2010

「ポーエトリー・スラム」に行ってきた。

Newyorican Poets Cafe ("Newyorican"と言うのは造語で "New Yorker(ニューヨーク人)"と言う単語と"Puerto Rican (プエルトリコ人)"と言う単語を足して二で割って出来る。)と言う、私は今まで全然知らなかったけど、その世界では超有名な場所に行ってきた。何が有名かと言うと"Poetry Slam"と言う、詩の朗読のコンクール見たいなものの全国大会の発祥地として、そして今でもそのメッカとして。コンクールへの出場権を獲得した詩人たちが、観客の前で自作の詩を読みあげ、それに観客の中から選ばれた審査員がスコアを付け、予選、二次、そして本選と最終的に優勝者を決めていく。この「詩のコンクール」は、シカゴ、そしてサン・フランシスコで1980年代半ばに発祥、次第にニューヨークまで来て、アメリカ全体に広まったが、その後世界中に広まっているらしい。   私はこの詩の朗読大会に色々なものを期待して行った。きっと色々な人が色々な芸術的実験をしているに違い無い。常識や固定観念をぶっ壊してくれるようなものに巡り合えるかも知れない。新しいものに出会いたかった。自分の日常から脱出したかった。 始めは本当に息をのむような思いがした。まず空間から非日常的だ。倉庫のような吹き抜けのレンガ造りのだだっ広いスペースの一角にバーがあり、壁の一部にちょっと高くなっているところがある―これが、ステージだ。そこに人がぎっしり、本当にぎっしり入っている。身動きが出来ない。日本の通勤ラッシュ程ではないが、日曜日の午後のデパートのエレベーターくらいの混み具合。その皆が息をのんで、詩の朗読を聞き、ゴスペル教会のように、相槌や合いの手が入る。詩そのものは非常なリズム感があり、はっきりとした韻が抑揚のある読み方で強調され、非常にエネルギッシュでかっこいい。 ところが、2人、3人と進むにつれて、段々違和感が生まれてきた。 皆、似ているのだ。 虐げられた人間、抑圧的な社会の被害者、と言う視点からの詩、ばかりである。その理由は、性差別、人種差別、、レイプの被害者、同性愛者、トランスジェンダー、いじめの被害者、など多様だが、皆、どんな悲劇を通り抜けてきたか、どう言う怒りを感じるか、でもそれをどうやって乗り越えていくか、と言う起承転結なのである。そして読み方も静かに、クールに始めて、段々熱して来て、早口になり、声を高めていき、叫んで、そしてまた静かに戻る、と云うものが多い。スピードを増したままで終わるものもあるが、まあ、そう言う感じである。 確かに、エネルギーはもらった。 皆、ああやって詩を読むことで、自分のやるせなさに方を付けているんだ、と言うことも分かった。 でも、なんだか宗教とか、ある儀式を目撃した気持ちだった。 それはそれで、良いのだが。

「ポーエトリー・スラム」に行ってきた。 Read More »

分かった!

1月7日付で書いた「自分の耳を信じる」と言うブログで、このごろ色々な先生にもっと音楽と自分の感情・感性・勘を信じて、考えることを忘れてもっと聴いて弾け、と言われ続ける、と云った趣旨のことを書いた。その文中で引用した3番目の先生にはそういう抽象的なことのほかに、随分テクニックの注意もされた。私はもう学生としてはかなり年齢が行っているし、子供の時の先生がしっかり指導して下さったおかげで、テクニックの不自由はほとんど感じたことが無い。意外に思いながら、この先生が何を私に伝授しようとしてくれているのか、一生懸命指導に従おうと努力し、その後もずっと考えていた。 ちょっと技術的な話になるが、かいつまんで説明するとこの先生が私に繰り返し言われたことは、私の身体はパッセージを弾く時に指とひじが別の所に在る、と云うものだった。肘が指が次に弾くべきところまで先に行って、肘でリードするような形になっている、しかしそうではなく、どんなに速いパッセージであってもきちんと一つ一つの音に身体を全部預けてみろ、準備をするな、先走るな、と言う指導だった。 この1月7日付けの記事にはありがたいことに色々な方から貴重なご指摘を頂いた。 他の先生に言われたことも照らし合わせながら、今練習しながらツラツラ考えていて、ハッと閃いてしまった。 「聴け」と繰り返し言われたことも、この先生の技術指導も、全て「今、現在に集中しろ」と言うことではないのか。 音楽は時間の芸術だ。今、何をどう弾いたか、次に何が来るか、全体構築はどうなっているか、全てを把握しないと安定した演奏が出来ない。でも、余りそう言う全体像や、次に来る部分のことばかり考えていると、実際の音が聴けなくなってしまう。これはバランスの問題で、反対にその瞬間瞬間に集中だけしていたら、支離滅裂な演奏になってしまう。しかし、今の私は多分、先と前を考えすぎる余り、実際の音が作り出す空気の振動や、その時の自分の受体勢をおろそかにしているのでは。 おお~、こうやって書き出してから気がついたが、これは今の私の人生観にも当てはまるかも。おお~。。。

分かった! Read More »

幸せについて

ポジティブ・サイコロジー、と言うのが最近新聞やテレビで話題になっている。 自分の過去や現在の問題に注目するのではなく、どうやって幸せになるかと言うことを研究する心理学だ。 色々な学者が色々な統計を発表して、そのたびに結構面白い。 例えば、周りの人間の幸せ度、と言うのは本人の幸せ度に大きく関係するらしい。友達の幸せ度は15%、友達の友達(例え、直接知らない人間であっても)は10%、人生の伴侶に置いては45%、とか。これをパーセンテージで示すというのもまた面白い。ここではちょっと面倒なので説明しないが、かなりきちんと論理立てて計算してある。 それから、どう言う状況の人が自分を幸せだと考えるか、という統計もある。これらの統計は全てアメリカの統計なので、日本では少し違うかも知れないが、例えば、既婚の人の方が独身の人よりも一般的に自分を幸せだと考える確率が大きい。意外なのは、育児中の人、と言うのは子供が居ない人よりも幸せ度が低い、と言うことだ。お金は幸せ度の要素になりえるが、それは金持ちが幸せ、そうじゃない人が不幸せという単純なものではなく、それぞれの人間が人生の中で一番貧乏だった時に比べて今どれだけ多く持っているか、と言う比率らしい。 それで、じゃあ今現在与えられた状況の中では、どうやって幸せになったら良いのか、と言えば、自分の思考回路は自分でコントロールできるもの、と言う事実をまずしっかり肝に銘じて、出来るだけ楽しい考え方、視点を選ぶ。その為の訓練としては、寝る前に三つ、今日在った嬉しいことを書いてみて、その嬉しいことがどうして嬉しかったのか、と言う理由をそれぞれ三つずつ書き出してみる。と言うのが一番実際的そうだ。「笑う門には福が来る」と言うが、英語でも「happy go lucky (幸せで入れば、好運がやってくる)」と言うのが似ているなあ、と思う。 それから瞑想、と言うのが凄く効果があるらしい。仏教のお坊さんの脳波や、脳のスキャン図などを見てみると、瞑想のエキスパートの瞑想をしている時の脳の状態、と言うのは実は普通に起きて活動をしている脳よりもずっと活発になっているらしい。普通瞑想している時は半分睡眠状態なのか、と思っていたが、その反対らしい。そして、楽しい考えをプロセスする脳の部分が一番活発になっているそうだ。

幸せについて Read More »

自分の耳を信じる。

「君はどうして音楽学者が喜ぶような選曲、解釈ばかりをするんだ!自分の腹の底に在るものをもっと信じて、もっと感情に任せて弾いてみろ!」 「君はまず理性で曲に取り組もうとする。でも、理性ばかりに頼っていると視点に偏りが出てくることがあるよ。例えばベルグのソナタで、君はこの曲の対位法の大切さに注目して、普通の人が見逃す様な内声部の細部まで丁寧に弾き切ったね。でも余りに対位法に一生懸命になる余り和声の美しさを全く無視した演奏になってしまったのには多分気がつかなかっただろう。音楽には色々な側面がある。特に西洋音楽においては、知能的・理論的・観念的な部分も大きい。その多くは感情や勘だけでは処理しきれない、理性やはっきりとした概念を持って対処しなければいけないものだ。でも、音楽の源は知性では無いんだよ。もっと原始的な、人間としてのコミュニケーションの必要性みたいなものが音楽を生み出すんだ。演奏する上では、そこをいつも踏まえていよう。そのためには、聴き続ける、と言うことだ。自分の出している音、楽譜に書かれている音を、一生懸命聴く。」  「今のシューベルトのオープニングで君は全てを楽譜通りに弾いた。スタッカートは短く、雰囲気も正しく、音のヴォリュームにおいては再現部でもっと激しく弾くことを見込 んで、少し控えめのフォルテで弾いたね。全て正しい選択だ。でも、僕には君のシューベルトが信じられなかった。感情的な意向が感じられなかった。君は頭でシューベルトを弾いている。シューベルトを本当に聴けていないよ。目をつぶってシューベルトが君をどう言う気持ちにさせるか、君がこのシューベルトに何を求めているか、頭の中ではっきり聴いてから、もう一度弾いてごらん。そうしたら、僕は君のシューベルトを信じられるはずだ。」 上の三つの引用は私が3人の別々の先生にこの一ヶ月間に言われたことだ。 私はこの5月にコルバーンを卒業する。この冬休みを利用して、卒業後の身の振り方を決めるため、色々な先生の所に出向いて、レッスンをしてもらっている。全く違った性格のピアニストたちに同じことを言われ続けると、ちょっとショックだ。特にもっと若いころの私は「個性的」「型破り」と言われ続け、楽譜を無視して好き勝手 に弾いて破門になってしまったこともある位だったのだから。私が7年間の演奏活動を経て、もう一度学校に戻って系統立てた勉強をしようと思ったのは、そう言う勘や感情だけを頼りにした自分の演奏がひどく根拠無く、危うく思われて、恐ろしくなったからだが、バランスと言うのは難しい。少し、行き過ぎてしまっ たようだ。 考えるよりもまず、聴く。聴いたものを正直に受け止め、聴いたものに自分を投影させ、それを一つの曲としてつじつまを合わせる最終段階で初めて、歴史的背景とか、当時の作曲家の心理背景などを考慮する。自分の耳、気持ち、そして経験を信じる。

自分の耳を信じる。 Read More »

今年の目標は、「信じる」

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 さて、題名に掲げた今年の目標「信じる」と言うことについてです。 私はニューヨークの友達の一部で「connection goddess (コネクションの女神)」と呼ばれています。Connectionと言う単語には「乗物の乗り継ぎ」と言う意味もあり、私はなぜか、乗り継ぎのタイミングの運が抜群に良い(と思われている)のです。きっかけはもう何年も前、友達と連れ立って出かけた演奏会に遅れそうになり、焦った皆を落ち着かせようと私が冗談で、「大丈夫、私と言う女神がついているからね」と言った瞬間に電車が遠くからホームに滑り込んできた、と言う嘘のような本当の事件です。ニューヨークの地下鉄は運送台数がかなり多く、これはただ単にタイミングが良かっただけの話なのですが、それ以来私と出掛けた友達が良く「今日は“女神”が一緒だから、乗換がスムーズだね」とか、たまたまホームについた瞬間に電車が滑り込んでくると「やっぱり!」とか、始めは冗談で言っていたのが、段々定着して来てそのうちに電車が来ないと「今日はどうしたの?調子でも悪い?」と、半分真顔で聞かれ始めるようになりました。私がロスに移ってからは「遅れそうなときは、心の中でマキコに祈っているよ」と言われるくらいです。 不思議なのは、そうやって周りに言われ続けると、自分でも何だかその気になってくる、と言うことです。そして、都合良く電車のタイミングが素晴らしい時はひそかに誇らしい気持ちでそのことを良く覚えていて、タイミングが悪い時は(今日は何かが私の能力を邪魔している)と「例外」としてサッサと忘れてしまっているのです。そして、そうやってその気になっていると、現実に電車がどうであれ、幸せ度はずっとアップしているのです。 私は宗教にほとんど縁無く育ちましたし、そう言う私がこういうことを言うのは僭越かも知れませんが、信仰を持っている知人を見ていると、「神が守ってくれるから悪いことは起こらない」と信じ、困難に出会うと「これは神に与えられた試練だ」と考え、突き進んでいる様に思えます。こういう究極的な楽観性、信念と言うのは、別に特定の宗教を信仰しなくても、一人の人間として強さの源にすることが出来るのではないでしょうか。 私は自分を信じたい。自分がどんな状況においても、正直にベストを尽くす姿勢を崩さない人間であることを信じたい。そして、私は音楽が普遍的な人間性をコミュニケートするパワーを持つ、と信じたい。それから私は人間性善を、そしてもっと身近には自分の友達、家族を信じたい。そして、人生に起こる全てのことは、意味が在って起こっている、と信じたい。それが私の2010年の目標です。

今年の目標は、「信じる」 Read More »