先週「Tempo: 音楽による環境運動」の主要メンバーとしてAGUに参加してきました。毎回二万人以上の科学者たちが世界中から参加するこの学会。丁度一か月前APEC(アジア太平洋経済協力)サミットが行われたのと同じ会場で開催されました。去年はTempoの一員として私も演奏やスピーチをさせていただいたAGUですが、今年の私の参加はテンポのこれからについてこの分野のVIPたちに相談にのっていただくためです。でも「科学とアーツ」や「環境問題に取り組むための心理的サステイナビリティー」「科学におけるダイバーシティ」など私も興味をそそられる題目も多く、さらにはClimate Parableと題する科学に基づいて近未来を予測するSci-Fi(Science Fiction)ならぬ「Cli-Fi(Climate Fiction=環境フィクション)」の演劇もあって楽しみました。今年の夏に参加したIRAS(Institue of Religion in the Age of Science=科学の時代の宗教研究会)のメンバーとの再会や、スタンフォード関係の知り合いとの会話の時間なども取れ、なかなか充実した2日間の学会参加となりました。
学会は12月10日~15日まで6日間ぎっしりの行程でしたが私が参加したのは中日の13日と14日の二日のみ。でも下のチラシにある様にDEIや「科学と文化」だけでもずいぶんと沢山のパネル協議やプレゼンなどが行われていました。
今回のAGU参加は2週間前に急遽決めたこともあり、かなりの強行軍でした。11日(月)にロスからシアトルに飛び、一泊。12日(火)の午後「音楽の効用を職場で活用!」ワークショップを行った後にシアトル空港にとんぼ返りしてサンフランシスコに飛び、友人の家に到着したのが真夜中過ぎ。6時間睡眠で朝7時に友人宅を出発し、だだっ広いビル3棟もある会場を走り回って学会への登録手続きを済ませバッジなどをもらい、朝8時半開始のセッションに間に合った時には本当にほっとしました。
8時半のセッションは「From Darkness to Illumination: Climate Grief & Resilience in a World of Warning Signals(闇から光へ:警報の世の中での悲嘆と底力)」。環境問題は社交の場では敬遠されがちな話題です。しかしこれが、環境問題に取り組む専門家と一般社会との間に溝を作り、さらに環境問題の深刻さに値する感情をきちんと認識しないことで環境問題の危機に麻痺状態が生まれてしまう。しかしその陰では、環境問題に危機感を回りにわかってもらえない焦燥感で自殺者、特に年少者の自殺者に近年非常な増加がみられているようです。それではどうすればよいのか。このセッションではユーモアで会話の糸口を作ったり、ゲームで環境科学が予測する未来のシミュレーションで環境問題の深刻さと緊急さを体感する、などの方法を実際にみんなで練習しました。参加者はざっと50人くらい。グループに分かれて対話をしたりゲームをやったりするのですが、小学校の体育館のような音を立ててみんなが一生懸命大きな声で協議をして、笑い声があちらこちらで上がっていました。セッションの最後にみんなで感想を言い合う時に、科学者の一人が「環境問題に関する研究をしていると孤立感に打ちのめされる気がすることもあるが、今日のセッションでは同志と繋がれてうれしかった」という趣旨のことを言いながら泣き出してしまいました。忘れられません。
この後は少し時間があったので、遅ればせながらお腹に栄養を入れます。外で一息ついていると、思いがけなく知り合いを見つけたりします。お互いすごいびっくりします。二万人にいる学会でも知り合い同志ですれ違うなんて、やっぱり縁というのを信じざるを得ません。せっかく来たので他のセッションの聴講やポスター発表などの見学もできるだけしました。確認できたのは、やっぱり私には地質学や航空宇宙工学や火星の乱流や貯水池の藻の健康リスクはよく理解できない、ということでした。
13時からは「Advancing Commitments to Inclusive Science Culture and Practices: Doubling Down in the Face of Adversarial Headwinds (全員参加の科学の推進の約束:向かい風を受けて決意の強化表明)」というDEI(ダイヴァーシティ・エクイティ・インクルージョン)に関するパネル協議を聴講しました。「群盲象を評す」が明瞭にする通り、問題が複雑であればあるほど沢山の視点からのインプットが必要になります。DEIは慈善事業ではなく、現実に基づき実際の効力を持つ解明には不可欠な条件です。しかしここ数年間アメリカ合衆国では州政府などからの教育現場でのDEIへの予算配分の禁止やカリキュラムの締め付け、雇用時のDEI考慮などの廃止などの圧力がかかってきています。このセッションではMITや南カリフォルニア大学のDEI担当職員や、アメリカ高等教育協会DEI担当、スローン財団のトップなどが、社会的圧力と現場のギャップ、政府や政策と科学分野との対話の難しさなどについて協議しました。
翌日の14日はArt and Science(芸術と科学)のプレゼンを13時から聴講しました。公共アートや科学に基づいたアートインストレーションなどを手掛けるUCLAの教授、Rebeca Mendezが「The Sea Around Us」という映像と音声のショーを公開し、前後に解説をしました。ロサンジェルスの沿岸は世界でも有数の生息生物の多様性を誇ります。現在のオレンジ・カウンティ―地区に一万年以上前から住んでいるAcjachemen族原住民や、カタリナ島に八千年以上住んでいるTongva族原住民の故郷です。それなのに1947年から1960年代まで薬品会社によって殺虫剤として当時主流だったDDTのたるなどが廃棄され、分析によると50万樽分以上のDDTが界隈の海流に流れ出したとされています。(DDTはその環境汚染や健康リスクなどのため1971年アメリカ合衆国環境保護庁によって違法になりました.) その後遺症は今なお続いており、例えば近隣のアザラシは癌の併発率は、他の地域のアザラシの何倍にもなるそうです。
The Sea Around Usでは原住民たちの音楽や映像に導かれて海中の映像が十数分流れます。海藻も海中植物も貝殻の模様も原住民たちも美しい。そしてその中に廃棄されたDDTの樽が苔むして海底に沈んでいます。下のYouTubeで抜粋が見られます。
これは多いに考えさせられるプレゼンでした。一番大きな会場でのプレゼンで、前宣伝にも力が入っており、13時の開場時は800人以上の参加者がいたでしょうか。それが映像の上映が始まると次々と立ち上がって退場者続出。指の間から水がこぼれるように聴衆の数が減っていきます。私の隣に座った男性はずっとスマホの画面をいじっていました。周りからもそわそわと(時間がもったいない…)(この解説無しの海底映像はいつまで続くんだ…)(子供だまし…)(ポスターや他の科学者のプレゼンを聴く時間をこの映像に吸い取られたくない…)…周りの科学者の心の声が聞こえてくるような気がしました。私は焦りを感じました。「これでは逆効果だ!」「やっぱりアートは感情的で科学とは相そぐわないと思われてしまう!」
何がいけないのか。まず「いつ・どこで・何を・誰が・どうして」が曖昧な映像。そして、問題提示を受けてどうすればよいという方向性や解決法もはっきりとしない。学会に来ている科学者にこの映像を延々と見せるのはどうなのか。参加者は研究の糸口やコラボの可能性を探しに来ている。そういう人たちにはもっと具体的な作戦を提示するべきではないのか。例えばアートと科学のコラボはどうすれば効果的にできるのか。科学が苦手でアートが得意な表現力は環境問題に於いてどう利用するべきなのか。その脳科学や生態学・社会学・心理学の根拠は?どのような効果がどれくらいの期間、期待できるのか?どれくらいの即効力・動員力があるのか?投資に対する見返りはどれくらい見込めるのか?
私はそういう意味では、自前みそで恐縮ですが、Tempo:音楽による環境運動の方がよほど効果的だと思いました。ただし、6日後の今日振り返ってみると、このプレゼンのお陰で私はロサンジェルス沿岸の汚染について深く学び、考え、理解している。他のプレゼンよりも印象深いのは、私がやはりアート系の人間だからなのか、それともそれがやはりアートの力なのか…?
夜は環境フィクションの演劇を鑑賞しました。この演劇プロダクションは他でも上演されています。下で予告編が御覧いただけます。
これもいろいろと考えさせられる試みでした。しかし大きなヒントではある。例えば私は、聴講後6日経って貯水池の藻の健康リスクについてはほとんど何も言えないが、この演劇の状況設定や問題の克服法や必要になった人員や、作業員のパニック状況などについてかなりの詳細にわたって描写できる。(ご安心を。ここでは割愛します。)う~ん…しかし役者の熱演にも関わらず、上演後の聴衆の反応は拍手大喝采よりも肩透かしというのが正直なところ。でも「未来省」のCli-Fi作家、キム・スタンリー・ロビンソンが演劇の後のインタビューで出てきたのは今回のAGUの大きな目玉でした。さすがAGU。
振り返ってみると博士号を取得した6年前には全く予測できなかった今の自分がいろいろな体験をしています。人生というのは面白いものです。音楽万歳!