まだNYに居た頃のお話です。
小さな、親睦会の様な演奏会に呼ばれました。
ダンサーが小さな部屋で皆に囲まれた中で即興で踊る、と言う会だったのですが、
前座でその人のお友達だと言うとても高齢の女性がお話をしました。
その人は第二次世界大戦前、ソプラノ歌手として勉強中だったそうです。
そしてドイツに居たユダヤ人だったので、強制収容所に送還されてしまいました。
座るスペースも無い貨物車にすし詰めにされて何日もゆられてやっと着いた強制収容所の第一夜。
皆、不安と過労と、劣悪な環境に、眠りにつくのに苦労していました。
その時頼まれて、モーツァルトの子守歌を皆の為に歌ったそうです。
そして、皆に「一瞬、ここでは無い、別の場所に行った気持ちになれた、ありがとう」
と感謝されたそうです。
そのお話を強いドイツ訛りの英語でゆっくりタンタンと語ったあと、
もう高齢で音程が定まらない声で、
その時歌ったと言うモーツァルトの子守歌をもう一度歌ってくれました。
もう6年以上も前の思い出ですが、私はこの時の事を今でも良く思い出します。
そして、(演奏家と言うのは窓を提供する事だなあ)と思うのです。
窓の向こうに何を見るかは、受け取り手次第だと思います。
受け取り手のその時の人生状況、感情、などによって必要な物が見えるのだと思います。
それは慰めの窓でも、思い出へ直近する窓でも、あるいは何かのヒントが見えてくる窓でも、
何でも良いのだけれど、
自分の力だけでは見えない物が音楽の力と、演奏家の真意で、見えてくる窓、です。
より良い窓が提供できる演奏家になりたいなあ、と思います。
絵画もそういった窓のひとつだと思います。しかしながら、わたしの絵はそういうこととはオオヨソ無縁ですね。最近ちょっと考えてます、ほんとうに自分の描きたいものは、なんだろうかなって?
>abbros.kawashimaさん
お気持ち、良く分かります。私もそういう気持ちも沢山経験したつもりです。でも、何をどう描く(弾く)かだけでは無く、描く(弾く)と言う行為、描いて(弾いて)行く人生そのものに意義が在る、周りに窓を提供している、と言う事も在ると思います。
例えば、abbrosさんが今まで描かれて来た人生によって、長年培われた洞察力を持って私に下さるコメントは、私に自分一人では見えなかった物、気付かなかった事、知りえなかった事に気が付かせてくれます。
マキコ
なるほど、HOW(いかに描く)ばかりにとらわれることは現象に執着することに似てますね、すると描く・描いているという行為の本質WHAT・WHY(どうして描いているのか)が置き去りにされてしまいます。マキコさんのお話で、ちょっと見えたような気がします。どうもありがとう。
>abbros.kawashimaさん
とんでもないです。
こちらこそいつも心のこもった、味わい深いコメントに、感謝しています。お互い、一歩一歩歩んで行きましょう!
マキコ