博士論文

楽器奏者は奴隷!?

昨日、Houston Balletの「ジゼル」を見ながら、凄い事に気が付いてしまった。 クラシックバレーと交響楽団はルーツをシェアしている。 「太陽王」ルイ14世の宮廷である。 ルイ14世はは1638年に生まれ1715年に77歳で死んでいる。 5歳に戴冠されてから死去まで、72年間と110日間、王座にあった。 この人がバレーが大好きだったのだ。そしてバレーにはオケの伴奏がある。 ルイ13世の時代(1610-43)からすでに「24人のヴァイオリン」楽隊は有名だった。 が、ルイ14世の時代では無くてはならない存在。 ルイ14世がいかに踊ることが好きだったか、当時の政治がいかにバレーに左右されたか、 そしてそれに非常に関わった作曲家のLullyと劇作家のMoliereの事が知りたければ 「王は踊る」と言う映画がお勧め! YouTubeでは日本語が見つかりませんでしたが、ちょっとだけダンスシーンをこちらで。 さて、この史実の私の暗譜に関する博士論文に於ける重要性とは。 暗譜の前にまず、装飾音を足したり、書いてる譜を元に即興したりしないで、 書いてある音をそのまま忠実に再現する、と言う行為が暗譜に先立つ。 それから、「作曲をしたい」と言う野心を持たない、弾くことに徹する奏者も。 これが実際に沢山必要になったのが、 オーケストラと言うのが確立した音楽ユニットになった時。 そしてバレーだって、群舞に於いては、振り付けを忠実に再現する踊り手が必要になる。 こういう風に書かれたことを忠実に再現する奏者(あるいは踊り手)が 「芸術家」と言えるのか? むしろ、奴隷では? 私が「奴隷」と言う極端な言葉を使うのには意味がある。 ボエティウスが現存する最古の音楽理論誌で音楽を三つに分けている。 ムジカ・ムンダーナ(musica mundana, 『天上の音楽』) ムジカ・フマーナ(musica humana, 人間の音楽) ムジカ・インストゥルメンタリス(musica instrumentalis, 楽器の音楽) かれはこの3つにヒエルアーキーを付け、 3つ目の楽器を演奏するものを 「楽器の技を見せびらかすことだけに集中し、 他には何の思想も論理も持たない、奴隷」と呼んでいるのである。 暗譜(と言うか暗譜を忘れる恐怖)は、音楽学生を練習へと駆り立てる。 授業なんかそっちのけで練習するため、 音楽の構築とか、和声の理論とかを学ばずに学部を卒業するピアニストは多い。 この人たちは幼少の頃から訳も分からずに覚えるまで繰り返すことで切り抜けて来ている。 しかし、「訳も分からず繰り返して覚える」と言うのは子供の特権。 Random Memoryと呼ばれる記憶力は13歳でピークを迎える。 それ以降はAssociative Memory 「意味付けで覚える」と言う記憶法で補っていかなければいけない。 しかし、音楽に意味を成すことを学んでこなかった(あるいは教わらなかった) ピアニスト達はどうして良いか分からなくなる場合が多い。 神童の多くが「ただの人」になってしまうのは、こういう理由も多い。 じゃあ、どうすれば良いのか? 暗譜と言うのは本当に音楽の習得・演奏に必要なのか? なぜ、ピアニストは暗譜で演奏をすると言う伝統が出来上がったのか? その歴史的背景は今この現在にも、当てはまるのか? […]

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ワーグナーがユダヤ人だった!?

ヒトラーにユダヤ人の血が流れていたかも知れないと言う説は 手塚治虫の「アドルフに告ぐ」などでも扱われ、割りと良く知られていると思う。 でも、ワーグナーがユダヤ人だったと言う説は、 少なくとも私は今日知り、驚愕している。 なぜ私がこの説に今日行きついたのか? またまた、博士論文のリサーチのためである。 女性が暗譜と言う演奏様式に貢献した、と言う有力な説に関するリサーチはすでに 一月17日付けの「女流ピアニストの進出がピアノ演奏様式を変えた!?」で書いているので ここでは割愛しますが、 実はエキゾチシズムで憧憬の対象になったのは他にもジプシーやユダヤ人などが居て、 それぞれ全く違った形で暗譜と言う演奏様式の確立に貢献しているようなのです。 ジプシーは文盲に固執することに於いては文字も音楽も同じで、 しかしその即興演奏はリストやブラームスを魅了しています。 その楽譜を使わない「自由」で「自然」な奏法が 特にリストの暗譜奏法につながったとする説はAlan Walkerなどが唱えています。 ユダヤ人は女性と同じく、ヨーロッパの白人男性社会に受け入れられたく、 しかしその社会的抑圧からコンプレックスがあり、その中で溶け込もうとする努力もあり、 秀でてくる音楽家が多くありました。 例えば、一番有名なのはメンデルスゾーン、オペラ作曲家のマイヤービア、 ブラームスと共演したヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム、 ピアニストのアントン・ルービンスタイン、モシュレス、タウジッグ、などなど。 これ等ユダヤ人作曲家が一般的に比較的保守的で、 ユダヤ人奏者が皆過去の偉大な作曲家のリヴァイバルに務める傾向が強かったのを その人種・文化的コンプレックスに理由づけするのは無理でしょうか? そして、女性と同じく、彼らがバッハ・モーツァルト・ベートーヴェンと言った 過去の巨人たちを暗譜で演奏する傾向が強かったのは、 女性と同じく、自分たちの能力を認めさせたいと言う事の現れのほかに もう一つ、ユダヤ人の文化と言うのがあったようです。 色々な土地を追われ、迫害の歴史が長いユダヤ人の文化では 自分たちの聖書を焼かれるなどの迫害の被害にある事も多く、 その為「記憶する」と言う行為が特に強調されていたのです。 この事に目を付けていた私がNYでその話をしていたら、 最近「Wagner’s Jews」と言う題でドキュメンタリーを製作した学者にあった、と言う人が 紹介をしてくれました。 Wagnerは歴史に名を残すユダヤ人嫌いで、 ヒトラーはワーグナーとワーグナーの音楽をプロパガンダに利用しました。 その為イスラエルではワーグナーの音楽上演が禁じられているほどです。 しかし、このドキュメンタリーではワーグナーが生涯を通して 親しく付き合った音楽家の多くがユダヤ人で、 これらユダヤ人音楽家はワーグナーを崇拝していた、と言う 一般的歴史的見解とは異なる史実に焦点が当てられています。 こちらで予告編が見られます(英語です)。 この人とメールのやり取りをして、この人のプロジェクトに興味を持った私が この人の文献を読み進めていると、驚愕する学説に出会ったのです。 「ワーグナーの反ユダヤ主義は、 ワーグナーが自分がユダヤ人かも知れない事実を全力で否定する必要があったからだ。」 詳しくはこちらでお読みいただけます。 WAS WAGNER JEWISH?~An old question newly

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19世紀の音楽批評

19世紀の音楽批評を論文のために多く読んでいる。 面白い。 吹き出してしまうこともしばし。 「筆者はこんなにひどい曲は聞いたことが無い。」とか しかし、この「筆者」は無記名なのである。 19世紀は啓蒙主義や、貴族社会崩壊、宗教の圧力の軽減などから 歴史的にもかなり色濃く個人主義の時代だったようだ。 『自分が大事!』と言う姿勢が奨励され、 結果「自分が感じる事」「自分が思うこと」が少なくとも自分にとっては大変重要で その結果、例えば私生児の数がすごく増えたりとか、そういう副作用もあったらしい。 だから批評も歯にきぬを着せぬ、と言うか。 でも同時に賄賂や、友人・知人びいきとか、そういう事もあったし、 何しろ記事の非常に多くが無記名で、そうすると信憑性が薄くなったりする。 これ等の記事を読んでいくのは本当に面白くて いつまでも読んでいられるのだが、さてこれらをどのように自分の論文に役立てようかと言うと 中々難しい。 でも、書くと言う行為は後世の意見を左右する大変な事である。 そういう認識を持たずに、書きまくっていた、出版しまくっていた19世紀。 その書かれ残った歴史と、実際の当時の現実とのギャップをどのように埋めるか。 歴史と言うのは本当に水物である。

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拍手はどこですれば良いのか?-クラシック音楽会

「絶対に終わりだ!」と思ったところで奏者をねぎらうつもりで思いっきり拍手をしたらば 他のだ~れも拍手をしておらず、なぜか白い眼で見られて恥ずかしくなった… クラシックの音楽会でこういう経験をした人は少なくないと思う。 なぜ、楽章の終わりで拍手をしてはいけないのか? なぜ、ジャズなどでは難所の終わりは拍手でねぎらうのに、クラシックではしないのか? オペラだってアリアの終わりに、オケがまだ演奏していても拍手が起こるのに? 本当に拍手は皆がする時だけしかしちゃいけないのか? この事を歴史的に検証した面白い記事を見つけたので、要約します。 Robert Ricks “Are Our Audiences ‘Skeered (Scared) to Clap?’”A Brief Survey of Applause Practices,” Journal of the Conductor’s Guild 16, no. 2 (1995): 66-75 モーツァルトやハイドンが生きた古典派の時代(1750-1825)は 楽章の終わりで拍手するのが当たり前だっただけではなく、 交響曲の一楽章だけを演奏したり、 また全楽章を通すときでも聴衆が気に入った楽章のアンコールを要求したりしました。 モーツァルトの交響曲「パリ」は パリでの演奏の際、全楽章とも終わる度に拍手で迎えられたのですが、 2楽章の拍手が少なかったためにモーツァルトは新しい2楽章を書き直しました。 この1楽章と終楽章は、楽章演奏中に聴衆が拍手することを期待し、 その様に書いた、とも言っています。(父への手紙の中) ベートーヴェンの有名な第九もスケルツォの楽章のティンパにの箇所で 聴衆が興奮のあまり我慢しきれずに拍手を始めたそうです。 1882年ににブラームスの交響曲第一番を指揮したハンス・フォン・ビュローは 第三楽章の拍手が最初の二楽章より少ない事に不満を覚え、 勝手にもう一度第三楽章を演奏しなおしたそうです。 19世紀のパリでは奏者が「サクラ」をしばし起用しました。 勿論、バイト料を払って、です。 サクラの効果は絶大で、時には曲の正直な評価が全く分からなくなるほどでした。 サクラが払えない奏者ように、ハンドルを回すと拍手に似た音が出る 「拍手マシーン」なるものまであったようです。 一方、メンデルスゾーンやシューマンなどは楽章終了の度に起こる拍手を嫌い、 それもあって楽章と楽章の間にトランジションの音楽を書いたようです。 有名なメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も一楽章と2楽章がつながってますね。 ワーグナーもこのような拍手で自分の芸術が邪魔されることを嫌いました。

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「口がさびしい」のは実感が乏しい時!?

「博士論文執筆中に太った」と言う人は多い。 受験勉強中も、同じだと思う。 私も何かに付けて食べたくなる時がある。 今読んでいる文献は、19世紀の音楽史を理解する上ですごく重要らしいのだが、 原語がドイツ語で、その英訳を読んでいる上 言及する概念も政治史、哲学史、美術史と、私の及ばない分野にどんどん行ってしまう。 それに何しろ文章が長い! 特に長い文章を数えてみたら9段もあった! ので「~がああ~~~~、何を言ってるんじゃ~~」と分からなくなって 何度も読み返している内に目も頭もさまよって来て 気が付くと頭の中は全く関係ない事を考えたりしている。 (そう言えばMちゃんにご飯さそわれていたな~)とか。 今まで自分が考えるに及ばなかった考え方とか情報と言うのは、中々消化しにくい。 そういう時に、気が付くと口がさびしくなっている。 知識が頭で消化できないので、せめてカロリーを胃で消化しようとしているのだろうか。 今、ホットチョコレートをグッとあおって、 そのあまりのコクの深さにハッと思い当たった。 口がさびしい時に口にしている物は、ちゃんと味わって食べていないものが多い。 よし、「実感」をテーマに、まず食べるときはきちんと味わおう。 そして、分からないときは「分からない」と実感しよう。 どうやったら分かりやすくなるのか、工夫してみよう。 それでも分からなかったら深呼吸とかストレッチとか、 ちょっと視点を変える努力をしてみよう。 そしてできるだけチャレンジ精神で 知識を食べるつもりで口で発音しながら、情報をかみ砕いて行こう! 頑張るぞ!

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