書評:「ロマンチックな演奏解剖学」
私の博士論文「ピアノ演奏に於ける暗譜の起源」に意外に関連性のある文献を読んだ。 J.Q. Davies著「Romantic Anatomies of Performance」University of California Press, 2014 この本は作曲家たちが自分たちの体や感覚をどのように理解していたのか、 そしてそれによってどのように練習法や教授法、演奏法を編み出して行ったのかを 主に医学の歴史と言う見解から、読み解いて行く本である。 1830年代と40年代の歌手とピアニストを交互に一章ずつ扱って行くのだが、 私は歌手の章はスっ飛ばし、ピアニストの章だけを読んだ。 ショパン、リストの大敵Thalberg,そしてリストを中心に据えるピアニストに関する章は3つ。 途中でKalkbrenner, Czerny, Marie Playel, Henri Herz, リストの生徒など、 色々なピアニストについて結構深く言及したりもする。 ショパンの章では、ショパンのルームメートであり同郷の親友Matusqynskiが医学生で、その博士論文にショパンの尿道感染による排尿の困難が扱われたことから始まる。排尿に苦しんでいたショパンが、しかし適切の和音進行を聞くと、楽に排尿が出来ると言う現象。これをMatusgynskiは当時ある学派で信じられていた「Sympathetic Nerve」と言う概念で説明する。Sympathetic Nerveとは外界からの刺激で体が反応し変化する、と言う事(だと私は理解した)。これは排泄だけでなく、体液の活性化をも促し、活性化された体液循環はSympathetic Nerveをさらに研ぎ澄ますと言う良循環を生む、とされていた。例えば「汗」も体液で、指の皮膚を潤している汗を鍵盤に触れさせることでこのSympathetic Nerveを活性化すれば、より良い音楽家になれる、とショパンは考えていた。だからショパンは生徒に鍵盤に触れることにあれほど言及したのだ、と言う章。この章は私の論文にはあまり関係が無いが、その論点が面白かった。 次にThalbergの章。19世紀には感覚はそれぞれ全く違う世界を持っており、お互い邪魔しあう可能性がある、と理解されていたらしい。その医学的見解と、それから「音楽は見る物じゃない、聴くものだ!」と言うドイツ的(くそ)真面目クラシック態度がこの頃から浸透し始めていた。その為デビュー当時はステージの周りをThalbergの手を見たい観客が群がったけれど、途中から「Thalbergのテクニックは早すぎて見えない」「演奏中のThalbergが神々しくて見えなくなる」など、演奏会を「観る」のは邪道となったいきさつについて。ここで「じゃあ演奏者が楽譜を見るのも邪道?」と言うのが、私の論文との関連性。 最後にリストの章では、筋肉・腱など、演奏に必要な手がどのように医学的に当時理解されていたのか、それを受けてピアニストたちはどのように練習・演奏したのか、と言う章。リストは生徒に「一日3時間以上オクターブの練習をしろ」と言ったり、自身もトリル・オクターブ・3度・6度などの練習に一日十何時間も練習した時期もあったと言っている。その当時はクララ・シューマンの父親やショパンの様に「一日3時間以上の練習は無駄だ」とするピアニストが居る一方で多くのピアニストやピアノ教師は「練習時間は多ければ多いほど良い」とし、「退屈を紛らわせるために本を読みながら練習しろ」と言うピアニスト(Kalkbrenner, Henselt, Liszt)も居た。そういう練習で何を達成したかったのか。独立した手。自分の意志を持ち、勝手に弾いてくれる手、である。それをどのように医学的に正当化したか。 19世紀なんてそんなに昔じゃないのに、医学はこんなにも迷信に満ちていたのか!そしてピアニストたちは当時から練習や演奏を「科学」したがっていたのに、実は事実無根の「科学」に従って、「信ずるものは救われる」パワーで不思議な文化を創り上げていった。そして私たちはそれらを今でも(部分的に)伝承している。 この本は凄く読みやすかった。症例が多く、医学的言及は読みやすく図解などにされており、びっくりするような逸話も多くあり、学術書とは思えない、娯楽本の勢いで読み切った。しかし、逸話が本の7割を占めているような印象で読み終わり、逸話の背景にある社会像や医学的見解がどこまで理解できているかは不安。私の読解力不足の可能性もあるが、著者がそこをうやむやにした感も少しあり。