勉強してました…

天正遣欧少年使節のペーパーの第一稿締め切りが今日だった。 かかりっきりになっていて、ブログがすっかりおろそかになってしまった。 私は日本では中学二年生までしか学校に行っていない。 その後アメリカに来て、英語が分からないまま高校を卒業し(中2から飛び級してそのまま高校に入ってしまったのです)、その後はずっと音楽学校だったので、一般知識が驚くほどかけている。 その私が今回始めて織田信長の最後から鎖国くらいまでの日本史を少しかじった。 面白い。そしてなんとも不穏。 特に私が集中した日本でのキリシタン史と言うのはなんとも複雑。 マーティン・ルーサーに始まるカトリックへの反抗の勢力が西ヨーロッパを大きく影響し始めた頃、 カトリック教会は勢力を外に求め始め、アメリカ大陸、アフリカ大陸などへの布教活動を始めた。 その中に日本も含まれていたのである。 日本で布教に成功すれば、中国までカトリックを広げられると考えていた節もある。 こういう大陸の存在が明らかになり、それぞれの原住民を「人間」と考えるかどうかと言うことについてカトリック教会の中心であるローマ法王が「彼等も人間である」と最終結論を出したのは、日本での布教が始まるわずか数十年前だった。当然、人種差別がある。貧困にあえいでいたその頃の日本では、自分の家族や、奇襲の結果制覇した隣村の日本人などをポルトガル承認に売り払う、と言うことがあったらしい。イエズス会は立場的には日本人奴隷の取引に反対だったが、彼等自身も非常な財政難で、多少の報酬でちょっとした手助けをすることも在ったらしい。 そんな中で行われた天正遣欧少年使節。4人の13歳の少年が、九州のキリシタン大名の使節としてローマ法王、スペイン国王、イタリア、ポルトガルの貴族などヨーロッパの容人と会見した。目的は日本でのキリスト教布教への財政補助と関心を集めることと、日本人にヨーロッパを見せることでヨーロッパの文化の高さを体験させ、日本に帰った後その体験を持ってヨーロッパ優勢を語らせよう、と言うことだったらしい。少年たちは、行く先々で物見高い人々に囲まれ、歩行すら困難になるくらいだったらしい。ヴェニスでは歓迎のために花火が打ち上げられ、3万人の観客が集まったらしい。ローマ法王、グレゴリー8世は涙を流して使節を歓迎し、ローマ市民権を与えた。この日本人使節の動向にはヨーロッパ中の関心が集まっており、彼等がローマ法王と会見した1585年一年で彼等についての出版物が48もあった。 「裸の王様」みたいである。少年たちは渡欧する船の中でも、ヨーロッパでも、売られた日本人を目撃したらしい。そんな中で、彼等は「新しく発見された世界から来た初めてのキリスト教者」として熱狂的にもてはやされたのである。もちろん、奴隷と成った日本人たちは「キリスト教者」ではなかったのかもしれない。でも、使節の例えば伊東マンチオは確かに大友宗麟という大名のと遠縁では在ったが(妹の娘の夫の妹の息子)、父親を若く亡くしてからは母親の再婚相手を嫌って、新学校に拾われるまでは家出少年としてほとんどホームレスであったのである。それが飾り立てられて、「王子」としてヨーロッパで最高級の礼を持って迎えられる。 そしてさらに皮肉なことにそんな彼等も日本に帰ってみれば、キリシタン追放礼がすでに出ており、社会の最下層に突き落とされるのである。使節の一人、ジュリアンは殉死している。キリシタン迫害が始まってかなりの時間がたってからのことである。その頃にはもう幕府はキリスト教者が殉死を崇高な物としていることを知っており、出来るだけ殺さず、拷問で棄教させようと、色々な方法を編み出していた。ジュリアンは「穴釣り」の刑に会い、3日かかって死んだ。汚物の詰まった穴に逆さづりにされるのだが、ただ単に逆さづりにしたのでは、脳に血が溜まるか、内臓が圧迫されて死んでしまうらしい。脳の鬱血を防ぐために耳タブに穴があけられ、そこから余分な血が出て行くように工夫され、内臓の圧迫を防ぐために胴体に縄が巻きつけられたらしい。 30万人から50万人居たとされるキリスト教徒の中の4000人が殉死したらしい。 こういう歴史と言うのは悲惨で悲しい。私の住んでいる世界と言うのはなんと恵まれていることか。そして人間の命の尊さと言うものが、つい最近の概念なんだと思い知る。つい最近、しかも限られた特権階級の先進国においての概念。 ちょっと開眼である。自分の無知が恥ずかしく、今までのほほんと生きてきたことに罪悪感を感じる。

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