理解は、現実と言う物があってそれをそのまま受け取るが知覚だと言う物。 でも、それに主観が入るのでは?と言う考えが19世紀に起こり始め、 最終的に、知覚をどのようにコントロールすることで現実との関係に主体性を持てるか、 と言う所まで発展。 その延長線上で「音楽を聴くときは目を閉じる」と言う事になるらしい。 その科学的解明も徐々に段階を追って、なのですが、最初に1820年代にBell-Magendieの法則があり、その次にMullerの特殊神経エネルギーの説が1830年代にあり、最後にヘルムホルツの光と色の知覚について1850年代に発表。始めは視覚のみで行われて来た知覚の解明がヘルムホルツによって聴覚まで応用され、それまで音響を物理で解明するのみだったのを「人間がどう音を知覚しているかと言う事を解明しなければ意味が無い」と言って聴覚と倍音の関係などを解明していく。   しかし19世紀半ば、あるいは後半に行われた科学的解明では19世紀初頭から浸透していた「音楽を聴くときは目を閉じて…」と言うのは説明できない...と困っていたら、今日、驚異的な事を発見。実は科学的解明が成される前に、ゲーテやショーペンハウアーが同じことを言っていたのです!   昔はすごい! 重力だけだと思っていたニュートンもなんか光とか視覚とかについて色々言っているし、ゲーテが視覚についてあれやこれや言って、それが科学なのか主観に関する哲学なのか、わからないけど、あんた詩人じゃなかったの?みたいな。ショーペンハウアーも最新の科学を常に理解し、それを即自分の哲学に応用して発表!そして時たま科学的解明を待たずに自分の体験から学説を立てて、それが科学的立証を10年くらい先読みしてしまう、とか。   みんなすごい! 音楽人生万歳!          

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書評:モダンな感覚中枢

音楽を聴くときに奏者を見ているのは邪道。 本当に聴くためには、視覚は遮断しなければ、聞こえない。 …こういう考え方が19世紀半ば、音楽や音楽会が神聖化されたころからあったらしい。 これが本当ならば、奏者も目を閉じて演奏するべき? ましてや楽譜を見ながらなんてとんでも無い?   この考えに科学的根拠はあるのか? 社会的背景はなんだったのか?   この質問を真っ向から教授にぶつけたら 「視覚と聴覚の完全な分離によって得る美的体験と言う19世紀半ばからの考え方には、主に視覚中心の視点の研究が主なのだけれど、興味があるのなら読みなさい」と4つの記事が送られて来た。   その最初がこちら: Caroline A. Jones著。Eyesight Alone: Clement Greenberg’s Modernism and Beauraucratizing of the Senses. (2005) この副題にあるClement Greenberg(1909-1994)と言うのはアメリカの美術評論家。抽象表現主義とその代表であるジャクソン・ポロックを擁護し、後には「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の運動を理論的に主導した。   なぜ、私が20世紀の美術評論家がいかに視覚に固執したか、と言う事を読んでいるんだ… 簡単とは言えない、送られて来た28ページの最初の5ページはそんな気持ちで読んでいたけれど、その内五感の完全分離の歴史に来て、面白くなった。   嗅覚は、視覚や聴覚と違って、より動物的でコントロールが効かず、野蛮な感覚とされてきた。その為、18世紀の工業革命近代化に始まる近代化・都市化ではにおいをどのようにコントロールするかと言う事が重大な課題となる。しかし、嗅覚と言うのは実は感情に直結している。嗅覚と感情は同じだ、とする心理学者さえいる。。。   聴覚については、20世紀に入ってからの録音された音楽や、都市化が進むアメリカでのジャズの話し、など私の論文には時代が進み過ぎている物が多かったが、それでもいくつか収穫あり。   まず、本。 Jacquest Attali著 Noise:The Political Economy of Music(1977) 音楽製作はそのまま、その時代と社会の労働基準を反映している、と言うテーマの本。 オケ奏者の引用がグー。(P.404)   それからヒットラーの引用(1938年) ”スピーカー無しに、ナチスのドイツ制覇は在り得なかった”   それからフロイドの引用(1923年) ”エゴとは体感から、つまり体の表面から引き起こされるものである”   ああ、急がないと。 今日は映画収録。 昨日、アルバイトでピアノを弾きに行ったら、そのまま今日の映画収録にスカウトされてしまった。この人が製作者。 https://www.youtube.com/user/shawnwellingdance

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ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは凄い!

「ロマンチックな演奏解剖学」の復習でBell-Magendie Law(ベル=マジェンディーの法則)が「聴覚と視覚は全く異なる」と言う学説を唱え、それによって人々は音楽演奏を「観て楽しむ」のはいけないこと、とし始めたと言う言及がある。   これの裏付けを取ろう、と今日は何だか随分生態学の歴史について読んでしまった。結局欲しかった裏付けは全く取れなかったのだが、最近名前をよく見かけ、(この人凄いな~)と思っていたHermann von Helmholtzと言う人についてもうちょっと読む羽目になり、本当に心の底から脱帽!すごい人がいるもんだ!   1821年に、ドイツのポツダムであまり裕福では無い家庭に生まれる。父親は先生。 病弱だったが、学力はずば抜けていた。高校で物理にはまる。   1838年:学費が払えず、普通の大学には行けなかったので、政府からの奨学金で卒業後8年間軍医をして働くと言う契約と共に学費無料で医学生となる。普通5年間かかるところを4年で卒業するのだが、何とその間、ベルリン大学に乗り込んで世界初の生態学者となったMullerの所で勉強し、生態学も勉強する。   1842年:軍医として働き始めるが、その間「エネルギー保存則」に関する研究を1847年に発表。   1849年:クーニグスバーグ大学に就任。反射神経に関する研究を発表し、のちに生態学と心理学の架け橋と言われる要素の一因となる。   その後、視覚に関する研究で検眼鏡を発明したり、三色説を打ちだしたり、三色説を応用して聴覚の知覚が耳の中での共鳴で起こると言う事に関する説を打ちだしたり、音色が倍音の数、種類、強さによって変わることを証明して、音楽理論を物理の観点から書いた本を出したり…。   兎に角多方面に貢献しているのである。   そして今日私は生態学の歴史を読んで、今まで理解していたと思っていた音楽史に新しい深さが出来た。これは感覚的な物もあるけれど、実は誤解していた史実が解明されたり、そう言う事もあったのだ。勉強と言うのは、色々な方面からやらないと死角が出てくる。私の場合は19世紀の、しかも前半に集中しているのでまだ出来るが、いや~、私は本当にものを知らない!でもだから、読むもの全てが新発見でワクワクする。   音楽人生万歳!  

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書評:「Sound Unseen」「Music, Sensation and Sensuali」

ここ二十年来の音楽学は変貌を遂げて来ているそうである。 最近では作曲家とその作品、それらに関する当時の哲学的・分析的言及のみならず 当時の演奏者や聴衆に関する研究、アマチュア音楽愛好家の活動や、 音楽家のパトロン、音楽産業の市場事情など、さまざまな角度から 実際の音楽活動がいかに行われ、いかに受け止められていたのか、 研究が進んでいるそうである。 だから私の博士論文のトピック「ピアノ演奏に於ける暗譜の起源」は「ホット!」なんだそうだ。   そう教えてくれたのは、去年ライス大学の音楽学助教授として就任して来たキーファー。 彼女の専門は、19世紀終焉から20世紀初期にかけてのフランスでの科学の歴史、五感の歴史がどのようにドビュッシーの音楽に於ける自然主義へと発展したか。 彼女が、私が先日ブログに書評を書いた「ロマンチックな演奏解剖学」を勧めてくれた。 http://ameblo.jp/makikochan6/entry-12186148890.html   その彼女が次に勧めてくれた本がこれ。 Brian Kane著、Sound Unseen: Acousmatic Sound in Theory and Practice (2014)   ピタゴラスはカーテンの後ろで講義をした、と言う伝説があるらしい。 音源の見えない方が、聞き手が音や音の伝達する情報に集中する、 と考えたピタゴラスの工夫だった。 カーテンに隠れて講義するピタゴラスに耳を傾けた聴講者を ギリシャ語で当時Akousmatikoiと呼び、 それが「音源が見えない、音源が明らかでない音」と言う意味の英語、Acousmataになった。 Acousmataの例は宗教的な逸話や、科学が発達する前の自然現象など、色々あるが 引き起こす反応は大きく二つ。 1.音源を明かそうと躍起になる。 2.恐怖心、好奇心、畏怖の念、宗教心などに満たされる。(「崇高」?)   これは、私の論文に直接使える! 「音源」を楽器や奏者とせずに「楽譜」として(これはベートーヴェン以降の絶対音楽に於いて19世紀ごろから出回り始めた不思議な概念)、楽譜を使わずに暗譜で行う演奏を「Acousmata」=崇高とする。 …どうだ~~~!   イェール大学で教授を務めるBrian Kane博士はこのピタゴラスの伝説が実は事実無根である事をまず解明し、なぜこんな伝説が出来たのか伝説の歴史的重要性を追求するなど、音楽学者では無いの?と言うような緻密は研究で本の最初の章を始めたりするのだが、私はそこは読まずに割愛。その後、本は録音の市場、BGMの氾濫、電子音楽へと飛躍。そこも私はスっ飛ばす。   私が興味あるのは4章目。見えない音楽、演奏の要素から切り離された音楽は「絶対音楽」。それを正しい状態で正しく聴いた人間は、超越体験をすることが出来る。ワーグナーはバイロイトの自分の「総合芸術」を演出するオペラ劇場でオペラを完全に客席から見えないように、角度とピットの蓋に工夫をした。しかしその前にすでに18世紀末から「目をつぶって音楽体験」と言う記述は絶対音楽に於ける崇高の概念を打ち出した物書き、Wackenroderなどによって提示されていた。などなど...   この本にもKantやSchopenhauerが沢山出て来るのだが、この本は焦点がはっきりしていることと、KantやSchopenhauerの引用がトピックにはっきりと関連性がある事などから、とても読みやすかった。それにしてもこの人は歴史・哲学・電子音楽と実に多様な事に言及している。なんだかスーパーマンに思えてくる。そして私よりも5年くらいしか年上じゃない。ガーン。   キーファーの他に、私は最近、物凄い学者さんと親しくなってしまった。 先週私が講師として参加したArtsAhimsaと言うアマチュア向けの室内楽音楽祭で ヴァイオリンの受講生として参加していた女性が実はコロンビア大学やバーナード大学の教授をし、色々な財団から受賞をしているすごい人だったのだ!ミルクの歴史的背景や社会背景を中世から現代にいたるまで描いた本を2011年に出版している。ArtsAhimsaの図書館にあったその本を私は音楽祭滞在中に二章ほど読んで「この人は凄い!」と思い、自分の博士論文についてアプローチした所、意気投合してしまい、文献の紹介や意見交換など物凄く話し込んでしまった。でも私は博士論文を書いている学生。向こうはアイヴィーリーブの教授。年齢も一回り違うし…と、ちょっと遠慮していたのだが、音楽祭から帰宅した翌々日、とっても長いメールが来て、私との意見交換がいかに新鮮だったか書いてあったのだ!そしてもう一つ文献を紹介してくれた。   Linda Pyllis Austern編、Music, Sensation and

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練習の是非:強行軍の中休み

乾燥機が規則正しく洗濯物を回す居間の外で、雨が静かに降っている。 時々、雷が遠くで転がる。 メンデルスゾーンの二楽章を復習する合間に バニラとグレープフルーツ風味の白茶をすすりながら(ああ至福)と思う。 木曜の午後の締め切りぎりぎりまで論文のリサーチと執筆に没頭し、 翌朝、日の出前にLAに向かった。 昨日の夜中過ぎにカラカラに晴天のLAから帰って来て、 明日からマサチューセツ州の音楽祭で演奏と講師。 今日一日ヒューストンで、中休み中の実に久しぶりの練習。 「一日何時間位練習されるのですか」とよく聞かれるけれど、 今週は「一週間何時間?」だな~、と思う。 そして鍵盤の感触、楽譜を読むと言う行為、ピアノの音の新鮮さ、 メンデルスゾーンの素晴らしさに、一々感動している自分を発見する。 練習しすぎると感動が亡くなる。 19世紀の練習に対する考えは大きく真っ二つに分かれた様だ。 片方では「一日18時間!」と謳うピアニストのグループが在った。 ヴィルチュオーゾ・スーパースターのリストは、 パガニーニの超絶技巧に打ちのめされ 「3度、6度、トレモロ、オクターブ、連打などの技巧練習だけに一日4-5時間」かけ 気が狂ったように一日中練習したそうだ。 生徒にも同じようにスケールのみに3時間かけることを進めたりし、 (ただし、強弱や調性を色々変えながら) 退屈さを紛らわらせるために本を読みながら練習すると良い、と進言までしている。 ヘンゼルは聖書を読みながら一日10時間バッハを「音無し鍵盤」で練習し、 ドライセックは一日16時間の練習をこなした、とされている。 彼らが目指していたのは、意識しなくてもどんな技術でも弾きこなす手、である。 手(や技術)と意識や音楽性や個性を切り離して考える考え方には 彼らなりに当時の医学や科学で論理付けをしていたらしい。 ロバート・シューマンは、自分の手に「宣戦布告」までしている。 この「練習すればするほど良い」と言う「質より量派」の考え方は 少なくとも一部は工業革命の結果、と言えるのではないか。 「分析可能なら量産可能」と言う考え方の元、 兎に角量や数をこなす事によって究極的に質の向上まで持っていく、と言う考え方。 音楽教育では練習の補助のための機械(メトロノーム・指をつるし上げる機械、など)が 一時はプロシアの学校に配布されたり、 グループ・レッスンが行われたり、ピアノ教則本が爆発的に売れたりした。 ピアニストも量産可能なのか? 一日十時間練習するえば、誰でもヴィルチュオーゾになれるのか? …それだと、「ヴィルチュオーソ」の希少価値が失せ、 ピアニストの芸術性に関する疑問符が湧いてくる。 「質より量練習派」に相反する考え方だったのが、 「一日3時間以上の練習は無駄」派。 こちらにはショパン、 クララ・シューマンの音楽教育を全て管理したクララの父親、フレドリック・ヴィーク、 そして大人になって独立したクララ自身、等が居る。 クララの父親は「自然に帰れ」のルソーや教育論者のパスタロッツィの概念を受け 「感覚で最初に学び、その後知覚する」や「人間全体を見た音楽教育」を謳い、 クララが幼少の頃から3時間の練習のほか、3時間の散歩(早歩き)を義務付け、 もう少し成長してからは、その他に芸術鑑賞や作曲の教育など、を実行した。 (その代り、学校は「時間の無駄」とされ、クララはほとんど通わなかった。) 諸事情から、成人後家族の大黒柱となって教育活動や演奏活動を手広く行ったクララが 自分の子や、孫の養育まで手掛けていたのを考慮すれば、 彼女は一日10時間も練習する贅沢を許されなかったことは明らかだが、 その上彼女は膨大な量の日記や手紙を執筆している。 この二つの考え方の根本には、「何を『崇高な』芸術とするか」と言う事があると思う。

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