音楽史

ピアノ今昔物語

博士論文執筆に向けて、膨大な量の文献を斜め読みしている。 私のトピック「暗譜の歴史」については 驚くべきことに今まで全く研究された形跡が無く、 仕方なく18、19世紀のピアノ史を今読み漁り、 暗譜に少しでも関連ある箇所に記しをつけてまとめる、と言う作業をしているのだ。 文献の量は膨大で時間の制約もある。 それになんと言っても暗譜に言及している箇所が驚くほど少ない。 と、言うことでもうほとんど「暗譜、暗譜」とつぶやきながら頁をめくっている、 と言った感じなのだが、それでもちょっとは頭に入ってくる。 そして興味をそそられる箇所は「ああ~、時間~」と思いながら読み込んでしまう。 例えば、フランス革命後、『文化を庶民に!』と言うモットーの素、 今のコンセルヴァトワールが出来た。 その音楽学校の楽器と言うのは、実はギロチンの犠牲者、 あるいはギロチンの犠牲になることを恐れ逃亡した上流階級者の持ち物を まあ簡単に言えば、没収したものだったのである! 私の今読んでいる本は、その没収された楽器のリストにかなりページ数を裂いていて その楽器の種類とか、 革命前にどういう家庭がどういう楽器を持っていたのかとか むしろそう言うことに集中しているのですが、 こういう史実って、ちょっと怖い。 まあ、実際的な判断ではあるけれど、冷淡。 それから分かってしまうのは… 音楽っていつでもお金にならないんですね。 もうスター級に有名なピアニスト・作曲家でも、恋は多くても結婚が出来ない者のオンパレード。 相思相愛でも階級差別、職業差別などで、家族に反対されたりして、 結局独身で一生終えてしまう人が多い。 ベートーヴェンもまあ、そうでしたね。 彼の場合は難聴とか、性格的にも難しい事も在ったようですが。 そしてこういうスター級ピアニストでも、金策に物凄く工夫をする。 例えばクレメンティ、プレイエルなどは、 超有名ピアニストでキャリア・スタートを切るのだが、 結局ピアノ・セールスマンとか楽譜出版業に走ったりしてしまう。 そしてみんな膨大な量のレッスンを教えているのである。 駆けずり回って、と言う感じ。 朝の5時からレッスン!とか。 毎日9人の生徒の家から家へ徒歩で通う!とか。 いつ、練習とか、作曲とか、していたんでしょうか… 演奏の日も、教えていたんでしょうか… 練習もしていますよ~。 それから、ヨーガに通っています。 体が資本!

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中休み、映画鑑賞

昨晩は、家族で映画鑑賞をしました。 最近、日本での西洋音楽発展の歴史に興味を持っている私のために 両親が録画しておいてくれた山田耕筰の生涯に関する映画です。 『大いなる朝』(1979)と言うTBSの三時間ドラマ。 山田耕筰を野口吾郎が、山本五十六を加藤剛が演じ、 この対照的な人生を歩んだ二人の人生を第二次世界大戦中心に描いています。 (父は「結婚前は『加藤剛に似ている』と言われた」と自慢していましたが、 はっきり言って、面影も在りませんでした。 別に悪い意味ではなく、似ていない、と言うだけです。) 山田耕筰がいかに日本の西洋音楽が根付く段階で多大な貢献をしたか、 と言うのは知れば知るほど驚愕します。 しかし、この映画で、この道がどんなに苦労を伴った物であったかということも実感しました。 スポンサー(三菱財閥)との関係の複雑さ、借金、他の音楽家との関係の難しさ、 さらに、いかに働きかけても一般的にクラシックがやはり受け入れられない、と言う事情。 勿論、かなりモテモテで、波乱万丈の人生を楽しく生ききったようですが、 でも、どんな名声を得ても、安易とは言いがたい人生だったのは確かなようです。 時には借金取りを逃げて、芸者のヒモのような生活をした、と言う風に描かれていました。 どれだけ事実に基づいているかは不明ですが。 この頃観る映画のテーマが全部共通しているように思えてしまうのは、 私が自分の最近の考察を投影してしまうからでしょうか? それとも、そう言う映画を無意識の内に選んでいるのでしょうか? 日本に向かう飛行機の中で観た二本も、 芸や美のために命や人生を賭ける、と言うテーマの映画でした。 一本目は邦画の『利休に聞け』。 豊臣秀吉にその名声をねたまれ、 芸に対するこだわりか、自分の命か、の選択を無理強いされ、 切腹する、千利休の話しです。 そして二本目は邦題『ミケランジェロ・プロジェクト(原題『Monuments Men』)』。 第二次世界大戦中にナチスが強奪した何千、何万と言う芸術品を 奪い返して、元の持ち主に届けると言う任務を買って出た もう若いとは言えない美術史博士や美術鑑定士のグループの話しです。 軍の基礎訓練をやっとの思いで終え、そのままヨーロッパ入りした彼らは、 色々な冒険をして、鉱山に隠されている何千と言うアート・コレクションを見つけます。 「ヒットラーの死去、またはドイツ国の陥没の際には全てを燃やせ」 と言うドイツ軍の命令と競い合うようにして、急いで救出する芸術品の中には ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ… 行く先の多くで「自分の部下が次々と死んでいる時に粘土や絵の具救出のために人員を貸せるか!」 と、見方軍の協力も拒まれてしまう彼ら。 それでも、「文明の最高傑作が破壊されてしまったら、例え勝利したとしても後世になんのために戦ったのか申し訳が付かない!」と、命を賭けて奔走します。 私はミケランジェロや、バッハと自分の命、と言う選択を迫られたら、 間違いなく前者を取って悔いは在りません。 勿論、そう言う状況はほぼ100パーセント在りえないし、 だからこうして安易に断言・公言できるのかも知れない。 でも矛盾しているようですが、音楽に自分の人生を捧げることで、 これからずっと経済不安と孤独と付き合うかもしれない可能性に ちょっと躊躇する一瞬があることを、ここで今日告白します。 今までの人生や選択には全く悔いは在りません。 やってきたことの全てが、苦労も含めて、良い思い出、そして成長の肥やしと成っています。 それに勿論、経済不安にも孤独にも、程度も捉え方も対処の仕方も色々ありますし、 私の努力や働きかけでこれからどんどん変わりえるでしょう。 私は今、本当に親友と心から呼べる、多くな強力な友達に恵まれています。 大半は、私と志を共にする音楽家で、苦労も音楽のハイも分かち合える、本当の同志です。 その事に関しても、自分は本当に幸運だと思うし、感謝しています。 それに、山田耕筰はその79歳の生涯を立派に全うしています。

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弦楽四重奏、起源と発展

バロックでは今日私たちが考えているような四重奏と言うのは在り得なかった。何故かと言うと、バロック音楽の一番基本的な考え方にメロディーとベースと言う上下で音楽を全て作る、と言うのが在るからです。だから、ベース・ラインだけを書いて、後は和音の番号指示だけして(ハーモ二ーは適当に入れてください)って言う感じになるんですね。しかし、それでは四重奏は成り立ちません。 と言う訳で、四重奏が始まるのは古典派に入ってからになるのですが、勿論全くの親無し孤児では在りません。先祖にはCorelliの物が有名なコンチェルト・グロッソ。小さなアンサンブル対オーケストラと言うこの構図のジャンルの小さい方のアンサンブル(コンチェルティーノと言う可愛い名前です)が、この時代通常だったヴァイオリン二本にチェロを加えたアンサンブルにもう一つヴィオラを加えて、現在の弦楽四重の形にする、と言うものもあったようです。それから弦楽オーケストラ。 四重奏の始まりはウィーンと断言して良いでしょう。「弦楽四重の父」と呼ばれているのはハイドン(1732-1809)です。彼の作品1と2はいずれも四重奏ですが、これらは宮廷のBGMとして使われるタイプの、いわゆるDivertimento。5楽章(速 - ミニュエット・トリオ - 遅 - ミニュエット・トリオ - 速)と言う構造で、このミニュエットとトリオが二回も出てくると言う事実だけとってもいかにも宮廷の軽いエンターテイメントと言う感じが分かりますよね。しかしその後、ハイドンはどんどん実験的にこのジャンルを大きくしていきます。まず作品9、17、20(これ等の作品番号にはそれぞれ6曲の弦楽四重が入っています)に置いて、彼は4楽章(速―ミニュエット・トリオー遅-速)の方式を確立します。この時はまだ、ミニュエットとトリオはゆっくりな楽章の前にあります。この頃はロココ形式や、Galantと言われる、雅やかな宮廷様式への反抗としてSturm und Drang(疾風怒涛)と言う文学と音楽での両方で起こったドラマチックに感情表現をして、建前を取り繕うことを良しとしない、と言う風潮がありました。ハイドンのこの頃の四重奏もそれに乗っ取って、ドラマチックで真剣なものが多いです。フィナーレに対位法が用いられているのも特徴です。例えば西洋音楽の父、J.S. Bachの作品は長調の曲と短調の曲と約半々ですが、その息子たち(W.F Bach,J.C. Bach, C.P.E. Bach)やモーツァルト位までのギャラントの時代の作品と言うのは長調が90パーセントを締めます。(例えば19あるモーツァルトのピアノソナタの中、短調なのは2曲だけです。)でも、このSturm und Drangの時代のハイドンの四重奏は実に半分の曲が短調なんですよ。作品33の6つの四重奏をハイドンは「新しくて特別」な作品としています。Sturm und Drangは立ち去り、またおなじみのひょうきんで楽しいハイドンの作品がここから見られます。ここで彼は現代おなじみの4楽章形式(速―遅ースケルツォー速)を確立。さらに、4本の楽器がそれぞれテーマを同等に扱う、と言うのがこの頃の特徴。この後の作品で彼は更なるソナタ形式の可能性の模索、対位法のとり入れ、民族音楽の引用などの工夫を重ねて生きます。ドイツ国歌のテーマとなった作品76の四重奏は「皇帝」と言うニックネームで親しまれています。 ベートーヴェンに余り感謝はされなかった物の、ハイドンはベートーヴェンをウィーンに連れて来るきっかけを与え、さらにウィーンに来たベートーヴェンを教授した人物でもありました。そのベートーヴェンは「恩師」の得意とするジャンルにやっと手をつけたのは交響曲第一番(ハイドンは「交響曲の父」としても知られています)が出た同年、1800年です。この時出版された作品18は四重奏はとても効率の良いMotific developmentにハイドンの影が見えます。しかし中期のベートーヴェンの四重奏となると、話は違ってきます。劇的要素、技巧的困難さ、音域の拡大、そして長さに置いて、これはもう宮廷でアマチュア貴族や、お雇いヴァイオリン弾きが初見で弾ける物では在りません。これは、交響曲と同じように、プロの四重奏が音楽会場で聴衆のために演奏する物です。そして後期の四重奏はこれはもう型破りの一言。例えば作品131は7楽章から成りますが、楽章と楽章の間に休みは無く、続けて演奏されるように書かれています。演奏時間は約50分。しかも、一楽章はフーガで始まり、楽章の順番も常識とは全く違います。作品133はGrosse Fugueと呼ばれています。一楽章から成る、16分ほどの難解なフーガですが、これをベートーヴェンはもともと作品130のフィナーレにするつもりでした。出版社の要請により(「ベートーヴェンさん、コレでは絶対に売れません!」…)作品130には別のフィナーレが用意され、作品133が一楽章ものと成ったわけです。 ベートーヴェンの後期の四重奏は、これも当時では革新的なことだったのですが、総譜が出版されました。それまでは四重奏はパート譜だけしか出版されなかったのですが、ベートーヴェンの後期の作品になって初めてこのジャンル、そして音楽全体が「弾く物」、そして「聴くもの」から、「読んで理解するもの」に成るのです。この後期の四重奏が出版された時生きていたのは、シューベルト、メンデルスゾーンとシューマンです。シューベルトは31年の短い生涯の最後の5年に沢山の名曲を開花させていますが、死ぬ一年前に書かれた四重奏は彼特有の三度関係の転調など、面白い作品になっています。彼は死ぬ5日前に特別のリクエストでベートーヴェンの作品131を演奏してもらい「この後に、誰が何を書けると言うのだ」と言ったと言います。メンデルスゾーンはその感銘が明らかな、楽章の全てが続けて演奏され、それぞれの楽章が同じテーマを持って展開する四重奏を書きました。シューマンはむしろモーツァルト、ハイドン、そしてJ. S. Bachに影響を受けて四重奏を3つ書いています。 それ以降の特筆は、ドヴォルジャーク、スメタナ、ヤナチェーク、バルトーク、チャイコフスキーと言った東欧の作曲家たちでしょうか。彼等の多く(特にヤナチェークとバルトーク)民族音楽を自分の作品に忠実にとり入れることに使命を感じており、それがそれまでのクラシックとは全く違った様相の曲たちを生み出しました。バルトークの四重奏の中にはバルトークピッツィカートと言う、指板に弦がぶつかるくらい強く弦を弾くピツィカートなど、特別なテクニックが沢山要されます。新ウィーン楽派(12音法を編み出したショーンベルグと、その弟子、ウェーバーンとベルグ)の四重奏は重要です。ショーンベルグの四重奏2番の最終楽章は多分始めて無調性を試みた楽章です。(この四重奏が当時浮気中だった妻に捧げられているのは面白い史実です。妻はいずれ戻ってくるのですが、捨てられた愛人は自殺をします。愛人はショーベルグの絵画の先生でした)ウェーバーンの四重奏のための5楽章、ベルグのリリック組曲、など。ショスタコーヴィッチは15の四重奏を残しています。ソヴィエト連邦の抑圧の中作曲していたショスタコーヴィッチは1948年、ついに共産党のメンバーにならざる終えなくなります。連邦のプロパガンダ楽曲を作曲することを強制されながら、彼は「引き出しのため」に演奏予定の立たない曲を密かに、時には涙ながらに、作曲をします。その多くには自分のイニシャルを音符にして入れ込んであります。政治的表明、と言う意味では最後にもう一つだけ大事な四重奏の話を。George Crumbのブラック・エンジェルと言う曲があります。これはアンプで音を拡大した四重奏のための曲ですが、イギリスのルネッサンス作曲家John Dawland「Flow, my tears」や、シューベルトの「死と乙女」を引用してたくみに当時のベトナム戦争反対の姿勢を表明した、今では歴史的に有名な四重奏です。

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マドリガルと言うジャンル -起源と発展

マドリガルと言うジャンルが最初に登場するのは、14世紀の中世最後のイタリア。 音楽史で言うと「トレチェント」と言う時代です。ダンテの「Inferno」をきっかけにそれまで芸術音楽はいつもラテン語かフランス語だったイタリアで『イタリア語も美しい!』運動が始まり、マドリガルを始め、Caccia(輪唱+低奏)やバラッタ(AbbaA―盲目のオルガン弾き、ランディーニが140曲も残しました)と言ったジャンルが急に登場そして消えていった、と言う出来事です。 この頃のマドリガルは同等の2声か3声で伴奏は無し。3節の歌詞が2回(か、それ以上)繰り返されて、最後にRitornelloと言うセクションが拍子も音楽の調子も全く変えて登場する、と言うジャンルでした。歌詞の内容は恋愛、田園風景、社会を理想的に描写する、あるいは風刺する、と言う内容。Jacopo de Bologna と言う作曲家のNon Al suo Amante…が有名です。 その後、一度死んだマドリガルは、16世紀になって全くの別物となってまた登場します。 今度のマドリガルは7-11節の詩。しかもPetrarch,Tassoと言った過去の大物詩人を扱った曲が多いです。これは1500年ちょうど位にBemboと言う詩人が出版したPetrarchの監修の前書きに,Petrarchの語彙の選択が、その意味だけでは無く、発音されたときに醸し出す雰囲気を考慮されているか、と言う内容が作曲家を触発したから、と言うことがあります。音楽に繰り返しはありません(Through-composed)。最後の一節や二節で、ジョークが明らかになる、とか状況が明かされる、と言った構成が多いです。このジャンルの発展は下に時代ごとに追っていきますが、その前に一言注解。このジャンルで歌詞に「死」と言う言葉が出てくるとき、それは「オルガスム」を意味します。 1520年から50年。同等の4声部。 この頃のマドリガルは聞かせるための音楽では無く、演奏して楽しむ音楽でした。混声が多いこのジャンル。いそいそと男女がパート譜を小脇に挟み、小さな部屋で寄り添って歌いあった状況が目に浮かびます。パート譜といいましたが、それぞれの歌い手が見えるのは自分の楽譜だけ。従って合唱して初めて歌詞の全容が明らかになる事が多く、それを作曲家は充分に計算に入れて卑猥な内容がリハーサルで初めて明らかになる、と言って工夫を凝らしました。この時代のマドリガルの有名な作曲家はArcadelt,Willeartと言ったBurgandian の作曲家の4代目です。ArcadeltのIl bianco e cigno(白くて優しい白鳥)が代表作です。 1550年から70年 5声から6声 マドリガルと言うジャンルは作曲家の格好な音楽実験の場になって行きます。歌詞の内容を音楽にどう反映させるか、と言うことで技を競いあうかのように色々な新しい作風が試されていきます。この時代の代表作の多くを書いたWillaertは生徒にZarlinoと言うイタリア人を持っていました。このZarlinoがどの協和音、不協和音をどの様に使うことによってどのような感情的効果をもたらせることが出来るか、ということを詳しく書いたIstitutioni de armonich(和声のシステム)と言う本があります。この本に書いてあることをまさに実行してあるのが、Zarlinoの教師、Willaertのマドリガルたち。多くはPetrarchの詩に載せてあります。 1570年から1600年、5声以上。 それまでは歌って楽しむジャンルだったマドリガルがこの頃からプロが雇われて演奏するジャンルへと移行していきます。Ferrara地方の音楽のパトロンとして有名なEste家では初めてConcerto delle Donneと言う女性合唱隊が1580年に結成され、これは色々な地方のパトロンの宮廷で大流行となりました。(美声だけではなく、美人と言うのも大事だったらしい)この頃になってようやく、それまで外国人にやられっぱなしだったイタリア語のジャンルにイタリア人作曲家がみられ始めます。Luca MarenzioやGesualdo などがそれです。プロに歌わせると言うことは技術的に高度なものを書いてもOKと言うこと。 物凄い不協和音や半音階などのオンパレード!特にGesualdoと言うのは私生活も激しかった人で、珍しく貴族出身の作曲家なのですが、最初の妻の浮気現場を発見してしまい、妻とその愛人をその場で殺してしまう、と言うスキャンダルを経た作曲家。彼の書いたIo Parteや、Luca MarenzioのSolo e pensosoはちょっと聞くと「エ!?現代曲!?」と思いかねないほど「表現」と言うことを「美」と言うことより重視しています。Gesualdoでさらに重要なのは分裂症とも思えるような曲の中でのコントラスト。協和音が続くと思ったら急に不協和音が目白押しになったり、ゆっくりな箇所から急に速い箇所に移行したり。 1600年 Prima Prattica 対 Seconda Prattica Monteverdi はその生涯に8冊のマドリガル集を出版していますが、その4冊目に含まれていた「Cruda Amarili」と言う曲がArtusi と言う評論家の矛先に上がり、激しい論争が始まりました。Artusiの言い分は「余りにも型破りで、不協和音が多すぎる」と言うもの。大してMonteverdiの反論は「音楽のルールを大事にすると、どうしても音楽に歌詞を従わせることになる。でも音楽は歌詞の効果を高めるために使われるべきだ」と言うものでした。この新しい考え方をMonteverdi はSeconda Prattica,古い考え方をPrima Pratticaと命名。 同じ頃登場し、上記のMonteverdi も書いたのがConcerted Madrigalと言うジャンル。歌手の独唱、あるいは数人の歌手に(一人が歌手で他の歌の部分は高音の弦楽器などが弾いても良し)に楽器の通奏低音がつく、と言うものです。 マドリガルはイタリアを音楽史上重大なポジションに押し上げたジャンルで、イタリア語の歌詞であったにも関わらず、ほかの色々な国でも注目されました。一番はイギリスです。1560年には原語イタリア語で出回っていたマドリガルが、1580年には英訳されて出版(Musica Transalpine)。その後、イギリスでは歴史的に大事な、作曲家Thomas Morley著のPlain and Easy Intorduction to Practical Music(実用的音楽への簡単でシンプルな紹介)と言う本にもマドリガルの説明があります。

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1750年から1825年、革命の時。

1749年にヘンデルの「王宮の花火の音楽(Royal Fireworks)」―屋外での式典のために書かれた管弦楽のための華やかな曲―の公開リハーサルが行われた際、12,000人もの人が一目みたいと詰め掛けて、三時間交通が不通になったらしい。前回でも触れたが、公開演奏会が始まったのはロンドン、1672年。それがパリでも1725年に始まり、ドイツのライプツィグでも1763年に始まる。中産階級のアマチュア演奏家や愛好家を念頭に置いた演奏法や音楽理論の本が多数出版され、出版社はアマチュア用の曲を作曲家に依頼する。音楽が特権階級のみの物だった時代は過ぎ、大衆が演奏・出版・作曲される音楽を左右する時代の到来。それは要するにに革命の時代であった。 啓蒙主義的な考え方がどんどん浸透する。人間の観察力、経験から学ぶ力を伝統や宗教より重んじ、常識的・実際的な道徳の方が教会の教えより大事であるとする。国家や体制の役割を人権の保護とし、一般教育の必要性を説く。人工的なものより自然なものを良しとし、自然に(のみ)『真実』が見出せるとする。人間皆平等、人間皆兄弟。この思想が最後にベートーヴェンの第九のフィナーレ「喜びの歌」で開花するまでの道のり、と言うのが古典派の作曲家の生きたヨーロッパ。 オペラの発展に置いても、その反映を見ることが出来る。 メタスタシオ(1698-1782)と言う詩人が居る。音楽史での彼の重要性は、オペラ・シリアと言うジャンルを確立したことに在る。彼自身、啓蒙主義者を自負し、聖ローマ皇帝の委嘱にはしばしば啓蒙主義的で寛容な皇帝を登場させ、娯楽を通じて道徳教育を、と言う観点を持って書いていた。これはこれで成功し、27しか無かった彼の台本は実に100以上のオペラとなって今日に残る{例えばモーツァルトもオペラにした「Clemento di Titto」)。しかし、彼はあまりにもはっきりとしたオペラ・シリアの公式を確立しすぎた。3幕それぞれ大体10から20のシーンがあって(登場人物の入場・退場をシーンと数える)、登場人物は大体6人(二つのカップルとそれから打ち明け話を聞く脇役)。アリアとレチタティーボを交互に繰り返す。そして絶対に喜劇的要素があっては成らない… こういう体制を提示されると、すぐ反抗したくなるのがこの時代なのである。 まず最初にオペラの幕と幕の間の休憩時間に一幕ずつ演じられるIntermezziと言う喜劇オペラのジャンルが急に発展する。Pergolessi(1710-36)の「奥様女中」はその代表作だ。これは言うことを聞かない女中にまんまと言いくるめられて最後にいつの間にか結婚を申し込んでいる独身貴族の男性のコメディー。社会階級の差や、貴族制度などを笑った風刺劇である。そしてそのちょっと後に始まったOpera Buffaと言う喜劇オペラ。Intermezziと並び、貴族からの委嘱ではなく、公開オペラ劇場で演奏されるために出てきたジャンル。でも、コメディーと言うのは芸術的実験がしやすい。と言うことで、これらのジャンルはオペラ・シリアを抜いてどんどん芸術作品として発展。モーツァルトの『コシ・ファン・トュッティ』や『フィガロの結婚』までどんどん成長して行く。この頃にはもう貴族も腹を抱えて笑う、皆に愛されるジャンルである。そして貴族をも笑わせながら、社会制度の痛切な批判もユーモアに交えて行えるのが、こういう喜劇なのだろう。そして喜劇のジャンルだけではなく、まじめなオペラにも見直しの空気が1750年くらいに巻き起こる。一つはフランスで起こった「バフーン口論(Quarrel of the Buffoons)」。これはイタリアの喜劇オペラ(Opera Buffa)のグループが2年ほどパリで公演をしたのをきっかけに巻き起こった。それまでのフランス・オペラは余りにも様式に凝り固まっていて、自然さも人間味にもかけていた。もっとイタリア喜劇に学ぶべきではないか…と提唱したグループの筆頭に立ったのが「自然に帰れ」のジャン・ジャック・ルソー。彼は実は自身も作曲家でもあって、この「イタリア喜劇スタイル」で、実験的なフランス語のオペラさえ残している。それからイタリアを中心に起こった「オペラ改革」。それまでのオペラを余りにも様式ばっているとして、より自然な表現を追及したグラックに代表される動き。 交響曲も、四重奏もこの時代、ハイドンによって確立されたジャンルとなり、それをベートーヴェンが一気にその限界まで持っていってしまう。それまでは奏者の楽しみのため、聴き手の娯楽のための音楽だったのが、ベートーヴェンでなぜかいつも、作曲家のため、さらには音楽のための音楽、になるのである。ミサ曲でさえ、すでに宗教のためではない。ミサ曲と言うジャンルを使って、ベートーヴェン様が何か物凄い音楽を書いている、のである。何故そう言うことが許容されたのか。それはベートーヴェンの表現しようとしていたことが全く啓蒙主義のそれと、たまたま一致したから、そしてベートーヴェンと言う人物そのものが(難聴を乗り越えて、作曲に人生をかける個人)その頃革命を計画・実行する人々の理想にかない、個人の内面と言うことがどんどん大事に成っていくロマン派への格好な橋渡しになったからではないか。 随分はしょったが、ロマン派に早く行きたいので、今日はここまで!

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