美笑日記5.29:メモリアルデー・マンザナー

このブログエントリーは日刊サンに連載させて頂いて3年目になる私のコラム「ピアノの道」の6月4日発表の記事と一部重複しています。

昔の私にとって5月最終月曜日のメモリアルデーは、ホームステイ先の家族と庭でバーベキューをする初夏の楽しい三連休でした。でも退役軍人や戦争経験者の知人が増えるにつれ、戦争犠牲者を追悼する日という認識が深まってきたのです。

そんな今年のメモリアルデーはManzanar National Historic Site (マンザナ―国定史跡) に行きました。第二次世界大戦中に合計12万人以上の日系アメリカ人を収容する為に米国に点在した10の施設の一つ。11,070人が収容されていました。

LAから北に220マイル。砂漠道を延々と運転していると、当時の人々の不安が聞こえて来るようです。 (水も目印も日陰もない…) (脱出しても逃げ通せない…) 

11,070人ってこれくらいです。私と同じ平田姓の人が17人もいました。

1992年の国定史跡って開設から50年後...遅くありませんか!?って思いますよね。でもこれって1988年のレーガン政権の公式謝罪と賠償金の確約がされて初めて可能になったことなんです。

「人間みな平等」「生命、自由、および幸福の追求を含む不 可侵の権利を守るのが政府」と記した独立宣言に署名をした56人中41人が奴隷所有者だったアメリカの矛盾は、他にも先住民の大虐殺、奴隷制度など数えきれません。掲げる理想が高い分、背徳の歴史から目を背けたくなるのも分かります。(3連休にマンザナ―に来る物好きなんて我々くらいだよね…) 人気のない館内を覚悟して到着してびっくり。家族連れ。年輩夫婦。制服姿の10代の団体。説明を読む人。腕を組んで写真に向き合う人。子供もひそひそ声です。色々な外国語や民族衣装。決して日本人・日系人だけではない、多様な人々が過去と向き合っている。

500エーカー(東京ドーム43個相当)の土地に504のバラック(兵舎型の仮宿舎)が36列に並んでいました。宿舎はそれぞれ約30畳の4つの部屋に区切られ、部屋一人に8人ほどがあてがわれました。部屋には石油ストーブと裸電球とベッドがありました。椅子と机は「いつか来る」と言われ続けながら、遂に最後まで来なかったそうです。
宿舎の他に食堂、女性用トイレとシャワー、男性用トイレとシャワーなどがありました。

収容所内の大工さんたちが協力して建てた集会場を改築したビジターセンターではマンザナ―の歴史を映画や展示物で知る事ができます。収容所での生活の様子を再現したバラックや食堂では生存者の体験談を録音で聴くこともできます。家を追われ、財産放棄を強要され、人種差別によって人生を中断された我々の先輩は、それでもなお1942年3月から1945年11月まで収容所内で創造力と人間性を大事に生きたのです。まず学校を開設。畑を耕し、砂漠の中で収容所内の消費の自給8割の野菜を栽培するまでに。醤油・味噌・豆腐・焼酎・漬物なども自給自足。豚・牛・鳥も飼育。池を掘って日本庭園造設。家具や小物や飾りや日常雑貨も手造り。食堂には壁画。映画上映会。舞踏会。演奏会。卒業式も冠婚葬祭なども決行。

写真を撮るのには忍びなく、想像にお任せするしかないのですが、シャワーは勿論、トイレもドアも囲いもない共同使用の物しかありません。ある女性の体験談では、「母がどうしても他人と隣り合わせの丸裸でシャワーを浴びる事を嫌い、皆が寝静まる真夜中まで待っていた」と言っているのが印象的でした。
そういう共同トイレや共同シャワーと同じ建物に洗濯用の大きな流しがあります。隣り合わせで汚れ物を洗う事も、人々は屈辱に感じたようです。

全く見知らぬ家族がいくつも一つのバラックに同居を強いられたそうです。新婚夫婦も子連れ家族も関係ありません。プライヴァシーを守ろうにも壁を作る材木もなく、人々は毛布をつるしてかろうじて部屋を区切ったそうです。でも昼はカンカン照りの猛暑で、夜は冷え込む砂漠。毛布をギブアップして寒さで眠れなかったのではないか、心配になります。
もう一つ人々を悩ませたのがひっきりなしに吹く風でした。掃いても掃いても砂埃が溜まり、バラックの壁の隙間や節穴から吹き込む砂埃で、朝起きると枕が砂まみれ。自分の頭が横たわっていたところだけ、枕カバーの白が見えたのだそうです。

写真の右側に見えるのは食堂に描かた弁慶の壁画です。
沢山の人が描いた収容所生活や風景画が、額に収められて展示されています。家具も全て手作りです。手造りの椅子に子供用のものが多いのに、胸が痛みました。収容所内で生まれた赤ちゃんは541人。他にも赤ちゃんや幼児として収容所に来た子供たちも多くいました。そして他に全く家具の備え付けが無かった部屋で、幼児が腰かけるのにはベッドは高すぎたのです。

この展示ケースは女性たちが作った小物や装飾品やおもちゃの例ですが、他にも人々は数えきれないほど沢山の物を、3年半の間に創っていったのです。農作物。料理。庭園。果樹園...掃いても掃いても綺麗にならない砂埃を履きながら、真夜中までシャワーを待ちながら、収容所に絶えなかった噂やいさかいに気を揉みながら、子供の成長や教育を心配しながら、高齢者の健康や食事に気を配りながら、人々はものを創り続けた。
収容所の監視者が噂の記録を作っていました。「1か所に集められたのは、日本軍の攻撃を受けたら我々を一気に殺す為だ」「戦況が悪化したら食料や物資の運送が無くなり、皆飢え死にする」皆、考えてみたら当たり前の心配をし、それが噂となって蔓延したようです。食材を誰かが横領しているという噂も後を絶たなかったようです。

今は水が無い池の跡地です。
鉄格子と8つの監視塔に囲まれた814エーカーの中には100以上の庭園が造られたそうです。最初の庭園は宿舎24の外に入居後1か月もしないうちに作られ、それに続いて半年後には収容所内の新聞が庭園コンクールを開くほどの数の庭園が出来上がっていたそうです。
当時は「日系人を周りの人種差別や敵対行為から守るため」の『移住(Relocation)』と公言されていたそうです。「それならなぜ監視塔の銃が外ではなく、収容所の中に居る我々に向けられているんだ」と思ったという証言は、色々な生存者から聞きます。銃を向けられ、鉄格子に囲まれながら庭を作っていった日系人の反骨精神があっぱれです。

「どんな状況下でも取れる行動、残せる主張はある」…先輩にお尻を叩かれた気がしました。

独立宣言を続けて読むと、こう書かれています。「どんな形態の政府でも人権を守る目的に反した場合、人々にはその政府を変えるか、排除し自分たちの安全と幸福の為に一番効果的だと思える権力構造と信念に基づく新しい政府を建設する権利がある。

1 thought on “美笑日記5.29:メモリアルデー・マンザナー”

  1. お疲れ様です。

    大変、重い歴史的事実です。
    この映像をみて「大和魂」を感じ、
    吉田松陰の言葉を思い出しました。
    「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」 

    小川久男

Leave a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *