音楽人生

5年目の3月11日

5年前の3月11日。 私はヒューストンもライス大学博士課程も、まだほやほやの一年生だった。 ヒューストンの前の住まいだったLAからの友人の「大丈夫か!?」と言う連絡があったのが アメリカ時間の3月10日の夜。 たまたまノートパソコンが壊れていて、地震と津波が関東地方かどうかも分からず、 日本に電話してもつながらず、大変不安だった。 それから惨状を知った。 あれからもう5年。 あれからまだ5年。 被災者の方々、復興活動、復興支援活動… 色々な事を想うと、 この大惨事に自分自身の歩みを重ねるのがはばかられてしまうが、 でもあのイヴェントで私の人生観、音楽観、人間関係も大きく変わった。 コミュニティー、特に在外邦人として日本人コミュニティーとのつながりのありがたさを 非常に感じるきっかけとなった。 そしてコミュニティーに根付いた音楽活動、と言うこと。 沢山したチャリティーコンサートで今まで以上に音楽家である事の意義を感じ、 自分のこれからの活動を再考するきっかけになった。 一緒にチャリティーコンサートで頑張った佐々木麻衣子さんとの かけがえのない友情の発端ともなった。 あれから色々、色々あった。 5年。

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ヒューストンでぬか漬け、作ってます。

ほぼ毎日走り、毎晩9時間は睡眠を取り、 そして発酵食品と料理に凝り、生活を愛でている。 暇…では無い! 昨日は朝の8時半から夜の8時まで、途中の休憩と移動時間は正味2時間で頑張った。 その前日の水曜日は朝に教え、その後いくつかのミーティングを経て、 4時から7時まではヒューストン・ホビー空港を通過する旅人のために 音楽を奏でる、と言うアルバイトをした。 火曜日は正午に演奏会があった。 一つの演奏会をする、と言うことは朝から衣装を整え、 リハーサルの後、会場入りし、 スタッフとの顔合わせ、サウンド・チェックなどを経て、 やっと本番の演奏、と言う運びになる。 演奏後も裏方や事務スタッフへの御礼、今後のお仕事の相談、などなど。 1時間の演奏のためにでも、絶対半日はかかる。 そして勿論、本番当日前には演目・広報・ギャラ交渉・税金などの事務処理、 共演者との衣装その他の打ち合わせ、そして練習・合わせ、と 事務力と時間と注意を要する。 そしてその合間に練習をし、 いまだに続くストーカーの法的対処に関わり、 これからの演奏会の事務処理をし、 ここ3週間は手つかずの論文を恋しく、夢に見ている。 それでも私は、ぬか漬けを作り、夜は眠くなったら何を差し置いても寝る。 最近やっと、『我武者羅』の自己満足、そして非生産性に気が付いた気がする。 根性物の漫画のような頑張りは、私も経験したし、それはそれなりに楽しかったけれど、 身体と精神の健康在って初めて、 自分、自分の人生、そして周りとの関係を正直に愛でる事が出来る、と思い始めた。 そして、身体と精神の健康は、日常の積み重ねで作る。 だから私は朝は走る。 午後に本番があっても走る。 そして12時間教えて帰ってきたらぬかをかき混ぜ、野菜を処理してぬか漬けを作る。 そしてどんなに大事に思えることがあっても眠くなったらさっさと寝る。 そしてふてぶてしく、しっかり眠る。 そして、その全てを楽しんでやる!

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日曜日に焼くパンケーキ

エドは日曜日の朝7時に亡くなった。 私が16歳の時にホームステーをさせてもらってから、 私のアメリカン・ファーザーとして色々な形や場面で支援してもらった人だ。 エドは日曜日の朝はパンケーキを焼いてくれると言う伝統を何年も続けた。 ブルーベリーが入っていたり、バナナが入っていたり、 その週によってヴァリエーションがあったが、兎に角毎週焼いていた。 常時ダイエット中の私のアメリカンマザーのジョーンは一枚を食べ切ることさえ嫌がって、 私が祝日に訪ねていたりすると、いつも半分よこしたりした。 私もバターがたっぷりのエドのパンケーキは時々(う~ん)と心の中で敬遠したりした。 でも、エドご自身はいつもご自慢でご満悦のパンケーキだった。 バターミルクを使って、ベーキングパウダーをたっぷり使うエドのパンケーキは いっつもほわほわで、大量のバターの中で揚げるようにして焼くので、 外はカリカリ、中はホワホワ。 今から考えると、美味しかった。 ジョーンの電話は朝の8時にあった。 私に一番最初に電話してくれた。 ジョーンは泣いていたけれど、私は(エドは大往生だ)と思って、納得した。 91歳まで、基本的に健康で、好きな事を沢山して、死期も自分で決めて、 エドらしい生きざま、そして死にざまだったと思う。 電話を受けてから、すぐ買い出しに行った。 私は実はパンケーキなんて焼くのは生まれて初めてなので、 計量カップから小麦粉から、そう言うのをかき混ぜる物、メープルシロップ、 全てを買い揃えなければいけなかった。 絶対にパンケーキを焼こう、と電話を受けたときから決めていた。 でも、私は健康志向なので、バターの代わりにココナッツオイル、 そして小麦粉の代わりにそば粉やひよこ豆の粉や全粒粉や、 色々混ざった健康パンケーキミックスを買った。 フライパンでパンケーキを焼きながら、 子供の頃家族でホットプレートで食卓で焼いて食べたホットケーキや、 母がホットケーキミックスで作ってくれた揚げたてカリカリドーナッツや エドの日曜日のパンケーキや、 そう言う食事にまつわる思い出の深さや温かさや意味合いや、色々考えた。 そうして、自分で料理を作れるようになる、と言うことは、 伝統継承、独立、思い出、色々な意味合いがあるんだなあ、と初めて思った。 女子力の弱い私だけれど、これからはもっと料理を作ろう、と思った。 パンケーキは美味しく焼けた。 我ながら、エドのよりおいしく焼けた。 そしてエドは、その事を喜んでくれた、と思う。 エドのより美味しいかどうか、論議はしたと思うけれど、 私が私好みのパンケーキを作ったと言うことについて。 Life goes on. 明日の正午は演奏会! http://www.houstonmethodist.org/performing-arts/news-events/crain-garden-performance-series/

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弾くは愛でる、走るも愛でる。

今朝、走りに外に出たら新芽が木々の節々からほとばしり出た!と言う感じでびっくりした。 ヒューストンではすでに桜や木蓮、連翹などの花も咲き始めている。 本当に可愛い。 NJでは雪がちらついていた。 雪と雨の合いの子の様なみぞれの中を氷で滑りやすい水たまりをよけながら走った。 首をちぢこめながらスクールバスを待つ高校生の姿に 渡米したばかりで同じようにスクールバスを待っていた自分の姿が重なった。 思い出の中の自分も、ふくれっ面でスクールバスを待つ子供たちも、皆可愛い。 走る、と言うことは、弾く、と言うことと同じように 自分、自分の人生、そして世界を愛でる、と言うことなのだと思う。 毎日の練習が本当に辛く感じられた過去の一時期、 私は決意をした。 私の練習は、演奏会やキャリアのためではなく、一種の祈りだ、と決めたのである。 チベットのお坊さんは自分たちの読経は世界を平和にしている、と信じている。 あんなに過酷な運命の中で、まだ読経と瞑想を続けている。 私の練習も、そう言う物だ、と決めたのだ。 練習や、チベットのお坊さんのお祈りが実際世界平和に貢献しているか否かよりも、 自分が一番良い自分で居られる行為を意思を持ってする、続ける、 その事が世界貢献になる、と決める、その強さ。 それが、自分の中の人間性善説、そして自分の中の平和につながる。 私は、走る。 私は、弾き続ける。

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死にゆく人を見守る、と言うこと。

私のアメリカン・ファーザーが92歳の大往生を遂げるべく準備をしている。 心臓が悪くなって最近入退院を繰り返し、 先々週にまたもや水が溜まって入院した際に私のアメリカン・マザーのジョーンと話し合い 「もう退屈だ。もう良い」と二人で決めて、 治療・投薬・食事を拒否し、今はホスピスで鎮静剤だけを投与してもらって死を待っている。 そのプロセスに立ち会うために帰省している。 エドはもう発声も困難だが、私が行くと笑いかけ、ジョーンが行くとキスを求める。 でも、目を開けるのも意思の力、という感じで、後は昏々と眠っている。 むしろケアが必要なのはジョーンである。 エドの死後に備えて、一人では無い事を私や息子や友人との会話で確認し、 経理関係、家関係、車、電気・ガス・水道、通信、諸々の準備を整え、 自分の独立した余生を計画しなければいけない。 感情的な、不安とか、孤独とか、そう言うのを差し引いても、これは大変な作業である。 生まれてきたら避けては通れない過程だ。 私はジョーンとエドの生きざまと死にざまを見せてもらうことで、 さまざまな事を教わっているのだ、と思う。 しっかり立ち会う。 エドには運転を教えてもらった。 免許を取る時も一緒についてきてくれた。 私の演奏会の時は楽屋で手を包んで温めてくれた。 エドは親日家で日本語を少し話し、読み書きも出来た。 16歳でホームステーを始めてしばらくしたある日、 学校から帰ってきたらテレビに張り紙がしてあった。 「テレビは、だめ。れんしゅうは、はい」と書いてあった。 大笑いしたのを覚えている。 下校後いつもおやつを食べながらテレビの前で数時間ぼーっと過ごしてしまう私を 心配していたのだろう。 英語がまだ不自由な私は高校の宿題がいつも一人では終えられなかった。 だって渡米して3年目の私に古い英語でシェークスピアやベオウルフを読め、と言っても無理! 私が学校に行っている間にエドが(もう引退していた)その日の英語の宿題を 私のために予習して、ダイジェスト版を作って、私の机の上にさりげなく置いてくれていた。 それを毎日やってくれた。 当時はまだ家にコンピューターが無くて、全て手書きだった。 どうやって電車でマンハッタンに一人で行けるか、教えてくれたのもエドだった。 予行練習を一緒にやってくれて、 クライスラービルディングで豪勢なお昼をごちそうしてくれた。 大学に上がってからもちょくちょく帰って来て栄養補給をさせてもらった。 そんな時、よく長い散歩に一緒に出掛けた。 そして「美」の定義とか、「生命とは何か」とか、そう言うトピックで色々話した。 物理学者で、Semi conductorを作ったり、NASAになんだかパーツを収めたりして、 その講義などで戦後間も無い日本を含む、世界中を出張した人だった。 でも、私が知っているエドはもう引退後で、穏やかで朗らかでいつもリラックスしていた。 色々お世話になった。 本当に育ててもらった。

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