音楽史

ピアノ今昔物語

博士論文執筆に向けて、膨大な量の文献を斜め読みしている。 私のトピック「暗譜の歴史」については 驚くべきことに今まで全く研究された形跡が無く、 仕方なく18、19世紀のピアノ史を今読み漁り、 暗譜に少しでも関連ある箇所に記しをつけてまとめる、と言う作業をしているのだ。 文献の量は膨大で時間の制約もある。 それになんと言っても暗譜に言及している箇所が驚くほど少ない。 と、言うことでもうほとんど「暗譜、暗譜」とつぶやきながら頁をめくっている、 と言った感じなのだが、それでもちょっとは頭に入ってくる。 そして興味をそそられる箇所は「ああ~、時間~」と思いながら読み込んでしまう。 例えば、フランス革命後、『文化を庶民に!』と言うモットーの素、 今のコンセルヴァトワールが出来た。 その音楽学校の楽器と言うのは、実はギロチンの犠牲者、 あるいはギロチンの犠牲になることを恐れ逃亡した上流階級者の持ち物を まあ簡単に言えば、没収したものだったのである! 私の今読んでいる本は、その没収された楽器のリストにかなりページ数を裂いていて その楽器の種類とか、 革命前にどういう家庭がどういう楽器を持っていたのかとか むしろそう言うことに集中しているのですが、 こういう史実って、ちょっと怖い。 まあ、実際的な判断ではあるけれど、冷淡。 それから分かってしまうのは… 音楽っていつでもお金にならないんですね。 もうスター級に有名なピアニスト・作曲家でも、恋は多くても結婚が出来ない者のオンパレード。 相思相愛でも階級差別、職業差別などで、家族に反対されたりして、 結局独身で一生終えてしまう人が多い。 ベートーヴェンもまあ、そうでしたね。 彼の場合は難聴とか、性格的にも難しい事も在ったようですが。 そしてこういうスター級ピアニストでも、金策に物凄く工夫をする。 例えばクレメンティ、プレイエルなどは、 超有名ピアニストでキャリア・スタートを切るのだが、 結局ピアノ・セールスマンとか楽譜出版業に走ったりしてしまう。 そしてみんな膨大な量のレッスンを教えているのである。 駆けずり回って、と言う感じ。 朝の5時からレッスン!とか。 毎日9人の生徒の家から家へ徒歩で通う!とか。 いつ、練習とか、作曲とか、していたんでしょうか… 演奏の日も、教えていたんでしょうか… 練習もしていますよ~。 それから、ヨーガに通っています。 体が資本!

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中休み、映画鑑賞

昨晩は、家族で映画鑑賞をしました。 最近、日本での西洋音楽発展の歴史に興味を持っている私のために 両親が録画しておいてくれた山田耕筰の生涯に関する映画です。 『大いなる朝』(1979)と言うTBSの三時間ドラマ。 山田耕筰を野口吾郎が、山本五十六を加藤剛が演じ、 この対照的な人生を歩んだ二人の人生を第二次世界大戦中心に描いています。 (父は「結婚前は『加藤剛に似ている』と言われた」と自慢していましたが、 はっきり言って、面影も在りませんでした。 別に悪い意味ではなく、似ていない、と言うだけです。) 山田耕筰がいかに日本の西洋音楽が根付く段階で多大な貢献をしたか、 と言うのは知れば知るほど驚愕します。 しかし、この映画で、この道がどんなに苦労を伴った物であったかということも実感しました。 スポンサー(三菱財閥)との関係の複雑さ、借金、他の音楽家との関係の難しさ、 さらに、いかに働きかけても一般的にクラシックがやはり受け入れられない、と言う事情。 勿論、かなりモテモテで、波乱万丈の人生を楽しく生ききったようですが、 でも、どんな名声を得ても、安易とは言いがたい人生だったのは確かなようです。 時には借金取りを逃げて、芸者のヒモのような生活をした、と言う風に描かれていました。 どれだけ事実に基づいているかは不明ですが。 この頃観る映画のテーマが全部共通しているように思えてしまうのは、 私が自分の最近の考察を投影してしまうからでしょうか? それとも、そう言う映画を無意識の内に選んでいるのでしょうか? 日本に向かう飛行機の中で観た二本も、 芸や美のために命や人生を賭ける、と言うテーマの映画でした。 一本目は邦画の『利休に聞け』。 豊臣秀吉にその名声をねたまれ、 芸に対するこだわりか、自分の命か、の選択を無理強いされ、 切腹する、千利休の話しです。 そして二本目は邦題『ミケランジェロ・プロジェクト(原題『Monuments Men』)』。 第二次世界大戦中にナチスが強奪した何千、何万と言う芸術品を 奪い返して、元の持ち主に届けると言う任務を買って出た もう若いとは言えない美術史博士や美術鑑定士のグループの話しです。 軍の基礎訓練をやっとの思いで終え、そのままヨーロッパ入りした彼らは、 色々な冒険をして、鉱山に隠されている何千と言うアート・コレクションを見つけます。 「ヒットラーの死去、またはドイツ国の陥没の際には全てを燃やせ」 と言うドイツ軍の命令と競い合うようにして、急いで救出する芸術品の中には ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ… 行く先の多くで「自分の部下が次々と死んでいる時に粘土や絵の具救出のために人員を貸せるか!」 と、見方軍の協力も拒まれてしまう彼ら。 それでも、「文明の最高傑作が破壊されてしまったら、例え勝利したとしても後世になんのために戦ったのか申し訳が付かない!」と、命を賭けて奔走します。 私はミケランジェロや、バッハと自分の命、と言う選択を迫られたら、 間違いなく前者を取って悔いは在りません。 勿論、そう言う状況はほぼ100パーセント在りえないし、 だからこうして安易に断言・公言できるのかも知れない。 でも矛盾しているようですが、音楽に自分の人生を捧げることで、 これからずっと経済不安と孤独と付き合うかもしれない可能性に ちょっと躊躇する一瞬があることを、ここで今日告白します。 今までの人生や選択には全く悔いは在りません。 やってきたことの全てが、苦労も含めて、良い思い出、そして成長の肥やしと成っています。 それに勿論、経済不安にも孤独にも、程度も捉え方も対処の仕方も色々ありますし、 私の努力や働きかけでこれからどんどん変わりえるでしょう。 私は今、本当に親友と心から呼べる、多くな強力な友達に恵まれています。 大半は、私と志を共にする音楽家で、苦労も音楽のハイも分かち合える、本当の同志です。 その事に関しても、自分は本当に幸運だと思うし、感謝しています。 それに、山田耕筰はその79歳の生涯を立派に全うしています。

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弦楽四重奏、起源と発展

バロックでは今日私たちが考えているような四重奏と言うのは在り得なかった。何故かと言うと、バロック音楽の一番基本的な考え方にメロディーとベースと言う上下で音楽を全て作る、と言うのが在るからです。だから、ベース・ラインだけを書いて、後は和音の番号指示だけして(ハーモ二ーは適当に入れてください)って言う感じになるんですね。しかし、それでは四重奏は成り立ちません。 と言う訳で、四重奏が始まるのは古典派に入ってからになるのですが、勿論全くの親無し孤児では在りません。先祖にはCorelliの物が有名なコンチェルト・グロッソ。小さなアンサンブル対オーケストラと言うこの構図のジャンルの小さい方のアンサンブル(コンチェルティーノと言う可愛い名前です)が、この時代通常だったヴァイオリン二本にチェロを加えたアンサンブルにもう一つヴィオラを加えて、現在の弦楽四重の形にする、と言うものもあったようです。それから弦楽オーケストラ。 四重奏の始まりはウィーンと断言して良いでしょう。「弦楽四重の父」と呼ばれているのはハイドン(1732-1809)です。彼の作品1と2はいずれも四重奏ですが、これらは宮廷のBGMとして使われるタイプの、いわゆるDivertimento。5楽章(速 - ミニュエット・トリオ - 遅 - ミニュエット・トリオ - 速)と言う構造で、このミニュエットとトリオが二回も出てくると言う事実だけとってもいかにも宮廷の軽いエンターテイメントと言う感じが分かりますよね。しかしその後、ハイドンはどんどん実験的にこのジャンルを大きくしていきます。まず作品9、17、20(これ等の作品番号にはそれぞれ6曲の弦楽四重が入っています)に置いて、彼は4楽章(速―ミニュエット・トリオー遅-速)の方式を確立します。この時はまだ、ミニュエットとトリオはゆっくりな楽章の前にあります。この頃はロココ形式や、Galantと言われる、雅やかな宮廷様式への反抗としてSturm und Drang(疾風怒涛)と言う文学と音楽での両方で起こったドラマチックに感情表現をして、建前を取り繕うことを良しとしない、と言う風潮がありました。ハイドンのこの頃の四重奏もそれに乗っ取って、ドラマチックで真剣なものが多いです。フィナーレに対位法が用いられているのも特徴です。例えば西洋音楽の父、J.S. Bachの作品は長調の曲と短調の曲と約半々ですが、その息子たち(W.F Bach,J.C. Bach, C.P.E. Bach)やモーツァルト位までのギャラントの時代の作品と言うのは長調が90パーセントを締めます。(例えば19あるモーツァルトのピアノソナタの中、短調なのは2曲だけです。)でも、このSturm und Drangの時代のハイドンの四重奏は実に半分の曲が短調なんですよ。作品33の6つの四重奏をハイドンは「新しくて特別」な作品としています。Sturm und Drangは立ち去り、またおなじみのひょうきんで楽しいハイドンの作品がここから見られます。ここで彼は現代おなじみの4楽章形式(速―遅ースケルツォー速)を確立。さらに、4本の楽器がそれぞれテーマを同等に扱う、と言うのがこの頃の特徴。この後の作品で彼は更なるソナタ形式の可能性の模索、対位法のとり入れ、民族音楽の引用などの工夫を重ねて生きます。ドイツ国歌のテーマとなった作品76の四重奏は「皇帝」と言うニックネームで親しまれています。 ベートーヴェンに余り感謝はされなかった物の、ハイドンはベートーヴェンをウィーンに連れて来るきっかけを与え、さらにウィーンに来たベートーヴェンを教授した人物でもありました。そのベートーヴェンは「恩師」の得意とするジャンルにやっと手をつけたのは交響曲第一番(ハイドンは「交響曲の父」としても知られています)が出た同年、1800年です。この時出版された作品18は四重奏はとても効率の良いMotific developmentにハイドンの影が見えます。しかし中期のベートーヴェンの四重奏となると、話は違ってきます。劇的要素、技巧的困難さ、音域の拡大、そして長さに置いて、これはもう宮廷でアマチュア貴族や、お雇いヴァイオリン弾きが初見で弾ける物では在りません。これは、交響曲と同じように、プロの四重奏が音楽会場で聴衆のために演奏する物です。そして後期の四重奏はこれはもう型破りの一言。例えば作品131は7楽章から成りますが、楽章と楽章の間に休みは無く、続けて演奏されるように書かれています。演奏時間は約50分。しかも、一楽章はフーガで始まり、楽章の順番も常識とは全く違います。作品133はGrosse Fugueと呼ばれています。一楽章から成る、16分ほどの難解なフーガですが、これをベートーヴェンはもともと作品130のフィナーレにするつもりでした。出版社の要請により(「ベートーヴェンさん、コレでは絶対に売れません!」…)作品130には別のフィナーレが用意され、作品133が一楽章ものと成ったわけです。 ベートーヴェンの後期の四重奏は、これも当時では革新的なことだったのですが、総譜が出版されました。それまでは四重奏はパート譜だけしか出版されなかったのですが、ベートーヴェンの後期の作品になって初めてこのジャンル、そして音楽全体が「弾く物」、そして「聴くもの」から、「読んで理解するもの」に成るのです。この後期の四重奏が出版された時生きていたのは、シューベルト、メンデルスゾーンとシューマンです。シューベルトは31年の短い生涯の最後の5年に沢山の名曲を開花させていますが、死ぬ一年前に書かれた四重奏は彼特有の三度関係の転調など、面白い作品になっています。彼は死ぬ5日前に特別のリクエストでベートーヴェンの作品131を演奏してもらい「この後に、誰が何を書けると言うのだ」と言ったと言います。メンデルスゾーンはその感銘が明らかな、楽章の全てが続けて演奏され、それぞれの楽章が同じテーマを持って展開する四重奏を書きました。シューマンはむしろモーツァルト、ハイドン、そしてJ. S. Bachに影響を受けて四重奏を3つ書いています。 それ以降の特筆は、ドヴォルジャーク、スメタナ、ヤナチェーク、バルトーク、チャイコフスキーと言った東欧の作曲家たちでしょうか。彼等の多く(特にヤナチェークとバルトーク)民族音楽を自分の作品に忠実にとり入れることに使命を感じており、それがそれまでのクラシックとは全く違った様相の曲たちを生み出しました。バルトークの四重奏の中にはバルトークピッツィカートと言う、指板に弦がぶつかるくらい強く弦を弾くピツィカートなど、特別なテクニックが沢山要されます。新ウィーン楽派(12音法を編み出したショーンベルグと、その弟子、ウェーバーンとベルグ)の四重奏は重要です。ショーンベルグの四重奏2番の最終楽章は多分始めて無調性を試みた楽章です。(この四重奏が当時浮気中だった妻に捧げられているのは面白い史実です。妻はいずれ戻ってくるのですが、捨てられた愛人は自殺をします。愛人はショーベルグの絵画の先生でした)ウェーバーンの四重奏のための5楽章、ベルグのリリック組曲、など。ショスタコーヴィッチは15の四重奏を残しています。ソヴィエト連邦の抑圧の中作曲していたショスタコーヴィッチは1948年、ついに共産党のメンバーにならざる終えなくなります。連邦のプロパガンダ楽曲を作曲することを強制されながら、彼は「引き出しのため」に演奏予定の立たない曲を密かに、時には涙ながらに、作曲をします。その多くには自分のイニシャルを音符にして入れ込んであります。政治的表明、と言う意味では最後にもう一つだけ大事な四重奏の話を。George Crumbのブラック・エンジェルと言う曲があります。これはアンプで音を拡大した四重奏のための曲ですが、イギリスのルネッサンス作曲家John Dawland「Flow, my tears」や、シューベルトの「死と乙女」を引用してたくみに当時のベトナム戦争反対の姿勢を表明した、今では歴史的に有名な四重奏です。

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