2010

私の好きなもの

私の家系は凄い近視である。家族全員眼鏡やコンタクトなしでは生活できないし、妹と私に至っては小学校に上がるか上がらないか位ですでに毎日眼鏡をかけていた。そう言う私たちの目を少しでも守ろうと、子供のころはテレビは一日一時間のルールが厳しく守られていた。でもだから、ときどきの例外は凄く嬉しかった。特にビデオが我が家に登場する前は、両親推薦の映画がテレビで放映される時は、夜遅くまで起きることが特別許可され、ミカンやお菓子や飲み物などが前もってテレビの前に用意され、家族皆で息をのんで映画に集中した。そうやって何回も見たのが、「サウンド・オブ・ミュージック」である。何回も見るうちに、妹も私も歌をすっかり覚えてしまい、最後のころは一緒に歌いながら鑑賞するようになった。10歳の時一か月入院した時は、サウンド・オブ・ミュージックのカセット・テープを両親に持ってきてもらって、同室の子たちと手をつないで病室を踊り回って、看護婦さんに叱られた。 そのサウンド・オブ・ミュージックの歌の中に「私の好きなもの」と言う歌がある。「泣きっ面に蜂」の時は、好きなものを思い出して元気を出しましょう、と言う歌だ。私は今別に「泣きっ面に蜂」状態のわけでは決してないけれど、今日は一杯練習して、少し疲れてしまい、ブログのトピックを考えるのがちょっと面倒だったので、(そうだ!考えたら元気が出るような楽しいことについて書いてみよう!)とちょっと思ったのだ。 私の妹は私と同じ誕生日で、ちょうど3歳違いである。今でもとっても可愛い妹だが、特にちっちゃい頃は私にとって本当に目に入れても痛くないくらい可愛い妹だった。まだ妹が3歳くらいのころ、初めてのお夕飯のしたくのお手伝いで、和えものを混ぜたことがあった。その晩、妹は「いただきます」を言ってから皆がはしを取って食べ始めても、自分は食べることをせずに家族の顔を一人一人じっと見て、「おいしい?おいしい?それ、あやがまぜたんだよ、あやがまぜたの、おいしい?」と聞いて回るのである。今でも思い出しては、笑ってしまう。 妹の思い出は、書き始めたら尽きないのだが、きっとこのブログも読むし、恥ずかしがらせてもいけないから、今日はここでやめて、早めに寝ることにします。

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旅の復習

今回の行程はこんなでした。 1・14(木)  8時半家を出る 8;58のNJ Transit(NJ州の電車)でNY Penn Stationに9:40着 10;15発のAmtrak(アメリカ国内を駆け巡る電車)で Rochester、NYに 4;52着 コルバーン卒業生(Rochester Philharmonicの団員とその夫)と夕食。 少し練習。 この夏のタングルウッドのルームメート(作曲家)宅に泊まり。 1・15(金)  Eastman School of Musicでの一日 2つレッスンを受け、公開レッスンとリサイタル(ある教授の生徒たちの発表会)を聴講。 夜はMercury Opera Rochester制作の「椿姫」を観る。 その後、オペラのオケで弾いていた友達の家に泊まり。 1・16(土) 10時に友達の家を出発 11時Rochester発のGreyhound(アメリカ国内を駆け巡るバス)で、Ithaca,NYに1時半過ぎ着 2001年以来の友達夫婦(夫は現在コーネル大学職員、妻は地域の図書館館長)にコーネル大学の美術館、教会、図書館などを案内してもらい、その後ハイキング。凄い自然。滝が沢山あってそれが80%凍っている。絶景。 1・17(日) Ithaca探検。Ithacaの町はヒッピーの町!? またまたハイキング、そしてIthacaのビール工場でビール試飲~無料で飲み放題! 1・18(月) 9:45Ithaca発のGreyhoundでマンハッタンに3時着。 4時から練習 夜は、友達と会う。 1・19(火) 朝、練習 午後 City University of NY視察、教授とお話。 夜、マリンバ奏者、作曲家、ピアニスト、スポーツ心理学者(兼いろいろ)、絵描き、彫刻家、とお鍋大会。 1・20(水) 朝ご飯と、昼ごはんの別々の友達と約束。途中は色々野暮用。 2;30にNJ州に帰ってくる。 今回の旅で一番心に残っているのは、Ithacaで見た凍った滝です。 そういう滝は沢山あったのだけれど、どれも凄く圧倒的だった。 それから色々なところで頑張っている私のお友達たちの生き様、そして哲学。 今年の5月でコルバーンを卒業する私はこれからの人生をどこでどう過ごすのか、今考え中です。 そう言う私を多いに刺激してくれる久しぶりの再会、そして白熱議論の1週間でした。 私は良いお友達に恵まれていて、幸せです。

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明日から、旅してきます。

私は旅が好きだ。 沢山旅をしたから好きになったのか、もともと好きだったから旅の多い人生を無意識に選んだのか? どちらにしても、音楽家になって良かったなあ、と思う理由の一つは色々なところを旅出来たからだし、これからも多分一杯旅をするからだ。観光とは程遠い、凄い田舎や、行ったことが無ければ地理の苦手な私は存在も知らなかったような国にも行った。凄いおもてなしを受けたこともあるし、物凄い限られた資金で物凄い貧乏旅行をしたこともある。 一度、こんなことがあった。ツアーをしているオーケストラに合流してコンチェルトのソロを務める、という仕事が来た。ニューヨークから現地入りをするのに、マネージメントがバスを手配してくれた。バスはアメリカでは一番安い交通手段だ。ちょっと安全性に乏しいというイメージがあり、私は大抵移動は飛行機か電車なので、バスで遠くまで行くのは物珍しく、バスの乗客も私が日常的に接しているのとは少し違ったグループに属している人たち、と言う感じがし、それはそれで結構楽しんでいたのだ。その演奏会場は非常な田舎にあり、最寄りのバス・ステーションから車で何時間も行かなければいけない。バス・ステーションからの交通手段は演奏会の主催者側が手配することになっていた。私にはただ「バス・ステーションに主催者側が迎えをよこしているはずだ」とだけ、教えられていた。 ところが、ひなびた感じのバス・ステーションについてみてびっくり!主催者が私の為にストレッチ・リモジンをよこしていたのだ。映画に出てくるような長~い車で、中にはバーもあるし、映画も音楽も自分で好きなものを選べるようになっている。天井も開くし、ラクラク寝転がれるくらい広いのだ。 私にはただそのギャップが面白かった。 随分話しが横にそれてしまったが、明日から5日くらい旅行に行ってきます。 多分ブログはしばらくお休み。

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パーティーで弾く、と言うこと

私がまだ初々しい学部生の時、先生がこんな話をしてくれた。 この先生はとても皮肉なユーモアのセンスに長けた人で、 いつも音楽家 vs。世界と言う、「いかに芸術や教養に理解の無い世界で戦っていくか」系の話が多かった。 彼自身の演奏会のあとの彼を讃えてのレセプションで、聴衆の一人「A」からアプローチされた。 A: 「素晴らしい演奏会でした。ところで、そこにアップライトがありますが、ちょっと弾いていただけませんか」 先生: 「ふ~ん、面白い提案ですね。ところで、あなたの職業はなんですか?」 A: 「私は医者ですが」 先生: 「素晴らしい職業ですね。ところで、そこに豚の丸焼きがありますが、解剖してみせてくれませんか」 パーティーに行くと、良く「ちょっと弾いてくれ」と言われる。 まだ若い時は、結構喜んで頼まれれば弾いていたこともあった。 でも、普通の家やパーティー会場、学校に在るピアノと言うのは必ずしも良いコンディションに無い。 弾いている最中にペダルがさびていて、「ポロッ」と取れてしまったことがある。 調律が半音以上狂っていて、私は絶対音階があるので混乱してしまって、散々だったこともある。 ピアノが大丈夫でも「弾いて」と頼んだのは向こうなのに、曲の最中に明らかに退屈されて悲しい時もある。 両親が帰国した後16歳で単身でアメリカに残った私はアメリカ人老夫婦に引き取られ、ホームステイをして高校生活の残り、1年半を過ごした。私はいわゆる「難しい年頃」だったし、英語がうまく喋れない恥ずかしさ、もどかしさ、寂しさで、非常にひねくれて、大変扱いにくい子供だったと思う。私のアメリカン・ペアレンツは大変善意に満ちた、古き良きアメリカ人だし、私が高校を卒業して約束の期間が終わった後でも私のピアノと私の部屋をそのままにしておいてくれ、今では本当に家族だ。でも本当に「家族」になるまでは、山あり谷ありの道のりだった。一番の険悪の原因はいつもこの「パーティーでの演奏」だった。社交好きの夫婦だから、ほぼ毎週お客様をする。お客さんは大抵私より何世代も年上である。言葉の壁もあるし、共通の話題も無い。"Children should be seen, not heard (子供は見て可愛いだけで、口を開かせるものではない)”と言う憎たらしいアメリカのことわざがある。私はいわゆる“child"と言うには年齢も自意識も過ぎていたが、言葉のハンディキャップにおいても、「好意で受け入れてもらっているアジアからの留学生」と言う立場上も、「子供」だった。私は食事中は黙りこくり、お皿の出し下げ、飲み物を継ぎ足したり、お手伝いに徹する。そして食事が終わり、アメリカン・マザーがデザートをを準備する間、 即されて、ピアノを弾く。始めはせめてものお返し、と言う気持ちもあったし、特に問題意識は無かった。でも明らかに迷惑そうに耐えているお客もいる。ポップスのリクエストを出したり、私の演奏について物知り顔で批評をするお客もいる。BGM扱いで喋り続けるお客もいる。逆に泣いて感激してくれたお客さんだっているし、良い演奏の練習になったと考えられなくもないのに、なぜこんなにこの「パーティーでの演奏」に嫌悪感を催すようになったのか。何度も怒鳴りあいのけんかをした。お客さんの前で派手にやりあったこともある。つたない英語で、何度も説明しようとした。私にとって音楽は宗教の様に大切なもので、でもあなたにとってはエンターテイメントでしかない。人の「宗教」を指をさして面白がったり、人に見せびらかして自慢したり、食後の娯楽にしたりするな! でも、そこまで言ってしまったら、演奏会で演奏するのだって結局だめになってしまう。ショーンベルグは理解の無い一般聴衆、そして言葉の尽くして彼の作曲をこき下ろす批評家に業を煮やして、招待された理解者しか聴衆の一員に入れない毎月一回の演奏会を始めた。ミルトン・バビットは「Who cares if you listen?(聴いてくれなくたって気にしない)」と言うエッセーを書いた。その趣旨は作曲家が聴衆に媚を売る様になったらおしまいだ。大学などの教育機関が作曲家の生活を保障し、作曲家の生活がチケットの売り上げと関係無くするべきだ、と言う非常に反感と注目を浴びた歴史的なエッセーだ。私はミルトン・バビットと同じなのか?クラシック音楽は美術館や、博物館や、大学だけに存在するもので良いのか? 昨日、ジョーン(私のアメリカン・マザー)の75歳の誕生日パーティーが盛大に開かれた。保護者は、私の言い分を理解したわけではないが、喧嘩を避けるためか、尊重を態度で示すためか、もう何年も私に演奏を強要をすることをしていない。でも先週、何年かぶりに「今度のパーティーで弾くのも、いやなの?」と泣き声で聴かれた。私は一週間迷い続けた。私の言い分は理屈にかなっているのか。私自身のピアノは地下にあり、パーティーで演奏する、居間に在るピアノは、ワインの染みが痛々しい、ほとんどインテリアの為に買われた家具の様なピアノである。 音色がどうの、歌心がどうの、と言う余地のない、不本意な演奏になる。でも、サロンで演奏して金持ちとこねを作らなければ、音楽家として生活を立てられなかったロマン派の作曲家はどんなピアノでも弾いたはずだ。そして、貴族の召使として作曲や演奏をした、古典派の作曲家は、どうなるのだ。音楽とは、何か。「芸術」と「娯楽」の違いは何か。 高校生だった私に選択の余地がほとんど与えられていなかった、と言うことが一番の問題だったのかもしれない。これは私の音楽を大切に思う気持ちよりも、若かった私なりの最後の自己主張だったのかも。それに、今は私のアメリカン・ペアレンツもどんどん高齢になって来て、私は大人になり、晴れて英語にも不自由しなくなり、私は前の様に弱い立場ではない。私が強く拒否すれば、向こうは受け入れるしかないし、私が弾く選択すれば、喜んで感謝してくれるだろう。それでも一週間迷ったのは、ここで弾いてしまったら高校生の自分を裏切るような、あんなに一生懸命主張したことを覆すような、はっきり言って悔しい気持ちがあった。 音楽とは、何なのか。今、音楽セラピーに関する本を読んでいて、音楽の生態学的、神経学的効果に目からうろこが落ちる思いで読んでいる。高校生の私がそんなに苦労して弾くことを拒否したのには「どうせ分かってくれない癖に」と言う高校生特有の傲慢な論理があったと思う。でも、「分かる」「分からない」に関係無く、音楽に時空を超えた普遍的な「人間性」をコミュニケートする力がある、と信じるから私はこの道を選んだのではないか。高齢になり、リュウマチで毎日痛み止めを飲んだり、階段の乗り降りに苦労している、私を本当の子供のように可愛がり、私のわがままにも付き合ってくれた老夫婦の、頭では無く、痛むひざ、疲れた心臓の為に、弾く選択を、しよう。 弾いた。 40人ほどのお客さんが、びっくりするほどシーンとして聴いてくれた。ジョーンは泣いて、喜んでくれた。 弾いて良かった。

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