演奏会のご案内

いよいよ明日みなとみらいです!

今日は体力温存の日。 明日はいよいよみなとみらいです! 美しいホール、良く鳴る音響、そして完璧に調整されたピアノで 聴衆の方々と再会できるのは、本当に音楽人生冥利に尽きます。 私の演奏会は今年で16年目になりますが、 16年前から毎年欠かさず来てくださっている方々もおられます。 例えば私が小三の時に担当してくださった恩師のS先生。 幼少の頃、私の最初の先生をご紹介してくださったBおじさんとその奥様のNおばさん。 修士時代のクラスメートで現在は大活躍、音楽ジャーナリストのKさん。 そして久しぶりに来てくださる事が分かっているN校長先生。 音楽同志のKちゃん。 さらに今年は初めていらしてくださる方々も沢山いらっしゃいます。 色々なご縁で普段はあまりクラシックにお馴染みで無い方々も今年は多くいらっしゃいます。 皆さまに、心からくつろいで、楽しんで頂くためには、 どのような演奏で共感を促し、音楽を通じた会場の連帯感を強め、 そしてどのようなトークで演目を弾き進めていけば良いのか。 皿洗いをしながら、論文のリサーチ用読書をしながら、 ご飯を食べながら、イギリスのEU離脱のニュースに驚きながら、 頭の後ろはいつも明日の演奏会の事を考えている自分が居ます。 ワクワク。 音楽人生万歳!

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演奏会で頂いて嬉しいもの。

昨日、成田に到着しました! 日本は美しいです! ラーメン屋さんのサインも、沢山の洗濯物が翻るマンションのベランダの数々も、 うっそうと茂る初夏の山々と、それに負けじと広がる住宅地も、皆美しい! そして、江戸川、多摩川と超えて実家に帰ってくる電車もうれしい! 郷愁、ですね。 さて、本当にお陰様で私の日本での演奏活動ももう16年目になります。 これは、本当に沢山の方々の心からのご支援とご協力に恵まれて初めて可能になったことで、 感謝しきれません。 私は南米、北米、ヨーロッパと色々演奏して回りましたが、 やはり日本での演奏は知り合いの方々が多くいらしてくださいますし、 色々なお心遣いを頂く事も多いです。 そんな中で一番うれしいのは...実は物では無いのです。 これはきれいごとではなく、本音です。 演奏会にいらしていただくと言う事は、 電車に乗って来ていただいて、演奏前か後、 あるいは両方に外食をしていただくことになり、 どうしても半日以上のイベントになってしまいます。 それにチケット代もある。 それでも来ていただける、しかも中にはほぼ毎年来てくださっている方々には 出来るだけ良い一日にしていただきたい。 私にお花やお菓子を持って来ていただくよりも、 お洒落なカフェでちょっとお茶をして来ていただきたい。 あるいは、普段滅多に会えない人と誘い合わせて、 素敵なお散歩やウィンドウ―ショッピングを楽しんでから来ていただきたい。 そして「楽しかった!来年も来たい!」と思っていただければ本望です。 私も皆さまと会場で音楽を共有し、演奏後にご挨拶するのを 毎年本当に楽しみにしています。

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『クラシック』って何⁉第二部「ぎりぎりクラシック!」演目解説

毎日、演奏会のための練習と事務処理をし、 夜は昨日に続いて演目解説を書いています。 今日は二部を書き上げました! 書き立てホヤホヤ、お読みください。 ~~~第二部・『ぎりぎりクラシック!民族音楽に憧れて』~~~ スコット・ジョップリン(1867-1917)は元奴隷の父と自由黒人の母の間にテキサス州に生まれ、その才能を見込まれてドイツ移民の音楽教師に無料で音楽のレッスンを受けました。「ラグタイムの王」として主に有名ですが、オペラやバレーなどの作品も残しています。ラグタイムと言うのはRagged(ボロボロ)なリズム、つまりアフリカ系アメリカ人の音楽に特徴的なシンコペーションの事を指しています。1893年のシカゴの世界万博の際、ジョップリンを始めとする多くの黒人音楽家がラグタイムの演奏をし、流行に火を付けました。ジョップリンの出版社はジョップリンのラグタイムを「クラシック・ラグ」とし、その作曲技法の高度差を主張しました。 ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)ロシア系ユダヤ移民を親に持つ、ブロードウェーミュージカル、流行歌、そして『コンサート・ミュージック』の作曲家として成功を収めました。ユダヤ人とジャズの関係は、ユダヤ人と黒人が人種差別を受ける者同士として一種の同盟関係を結んでいた事と無縁ではありません。ガーシュウィンの最初のヒット曲『スワニー』(1920)を歌ったアル・ジョルソンも、『ラプソディー・イン・ブルー』(1924)をガーシュウィンのソロで初演したバンドのリーダー、ポール・ホワイトマンも、ユダヤ人でした。今日お聞き頂く『3つの前奏曲』はスワニーとラプソディーの丁度真ん中、1922年の作品です。 リストはドイツ語を第一か国語として喋り、フランス語で教育を受け、ハンガリア語は生涯一言もしゃべれませんでした。オーストリア・ハンガリー帝国でハンガリー側ではありながらオーストリアとの国境すれすれに生まれ、オーストリア人の母とドイツ人の父を持ったリストがなぜ生涯、自分をハンガリア人だと主張したがったのか。一つにはこの時代の反帝国主義的、個人主義・異国趣味があります。主流でないこと、エキゾチックな事は好ましい事である、と言う美学です。さらにルソーに始まった自然主義的な考え方の延長線で、リストはジプシーの音楽を「楽譜も無しに内から自然に湧き上がる」理想の音楽としました。今日お聴きいただく『ハンガリー狂詩曲No.2』(1847)もジプシーの即興演奏に触発されて書かれたものです。

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『クラシック』って何⁉-第一部「ばりばりクラシック」の部。ウィーン楽派、演目解説

演目解説。『クラシックって何⁉』 ~~~第一部『ばりばりクラシック=第一、第二ウィーン楽派』~~~ 「キラキラ星」として日本でも親しまれている童謡は、元々は18世紀初頭のフランスの流行歌「Ah! vous dirai-je, maman(あのね、お母さん)」(作曲者不明)でした。その浸透振りは当時から現在まで色々な言語・歌詞で歌われていることのみならず、クラシックでもハイドンの交響曲94番や、大バッハの息子J.C.F.バッハの変奏曲、リストのピアノ小品、サンサーンスの「動物の謝肉祭」など沢山起用されていることからもうかがわれます。モーツァルトの12の変奏曲は1781年に作曲されました。当時は宮廷のための楽曲、そして上流階級の婦女子のたしなみのための教則としての作曲が必要とされていました。対称性の美しさ、単純明快性がもたらす聴きやすさ、分かりやすい技術性などが評価された時代の曲です。 シューベルトの『楽興の時』は6つの小品から成りますが、今回のプログラムでは劇的な2番と一番有名な3番のみ、お聴きいただきます。3番は1823年ごろ作曲されたと言われています。2番は1828年、シューベルトが梅毒で亡くなる直前です。表面的にはモーツァルトとあまり変わらない、対称性や聴きやすさを重視した古典風な曲に聞こえますが、2番の第二テーマが復元される時の一瞬の激情、そして3番の民謡風な朴訥さにご注目ください。 ベートーヴェンは一般的に自分の作曲に題名を付けることを好みませんでしたが、32曲あるピアノソナタの内『告別』と、この『悲愴(”Grande Sonate pathétique,”)』のみベートーヴェン自身の命名です。この時代、『美』の通念とは相反する『崇高』と言う美意識が広まっていました。計算・測定・模倣の不可能な、何にも比較できない圧倒的な偉大さで、人間の知覚を超越し、畏怖の念を起こす、時には暗黒や悪や死と言った概念をも含む『崇高』です。理性に対する感情の優勢を主張した「Sturm und Drang (疾風怒涛)」とも通じる概念で、ロマン主義へとつながって行きます。『悲愴』はあまりにも有名になってしまったので、オープニングのショックバリューが減少してしまっていますが、1798年の初演での聴衆の驚愕と畏怖の念を想像しながら、今日はお聴きになってみてください。 第一ウィーン楽派がモーツァルト・ハイドン・ベートーヴェン・シューベルトと言うなじみ深い作曲家たちから成るのに対し、第二ウィーン楽派は《無調性音楽》を確立したことで有名なショーンベルグとその弟子二人、ベルグとヴェーベルンから成ります。理論的になりますが、調性と無調性について少しお話しさせてください。(ご心配なく。ピアノでもデモンストレーションいたします)調性のある音楽ではスケールの中の7つの音にヒエラルキーを見出し、その中でも『主音(スケールの最初の音。ハ長調ならドの音)』をホームベースにして、主音から出発して主音に戻るまでの道のりを音楽とします。対して無調性の音楽では一オクターブ(ドから一つ上のドまで)を均等に分けた12の半音階を全て平等に扱いホームベースがありません。ショーンベルグがユダヤ人だったことから「人種差別に反対する心が調性が付ける音のヒエラルキーに反抗させた」と言う説がありますが、そう言う事を言うならばユダヤ人と言う民族と同じく無調性の音楽にはホームベースが無い、と言う事にも同じく重要性を見いだせるのでは、と私は思います。ベルグはユダヤ人ではありませんでしたが「退廃芸術家」としてナチスに差別されました。1908年に自費出版した、彼の作曲の中では唯一作品番号を持つこのピアノ・ソナタ作品1は無調性の直前ですが、一番最初のロ短調と一番最後のロ短調以外は、ずっとさまざまな調整の淵をさまよい続ける、不穏な曲です。『崇高』の延長線上にこの第二ウィーン楽派がある、と言う事をお聴き確かめください。

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『クラシック』って何!?=『くそ真面目』!?

16年目になる私の日本での独奏会シリーズ。 今年のテーマは「『クラシック』って何!?」 その心は… 『クラシック』と言う言葉は文字通り訳すと古典。 ではクラシック音楽は古くて歴史的影響力がある音楽か、と思いきや、 古代メソポタミアの音楽や、古代ローマ、ギリシャの音楽をクラシック音楽とは言わない。 逆に、今日初演がある出来たてホヤホヤの曲でも クラシック音楽の勉強をした作曲家の曲ならば「クラシック音楽」となる。 それでは『クラシック音楽』とは、なんなのか? 西洋音楽の歴史に於いて、ある時点までは 曲は新しければ新しいほど良い、と考えられていました。 音楽は常に進化している。 古いものに歴史的興味が多少あっても、新しい物の方が良いに決まっている! 例えばポップスとかなら、今でもこういう考え方がありますよね。 懐メロはおじいちゃん・おばあちゃんが聴くもので、 最新流行で「ナウい」物が一番良い。 この頃の演奏会ではお客さんは凄いと思ったら曲の途中でも拍車喝采。 楽章の途中の拍手は当たり前だし、大体全楽章演奏すること自体がまれ。 そして好きな楽章や曲の終わりには立ち上がって「アンコール」の要求。 ところが、これが変わるのが19世紀。 死んだ作曲家のリヴァイヴァルが始まります。 1782年には演目に組まれる死んだ演奏家は全体の演目の11パーセント。 それが1830年には50パーセントになり、1862年には70パーセント。 最近のクラシック演奏会では何パーセントですか? この移行の時期に、Canonと呼ばれる作曲家のリストが設立します。 Canonとは何か?今ググったら、 「教会法、教会法令集、(倫理・芸術上の)規範、規準、(聖書外典 に対して)正典、真作品、正典表、(ミサ)典文、カノン、聖人名列」です。 バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ハイドン、シューベルト、ベートーヴェン。 なぜこんなにドイツ系が多いんだ、おかしいんじゃないか? これはアーリア人優勢主義のたくらみでは? …と言う趣旨で書かれたのが石井宏の『反音楽史』。 そういう一面も在るかも知れませんが、 このCanonの設立に躍起になったのがドイツ人だった、 そしてそれはアーリア人優勢主義と言うよりも、 ただ単にくそ真面目なドイツ文化は歴史を振り返って やっぱりくそ真面目なドイツ物が一番好きだった、とそれだけなような気もします。 そして『クラシック』は、私に言わせると、くそ真面目。 くそ真面目とは何か。くそ真面目=自己陶酔。 自己陶酔とはいけないのか、と言わると、いけなくはない。 自己陶酔があるから、一生懸命・一所懸命になれる。発展性の可能性が生まれる。 唯一、自己陶酔の危険性は排他的になること。 この排他的が度を超すと、発展性まで殺してしまいかねなくなる。 スコット・ジョップリンを練習しながら思うのは、 彼の人生はおそらくベートーヴェンの物よりずっと過酷だっただろう、と言う事。 ベートーヴェンだって難聴、数々の失恋、甥の自殺未遂など 数々の難関を潜り抜けた、辛い人生だったけれど、 それらを「悲劇」と認識し、自己陶酔する特権が白人の男性として許されていた。 ベートーヴェンの悲劇に自分の悲観を投影し、共感してくれる人々に囲まれていた。 ジョップリンの時代は黒人のリンチの数がピークに達した時代。 リンチされた黒人の死体の前で群衆が笑って記念写真を撮る時代。 ジョップリンやジョップリンの様にラグタイムを作曲・演奏したピアニストたちに 自己陶酔の贅沢は許されていない。 兎に角気に入られなければ、好かれなければ、楽しませなければ。 極論、殺されてしまうかも知れない。

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