ゴールドベルグ変奏曲

人生の課題を一つクリアした気持ち

昨日は、すみだトリフォニー小ホールでリサイタルをしました。 振り返って見ると、22日のみなとみらいから一週間しか経っていないのが信じられないほど、いろいろ考えて、いろいろ反省・練習してきて、自分で言うのもなんですが、一皮脱皮できたような気持ちです。帰ってきてすぐ、録音を聞いてみました。まだまだ、ですが、でも、これから、という気持ちがします。 ゴールドベルグを弾く、と言うのは私にとっては一つの人生の課題だったのだ、と思います。そして昨日は一つの人生の課題をクリアしたような、大きな感慨が有りました。みなとみらいでは「ゴールドベルグでは眠くなってしまったが、リストではその迫力にびっくりして目が覚めた」と言ったようなコメントをいろいろな方から頂きました。でも、昨日は「それぞれの変奏曲がヴァラエティーが在って、面白くて、眠くなるなんて考えられなかった」と言って頂けました。 みなとみらいでの経験を経て、初めて分かったことですが、私のゴールドベルグ観と言うのはこういうものです。 ゴールドベルグと言うのは一つの大きな真実のようなものをいろいろな角度から検証しているような曲。そしてそれぞれの変奏曲はいつも新しい視点(ある意味、新世界)を提示している。だからそれぞれの変奏曲が、パっ、パっと、新しい観点を提示しなければいけないのだが、同時に「ゴールドベルグ」と言う一つの大きな世界を一貫して提示しなければいけない。 このことが自分の中ではっきりしただけでも大きな、大きな収穫でした。そして、ゴールドベルグをまがりなりにも演奏して聞いていただけるところまで来た、と言う物凄い感慨に、昨日の演奏後、襲われました。 11年前、日本で初めての演奏会を「海外で活躍する若手音楽家を応援する会」というNPOの働きかけでやらせていただいてから、私を支援してきてくれた人たちみんな。毎年、私の演奏会のためにいろいろ奔走してくれる、私の家族。そして今でも応援を続けてくれている「海外で活躍する音楽家を応援する会(なぜか、「若手」と言う言葉を抜かれてしまいました...)」。毎年お友達と誘い合わせて来てくださる聴衆の方々。長野や島根からも足を運んでくれる私の親戚。いろいろなアドヴァイスや意見交換の機会を与えてくれる音楽マニアの人たち。幼少のころからいろいろ教えてくれている先生たち...今、感謝の気持ちでいっぱいです。 私は本当に特権的な人生を歩ませてもらっていると思います。こうして音楽の修業と演奏を通じて、いろいろなことを感じ、考え、歩んでいく機会と時間を与えてもらっている。その恩返しとして私ができる小さな貢献は、そういう人生の歩みのプロセスを通じて私が得ているものを、乞われた時にシェアする体勢をいつもとっていくことだと思っています。昨日の演奏会の後、知人に東北の地震と津波の跡地をまわる、と言うお話をいただきました。私に何ができるかわかりませんし、怖い気もします。村によっては人口の40パーセントもの方が亡くなってしまったところもあるそうです。でも、こう言う機会をいただいたからには、行って私ができる精一杯のことをしたいと思っています。 演奏後は、特にちょっとでも自分で満足できる演奏の後は、ものすごい人類愛と言うか、そういう感情に襲われます。生きていて良かった、音楽をやってきて、良かった。私の人生に今まで関わってきてくれたみんなに、ハグをして回って、「ありがとう」、「ありがとう」、と言いたい気持ちです。 そしてまた、次の演奏前には、自分の人生をのろうのです。「なんでこんなこと始めちゃったんだろう。こんなに難しい人生、こんなに難しいこと。。。」、と。 ハハハ。

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ゴールドベルグを演奏する、と言う体験

この5月22日に、みなとみらい小ホールでゴールドベルグ変奏曲とリストのソナタで、リサイタルを行いました。ピアノ曲でも特に有名で、「大曲」とされている曲を二つ並べたプログラムで、気負いもあり、弾き始めた時は少しあせっていましたが、だんだん乗ってきて、とても詳しくて、毎年厳しい評価を下さるお客様にも「終わりよければ全てよし」と及第を頂き、客席からはゴールドベルグ、リストのソナタ両方に「ブラヴォー」を頂き、嬉しかったです。 しかし、まだまだ課題は多く在ります。反省をこめて、書き出してみようと思います。 ゴールドベルグ。 この曲で今私が特に難しいと感じる点は以下です。 ① 長い(リピートを省いても45分くらい)この曲を全体的に起承転結の方向性をつけ、初めから終わりまでお客様と一緒に(飽きさせないで)体験するためにはどうすればよいのか ② それぞれの変奏曲の特色をかもし出すための変化と言うもの、あまり変奏曲と変奏曲の間を空けずにパッと出すための自分自身の頭の切り替えはどうすればうまく出来るのか。それぞれの変奏曲が、その日の音響、その日のピアノにあったテンポではっきりと自信を持って弾き始めるのには、どうやって腹を据えればよいのか。 ③ 長い変奏曲の過程を経て、最後に冒頭の主題を繰り返す―その最後の主題を美しく弾くのは比較的簡単ですが、一番最初の主題の第一音から「ゴールドベルグの世界」にする為にはどうすればよいのか。 リストのソナタ ① ゴールドベルグより荒いつくりの曲のため、どうしてもゴールドベルグと同じ真剣さで弾けない。ゴールドベルグの緻密さは無いが、反面、誇大妄想凶のようなスケールの大きさがある。それを出すための演劇の要素をもっと研究しなければ。 ② ペース配分の問題。最後が一番の難所なのに、そこに来るまでに肉体的に疲れてしまっている。もっと計算して力を抜けるところで十分に充電して備えておける余裕を持とう。 ③ 速いパッセージや跳躍の技術的に難しい部分の合間にある、ゆっくりと歌い上げる情緒的な部分の緊張をどう保つか。少しだれ気味。 今週末の土曜日、墨田区のトリフォニー小ホールでも13時会場、13時半開演で同じプログラムで演奏します。 がんばるぞ!!

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ゴールドベルグ変奏曲のプログラム・ノートです。

「ゴールドベルグ変奏曲」と言う通称で親しまれるこの曲に、バッハ自身がつけた正式な題名は「2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏」(BWV988)です。「ゴールドベルグ変奏曲」の通称が定着したのはバッハと面識の在ったJ.K.Forkelによる史上最初のバッハの伝記(1802)に出てくる逸話―不眠症に悩むカイザーリンク伯爵が、眠れぬ夜の慰みにお抱え鍵盤奏者(ヨハン・ゴットリーブ・ゴールドベルグ)に弾かせるために委嘱した作品―ですが、これは現在は事実無根とされています。大きな理由としては、当時のゴールドベルグがこの曲の出版された1741年にまだ14歳であったこと、さらにこの時代こういう状況では絶対につけるはずの献呈が無いこと、などがあります。 ではなぜバッハはこの大曲を書いたのか ―この曲にはこの根本的な問いかけを促す、緻密な構造的こだわりが在ります。例えば三つ目の変奏曲はいつもカノン(輪唱)で、このカノンの声部間は同音から始まって9度まで一つずつ広がっていきます。そのカノンの数学的完璧さと、音楽的美しさの兼ね合いはこの世の物とは思えません。この9つのカノンにバッハは実に8つの違った拍子を使っているのです。これはただならぬこだわりです。 バッハ自身は副題として「音楽愛好家の魂の喜びのために」と記しています。『魂の喜び』と言うのはキリスト教の中でも特にバッハの信仰したルーテル派に置ける自己向上の喜びと言う意味があるようです。しかし、似たような副題をバッハは他の作品に用いていますし、なぜ『ゴールドベルグ』を書いたのかと言う説明には不十分かも知れません。 バッハがなぜゴールドベルグを書いたのか ―これは今まで沢山の音楽学者を翻弄してきた課題です。奇抜な物では占星学や神学を表現する為の音楽的象徴、と言うような物もあります。1737年にシャイベという批評家にけなされた時の、音楽で行った反撃だ、と言う見解はアラン・ストリートと言う学者が1987年に発表し、注目されました。もう少し実際的な学説としては1738年にドメニコ・スカルラッティが出版した練習曲集が30の鍵盤奏法の技術をくまなく駆使したソナタから成っており、それに触発され(あるいは対抗して)バッハにしては珍しく超絶技巧や、ユーモア、そして表現の幅を多いに探求したこの30の変奏曲を書いたのでは、と言う物があります。あるいは、バッハはただカノンと言う作法の可能性を模索したくて始めはカノンを同音からオクターブまで8つ書き、その後その周りの変奏曲を書いて一つの曲集としたのでは、と言う説もあります。 何にせよ、この曲は18世紀に出版されたピアノ曲としては一番の大曲であり、それは長さに置いてだけではありません。そしてなぜバッハがこの曲を書いたのか、そしてなぜこの曲がここまで音楽学者、奏者、そして聴衆をとりこにするのか、と言う問いかけには言葉で説明出来なくても、聞いて納得すれば良いのでは無いでしょうか?ゴールドベルグを聞く体験と言うのは、他のどんな音楽、どんな体験を持っても似るということの在り得ない、いわば別世界を垣間見ることだ、と私は思います。

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ジェラミー・デンクの公開レッスンでゴールドベルグを弾く

Jeremy Denkと言うのはこの頃ものすごい脚光を浴びているアメリカ人の若手ピアニストです。今週末、ポリーニがカーネギーホールのリサイタルをキャンセルしたとき、ピンチヒッターで代役を務めました。その時に弾いたのがゴールドベルグ変奏曲とアイヴスのコンコード・ソナタです。物凄いコンビネーション。私は公開レッスンへの出場が決まって、選曲をゴールドベルグにしたときは、彼がゴールドベルグで最近ずっとツァーをしていたなんて知らなかったのです。 ゴールドベルグが難しいのは解釈の余地がやたらと広いからです。選択肢があまりにも大きく、そのすべてが曲の全体像を左右してしまう。つい今週末にカーネギーホールでこの曲を弾いた人に私のまだ青いゴールドベルグを聞かせるなんて。。。。 私の演奏を聴いた後(アリアから変奏曲10まで弾きました)の彼の第一声もそのことに関してでした。「この曲は選択肢が非常に広く、しかもその選択のすべてが個人的な趣味や方針、美的センスの反映される、物凄く個人的な曲だ。だから弾いたばっかりの自分が別の人の解釈について客観的に批判するのはとても難しい」。果たして彼はこの曲を私とはまったく違った視点から捉えていました。私はこの曲は個人的感情とかそういうところから離れた、もっと巨大で宇宙的な要素が大事だと思っていますが、彼はこの曲を弾くときは笑みを浮かべて弾かなければ、と私をしきりに笑わせようとします。とってつけたような笑みを弾きながら浮かべるなんて曲にも聴衆にもなんだか失礼な気が私はしてしまうのですが、「君はまじめすぎる。君のゴールドベルグもまじめすぎる」と言われてしまいます。 できるだけ彼の視点を取り入れた弾き方に変えようと奮闘しましたが、彼にも私にもちょっと煮え切らないレッスンとなってしまいました。(あちゃ~、やっぱり。。。)と少し悔しいような気持ちでいたら、レッスン終了後、彼が私に握手を求めてきました。「謝りたくって。。。自分の解釈以外の解釈でこの曲を聴くことは今の自分には無理だった。あまりにも自分の考えを押し付けすぎた気がする」。。。 う~ん、人間が大きいというか、こういう人間が成功するというべきか。。。とにかく少し、煮え切らない気持ちが解消された気持ちでした。

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ゴールドベルグ変奏曲

今年の夏ゴールドベルグ変奏曲を演奏する、と打ち明けた途端にびっくりして見せる同業者が多い。 私は今から考えれば物凄い無知の怖い物知らずだったので、何でびっくりするのか分からなかった。 確かにゴールドべルグは長い―繰り返しを全部やれば一時間以上かかる大曲である。 それから、これは2段鍵盤のハープシコード用と指定して書かれた曲で、 右手と左手が上下別の鍵盤で弾くことを想定して、 沢山交差したり、同じ音域で弾いたりするか所が在るので、 一段の鍵盤しか無いピアノと言う現代楽器で弾くと不都合がある。 そこまでの知識程度で挑んだのだ。 ところが。。。 これが物凄い曲なのである。 知れば知るほど、恐ろしい。 昔、息をして、食事をしていた生身の人間が書いたなんて信じられない。 単純に数字の面だけで言っても凄い。 有名なアリアが一番最初と最後に提示され、 その間にアリアのベースラインを基にした30の変奏曲が在る。 30の変奏曲はさらに、小さな3つずつの変奏曲に分けられる。 変奏曲1.舞踏曲、あるいはフーガなどはっきりしたジャンルに基づいた曲。 変奏曲2.手を交差させ、鍵盤技術を駆使する曲。 変奏曲3.カノン この3つ目のカノンがまたすごい。 最初のカノンは同じ音から始まる。 2つ目のカノンは2声目が1声目より一音高く、3つ目は2声目が1声目より二音高く、 と言う風に進んでいく。 その複雑さ、そして頭脳的な完璧さに反比例した完璧な美しさと言ったらこの世のものとは思えない程。 さらに、難しいのは歴史的正確さをどこまで責任を持って追及するか、という問題である。 バッハが意図した、当時の技法、美的感覚を再現することに徹するべきか。 それとも現代の美的感覚に訴えるべく、新しい解釈をするべきなのか。 ピアノ演奏をどこまでハープシコードに近づけるべきか。 それともピアノ演奏ならではの、ピアノの可能性を最大限に生かした演奏をするべきか。 さらに、数学的な完璧さ、と言うのは演奏家はどこまで意識する義務が在るのか。 余り意識し過ぎると、余りの恐れ多さに、解釈が出来なくなってしまう。 う~ん。凄い! 明日、NYの私の尊敬する恩師にレッスンをしてもらいます。

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