明鏡日記9.28:演技は喜ばす為か・正直になるためか

野の君と朝の連ドラを観ることを日課にしています。今観ているのは実在の20世紀女優、浪花千栄子の人生を基にしたフィクション「おちょやん」(2020年後期)。昨日観たエピソードでは、憲兵に追われる女優・高城百合子と監督・小暮真治を匿うお千代と一平が、「やりたい芝居をやる為に命を燃やす」という二人のソ連への旅立ちを見送る場面がありました。旅立ちの前夜にお千代と高城百合子が交わす、印象深い会話が在ります。

おちょやん>井川遥“百合子”との別れは美しく…「メーテルみたい!」の声も - モデルプレス

戦時中のご時世の中、戦地の子供を思う母親を描いた家庭劇が受けが良いと報告する千代に「戦争の話でお涙頂戴芝居やるなんて最低。客にウケればそれでいいの?」「私は自分がやりたくない芝居は絶対やりたくない」と憤る高城百合子。憧れの先輩の歯に衣を着せぬ物言いに千代は表情を強張らせて涙を浮かべたあと、一呼吸おいて「うちは喜劇役者だす。ウケねらいでもお客が笑ってくれればそれでええんだす。」と返します。

これは私にとって身につまされる会話です。自分が受けて来た音楽教育や演奏経験を、これからどう活かしたら一番世の為人の為になれるのか...自問自答と試行錯誤を繰り返す中で私が突きつけられているジレンマの一つがここにあるからです。

自分の芸は、人を喜ばせる為か・美学の為か。

私が受けて来たクラシック音楽の教育は「ファイン・アーツ(純粋芸術)」という19世紀ヨーロッパで主流になった概念を基にしています。大衆文化・商業美術・工芸などと一線を引き「実際的な用途を持たずに『美』の概念を追求するためのみある」と定義されます。「客にウケル」ことを侮蔑する高城百合子の発言に近いです。高城百合子の言う「命がけの演技」というのは、ドイツロマン派思考、特にショーペンハウアーなどの「美に対する受け身の考察が、主観と客観の溝を超えた真実を垣間見る糸口となる(=そしてそれこそが生きる意味)」という考え方に影響を受けていると言えます。ちなみに「人間の主観と、客観的な現実の間には溝がある」と最初に提唱して哲学史に非常なインパクトを与えたカントに続く哲学者の中には、この主観と客観を超える糸口として「宗教」や「美」に並び「死」を挙げた人もいます。だから、高城百合子の言う「命がけの演技」となる訳です。

私は指を正確に迅速に動かす訓練を幼少時から受けてきました。更にピアノを弾くのに適した長い肢体と指にたまたま恵まれました。そう言う訳で、他のピアニストに技術的に弾きにくい曲を比較的簡単に弾きこなせる場合があります。また幼少時から正統派と考えられている歴史的に重鎮のピアノ教師に多く師事した為、ある学派(主にNY)では正統的と考えられているピアノ奏法の基礎と音楽解釈の美学を担う結果となりました。ほとんど宗教的に、自分の精一杯以下の演奏、そして型破りの演奏は背徳行為だと教えられ、本番は文字通り死の恐怖に震えながら死に物狂いで行います。そういう訓練や音楽美学を教え込まれる、かつての私の様な音楽学生のほとんどは、その美学のルーツを知りません。多分そういう音楽美学を生徒に叩き込む教師の大半も知らないと思います。私は博士論文のリサーチで、5年ほど前にやっと知りました。目から鱗ーひざを打つ想いでした。

おちょやんでは、高城百合子は言語の壁について一言も言及することなく「やりたい芝居をやる為に」樺太経由でソ連に亡命します。『美』は言葉や文化の壁をも超える、という考え方も19世紀のドイツロマン思想です。ただ、こういう理論を打ち立てた哲学者の多くは、ここまで精神的で崇高な『美』の考察はエリート白人男性にしか無理と考えていた事は、こういう場面で決して問題にされません。高城百合子がいかに美人でカリスマ性があろうが、日本語を一言も解さないロシア人に向かって「やりたい芝居」を日本語で行っている所を想像すると滑稽で、哀れです。ひたすら精神論や美学に走るのは、時代に反発する現実逃避と言えるかもしれません。そう言えばカントやベートーヴェンの時代も出版物や演劇の台本の検閲はありました。

人を喜ばせたいという欲求の由縁

それでは高城百合子に対してお千代の言う「ウケねらいでもお客が笑ってくれればそれでええんだす」という信念はどこから来るのでしょうか。

コメディアンに苦労人が多い事については研究結果が在ります。全てアメリカの研究ですが、コメディアンの80-85%は貧困家庭出身という発表が在ります。また1975年の古い研究ですが、喜劇役者として富裕層に属する事に成功した55人の内80%が心理カウンセリングを受けた事があるとアンケートに回答しました。面白いのはこの55人の回答者の多くが、口を揃えて「しかしカウンセリングが成功して悩みが全て解決したら自分の演技の質は落ちると思う」と答えたことです。

「おちょやん」に出てくる喜劇役者の多くは暗い子供時代や家庭背景を背負っています。主人公のお千代は幼児期に母親を亡くした後、育児放棄で博打気違いの父親に弟の世話を押し付けられ学校にいけません。9歳の時父親の再婚相手に邪魔者扱いされ奉公に出されますが、その後も借金取りに脅迫された父親に身売りされそうになったり、なけなしの貯金を盗まれたりと苦労をします。お千代の幼馴染みでいずれ結婚相手となる鶴亀家庭劇団長の一平は、幼児期に母親が愛人を作って家出したあと、名役者の父親に子役として芸を叩きこまれる事に反発して幼少期を過ごします。その父が33歳の若さで死去した後は、座員の生活を支えるため名ばかりの座長として成長期を振り回されます。「家庭劇」という新しい喜劇の確立に渾身する一平は「自分が知らない家庭の温もり」に対する憧れに突き動かされています。「おちょやん」シリーズ中、他にも団員の多くが色々な場面で打ち明け話しを披露しますが、時代背景を差し引いても非常に辛苦の多い人生が多いです。

ここからはあくまで私の意見ですが、人を喜ばせる、特に人を笑わせる必要性を常に感じている人の多くは、子供時代に何らかの脅威を感じて育った人ではないか、と思います。人を笑わせている瞬間は自分が周囲の人間をコントロールしているからです。例えばこの人、ドクター・ルース。

また常に「どうやったら人の役に立てるか」と探索して行動する人の多くは、邪魔者扱いされたり廃棄される事の恐怖と哀しさを知っている人だと思います。こういう人達の多くは「目聡い」「愛嬌がある」「気が利く」「世話好き」と重宝される女性です。ゲイの人にも、そういう人が多い様な気がします。おちょやんの主人公のお千代の言動をその観点から見ると、色々と説明がつきます。

分かりたい・分かって欲しい

この緊張の対話の場面は高城百合子の「女優同士は分かり合えなくて当たり前」という安易な結論で終わってしまいます。しかし私の様に高城百合子とお千代を両方内蔵している人間には、そう簡単に済ませられません。

私は結局は個性の大部分は状況の産物だと思っています。お千代は高城百合子の美貌と人生背景があればソ連に亡命したかもしれないし、高城千代子はお千代の子供時代を経ていれば喜劇役者になっていたかも知れない。

私は生まれ落ちた時代・国・環境・身体的条件・出会いなどの様々な偶然の積み重ねの結果、今ピアニストとしてLAに拠点を於いて色々摸索しています。でも、私があなたの条件下に生まれ落ちたとしたら、そしてあなたと同じ巡り合わせを全て経験したとしたら、私はあなたとほぼ同じ言動と選択をする人間になったのではないかと思います。反対も同じく。

脳神経科学をかじり、刺激に対する生態的反応に違いがあるなど、そういう個体差の事も前よりは理解しているつもりですが、でもそういうプラスアルファも全て含めて、大きな目で見たら私とあなたはそこまで大きく違わないのでは、というのがサイコパスにストーカーされても、私が信じる人間像です。私はそう信じることでしか、かつて私を傷つけた人間を許せないのかも知れません。そして私は自分を知る事で、あなたをも知りたいと切望しています。そして自分をこうしてさらけ出して知ってもらう事であなたとの共通点を見出してほしい。共感したい。同じだと思いたい・思ってもらいたい。

そして私は『イマジン』を弾くのか

私は今あるバンドのピアニストの代役をするための準備を進めています。映画音楽・ゲーム音楽・ポップスなどの人気曲をクラシック風にアレンジして演奏するバンドです。「カリブ海の海賊」のように通奏低音がアップビードのリズムに乗って延々と繰り返され続ける曲を聴いたり練習したりしていると、夜中に目が覚めたり悪夢にうなされたりします。これは絶対にアドレナリンが出て血圧が上がっている。この音楽は体に良くない。

しかし私はやるとなったらとことんやります。リストに載っている曲を全部オリジナルを聴いて、時代背景や評論などもリサーチしてみました。クラシックの曲にやるのと同じことをやっているわけです。そうしてかなり反省しました。例えばジョン・レノンの「イマジン」という曲は私はこの前のブログで「洗脳効果を疑うほど繰り返しの多い曲。作曲家の態度に問題があるとしか思えない創意工夫のない音楽。」と書いた時に考えていた曲の一つです。しかし今回初めて歌詞をじっくりと読み、ヨーコ・オノの「Grapefruit」(1964)という本に着想を得た歌詞でしかもジョン・レノン自身が後年「ヨーコ・オノと合作」としているほど関わったことも知り、その時代背景やメッセージ性、そしていかにそのメッセージが世界中に共鳴したかという事も考察し、深く反省。確かにこの単純な曲がジョン・レノンの名声無くしてここまで有名に成り得たかというのは疑問。しかし「イマジン」は私が「Dr.ピアニスト」として脳神経科学や考古学や心理学やなんだかんだを並べたてたパワポで数時間かけて説明する事を4分位で成し遂げてしまう。「人間は共感する動物なんだよ。国とか宗教とか経済力とか競争とかで絶交しないで、仲良くした方が楽しいよ。」そしてその単純さ故に老若男女・東西南北・士農工商、全ての人の琴線に触れる。

「こんな曲弾くくらいなら死んだほうがましよ」

…と高城百合子は言うでしょう。そして15年前の私も絶対そう言っていました。では今なぜ「イマジン」や「カリブ海の海賊」を考察し練習しているのか。

続きはまた次回。明日バンドメンバーとの初顔合わせがあるので、練習します。論より証拠。

最新動画です。8月下旬の音楽祭で行ったプレゼンの抜粋。

2 thoughts on “明鏡日記9.28:演技は喜ばす為か・正直になるためか”

  1. お疲れ様です。

    高かみを極めたい芸術家は、山登りを。
    遠くの高い山を眺めたい芸術家は、草原を歩きます。
    大衆は、芸術家の苦悩より、目先の快楽に耳目が奪われます。

    小川 久男

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