練習法

練習しながら馳せる思い

あと一週間半で、「『クラシック』って何⁉」を初演する。 練習に拍車がかかっている。 しかし演奏会が迫っているからと言って演奏準備のみに生活が染まる訳では無い。 博士論文のためのリサーチや指導教授との交信、 日本での公演の広報やその他もろもろ準備、 5月7日を皮切りにヒューストンである色々ある他の演奏会の準備・練習、 生徒さんの指導とそれにまつわる交信、 健康管理のためのほぼ毎朝のジョギング、食生活管理、など。 練習できる時間は貴重である。 いかに効率よく、短時間で最大の向上を遂げるか。 速い曲をゆっくり練習し、技術的な難関を分析・理解し、弾けるようにする。 ゆっくりな曲を2倍、3倍のテンポで練習し、曲の方向性や構築・全体像をつかむ。 音量の大きな曲や部分を弱音で練習し、イメージトレーニングの様な事をする。 こうすることで、肉体的疲労を防ぎ、強音の箇所を長く練習できる他、 音量を落とすことによって違った視点からその曲を考察できる。 実際には弾かないで、楽譜を勉強する。 などなど。 背水の陣で頑張っていると、時々思いがけないインスピレーションを受けることがある。 ゴールをはっきりと設定し、それをクリアするような練習をしているのに不思議だ。 昨日はスコット・ジョップリンのラグタイムを練習している時、 突然(他の曲と同じ弾き方じゃダメだ)と悟った。 スコット・ジョップリン自身は11歳から16歳まで ドイツ出身の音楽教師にその才能を見込まれて無料でレッスンをしてもらっている。 音楽を娯楽だけでなく芸術として教わり、 クラシック、オペラ、民族音楽と色々なジャンルを教わったらしい。 だから彼の音楽教育、ピアノに於ける基礎技術は、結構きちんとしていただろう。 でも、ジョップリンのラグタイムを一世風靡した背景には クラシックの様なヨーロッパ風エリート主義・歴史崇拝に対する反抗心、 アメリカ独自の文化、純粋に楽しい音楽を求める心があったのではないか。 19世紀の終わりと言うとJohn Philip Sousaもアメリカ全土を魅了していた頃だ。 そしてラグタイムを演奏するドサ周りの黒人の多くは独学でピアノを学び、 耳で弾く、楽譜が読めずに「正規」の奏法を教わらずに来たピアニストが多かったのでは? 少なくとも、幼少にハノンやツェルニーを何時間も練習したようなピアニストでは無い。 大体ラグタイムの書き方自体が指主体ではなく、手首・腕主体だ。 どうやったらクラシックと対象的な奏法・音色・スタイルを編み出せるだろう。 ピアノで座る姿勢をまず変える。 重心を下げ、力を抜き、勢いと重さで弾くことに重点を置く。 この人達はクラブやお祭りや世界万博で何時間もBGMを弾き続けた。 何時間も、騒がしい環境の中で弾き続けるためには、楽に弾けなければいけない。 渾身を込めてはいけない。 この音楽は深いメッセージや募る思いを表現するのではなく、 むしろそう言う物を押しやるような強い生活力、意志的な明るさ、 ある意味ドイツ流クラシックの自己陶酔的な真面目さと対局する意地を持つ。 軽くて良いのだ。 ピアノに自己投影をする教育を受けてきたクラシック奏者としては 「軽く弾き流す」と言う事には違和感を感じる。 でも、それを敢えてすることで、新しい人生観が得られるような気もする。 こう言う事を、15分の練習で考えたりするのです。 練習ってすごい!

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現代曲の譜読み

私はTexas New Music Ensemble(テキサス現代曲アンサンブル)と言う 去年創立されたNPOの創始メンバーのピアノ担当である。 テキサス州に関係のある存命の作曲家の曲だけを取り上げるアンサンブル。 来る11月、このグループ主催のピアノ独奏会を演奏する。 ライス大学を始め、テキサスにある主要大学音楽部の教授の曲が多い。 テキサスと言うのは政治的に、一般的には右寄りで保守的とされる州である。 キリスト教信者の数が物凄く多いし、キリスト教ベースの保守的な考え方 (例えば女性問題、アボーションの問題、同性愛者結婚問題などに関して)を 強く主張したりもする。 そのせいだろうか。 現代曲も、一番実験的、アヴァンガードなものよりはずっと 調性がなんとなくあり、ジャズっぽかったり、テーマがはっきりしていたり、 聴きやすいものが多い。 (今日のブログのテーマからはちょっと離れるので蛇足かもしれないが、 そういう風に見るとアメリカ東海岸はヨーロッパより、西海岸は東洋よりで 美的感覚で現代曲が随分違う。) しかし、それでも現代音楽。 新しいこと、斬新なこと、新しい見解などを打ち出す野心をどこかに隠し持った曲が多い。 と、言うことは正規のクラシックのような 調性とか、メロディックなテーマとか、そう言うパターンが見つけにくい、のである。 こういう有名な実験がある。 チェスのチャンピオンたちにチェスボードを見せる。 駒がゲームの途中のように並べてある。 彼らはこれを一瞬見ただけで、記憶できる。 ところが、同じボードに駒を全くランドムに、ゲームではありえない配置をすると どんなチェスチャンピオンでも全く記憶できないのである。 意味あるものは理解ができるから、記憶できる、と言うことである。 現代曲の多くは、このランドムなチェスボードを記憶しようとするようなものだ。 非常に時間がかかる。 でも、段々、段々、自分なりの意味づけが出来てきました。 でたらめ言葉を台詞にもらっても、 大役者なら何等かの効果を上げるだろう。 私だってプロのピアニスト。 音楽を創ってみせるぞ。 どんな材料でも。 そういう意気込みで読んでいくと、 段々作曲家の意図した音楽も見えてくる。 面白くなってきました。

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自分の本番を録音で聴く、と言う作業

自分の演奏の録音を聴くのは、自分の声の録音を聴くようなショックがある。 「え!?これが自分?」 例えば、自分で録音した留守電メッセージを確認のために聴くのが苦痛なように、 自分の演奏の録音を聴くのも、実に実に、気が進まない。 歯医者に行くのと同じくらいいやだ。 しかし、これが非常に勉強になるのである。 今日は誇りを持って報告しよう! 私は今週土曜日の自分のみなとみらいホールでの演奏録音を聴きました。 まだ30日にもう一度千葉美浜文化ホールで≪南欧の愛と幻想≫を演奏する。 その時に自己ベストを尽くすためにも、反省のためにも、聞かなきゃ… 土曜以降ずっとそう思っていたが、 今日火曜日にやっとその勇気が出たのは 聴衆の皆さまからのメールやFacebookメッセージのおかげである。 実は私は演目の一番最初に弾いたショパンの幻想即興曲は 壊滅、惨敗で、穴があったら入りたい、と思って弾き終えた。 普段、想定もできないようなミスタッチをたくさんして、 (自分はなんでピアニストなんて言う職業を選んでしまったんだ…)と 悲しい気持ちで舞台そでに引っ込んだ。 ところが、コメントで 「幻想即興曲が良かった」 「よく知った曲が熟考された新しい解釈で新鮮に聞こえた」 と言うようなお褒めの言葉を多数いただいたのである。 奏者の本番直後の自己評価が聴者の評と大きくずれることは、実際よくあることである。 私はそれで、録音を聴いてみる勇気と興味をいただいたのである。 (ご感想くださった皆さん、ありがとうございます‼(≧▽≦)) 録音を聴いてびっくり! 曲全体の印象を大きくゆがめてしまうくらいの破壊力に思われたミスは 一瞬の出来事でほとんど聞こえない。 確かに不安定さがあり、テンポが前倒しになり気味だが、 それが却って、不安な曲想を煽り立てている感じにも聞こえる。 そ、それにしても…速い! この話しはブログにももう書いたけれど、 極度の集中をしている時、主観的な時間がいつもよりもゆっくり流れる。 一秒が一秒以上に感じられるのである。 よく、格闘技の漫画などで、それまで速すぎて見えなかった相手の技が 「み、見える…!!」と言うあの瞬間、である。 しかし、音楽は時間の芸術である。 時間感覚のゆがみが非常に致命的になることがある。 一番単純なのは、 いつものテンポで弾いていると思っているのに実際はずっと速く 物理的に体の動きが追い付かない場合である。 例えば録音のスカルラッティのソナタで、私は腕の交差が追い付いていない。 (集中ができていない)とか(緊張しすぎている)とか演奏中は誤解してしまうが、 実際はもっと単純に、極度の集中で時間の感覚が変わり、テンポが速すぎるだけなのだ。 次に困るのは、難しいパッセージだけ集中度が増す、と言う現象である。 簡単なフレーズが続いて、急に難しいパッセージが入る。 そうすると、パッとテンポが速くなるのである。 これは私だけの問題ではない。 私の生徒、同僚、そしてプロの演奏でも良くそう言う現象は見受ける。 最後にゆっくり歌い上げているつもりが、 お客さんに感動する間を十分に与えていない、という現象である。 無声映画の時代の、ちょっとだけ早回しの映像で、 チャップリンがいくら泣いても滑稽に思えるのは、タイミングの問題である。 チャップリンは道化役だからそれで良いのだが、 音楽ではそうはいかない。

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ピアニストのジレンマ。

今年のリサイタル「南欧の愛と幻想」にはこの曲が入っている。 「ああ!この曲…」と思われる方も多いだろう、有名な曲だ。 アルベニスの「アストリアス」。 ギターの編曲が有名だが、アルベニスのオリジナルはピアノである。 スペインの民族音楽が素になっている。 このYouTubeを見てお分かりだろうが、この曲にははっきりとしたむずかしさがある。 跳躍である。 ここでピアニストのジレンマがあるのである。 ピアニストの楽譜立てと言うのは、 鍵盤の前に背筋を伸ばして座って、まっすぐ前方を見ると見える位置にある。 これが一番「良い」姿勢、体に負担がかからない姿勢、腕や手の動きが楽な姿勢である。 しかし、こうすると鍵盤が見えないのである。 これは、暗譜をする一つの理由になっている。 しかし、暗譜をしても、このような跳躍の場合はどうしたら良いのか。 鍵盤を見ないで、良い姿勢を保ち、触感と筋肉の動きだけで跳躍をする、 と言うのは一つの方法である。 しかしこのように遠くに跳躍をする場合、体の重心を全く動かさずに、と言うのはほぼ不可能。 そして、重心がずれると、指針がずれるので、触感と筋肉の記憶だけで跳躍を正確にするのは 非常に難しくなる。 しかし、鍵盤を見ようと首を下にすると、腕の動きが明らかに少し限られるのである。 特に私のように座高が高い人は不利である。 論理的には、鍵盤と楽譜立てからの距離が遠ければ遠いほど、両方見えることになる。 (楽譜立てに楽譜を置かないが、『楽譜立てを見る』姿勢を一番良い姿勢としての話し)。 だから、椅子をぐっと後ろに引けば、となる。 しかし、現実問題腕の長さは限られているし、 この曲のように高音鍵盤と低音鍵盤に同時に跳躍するとすると、 やはりある程度の近さに居ないと楽に届かない。 全てはバランスの問題なのだ。 が、そのバランスを毎日違った会場で、違った椅子で、違ったピアノで図るのが難しい。 最初のヴィデオはわざと、苦労して弾いている人のヴィデオを乗せましたが、 次に名人を、二人。 アリーシア・デラローチェはやはりすごい。 しかも、彼女の背の低さと手の小ささを考えると、信じられない! まあ、背が低いと自然と重心が低くなり、安定するという利点はあるが。 そして、次にこの人は、タイミングを絶妙に計ることで跳躍を簡単にしている。 う~ん、なるほど。とても参考になったぞ! みなとみらい、お楽しみに!

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午前中から酔うなんて…!

パリから帰ってきてしばらく、 音楽よりもピアノ技巧に集中することによって心頭滅却を試みている。 朝一で午前中、正午のヨーガのクラスまで練習することが多いのだが、 久しぶりにゆっくりスケールや練習曲をさらい、 自分の体と鍵盤と音のつながりを確認。 禅僧のような練習をしている。 最近自分に課しているチャレンジ。 午前中の練習にはペダルを使わない。 特に演奏会に向けて練習している時は、 本番に近い奏法で、本番をイメージしながら練習することが多くなる。 勿論ペダルも使い、音楽的に歌いまわしながら弾くことを、朝から晩まで試みる。 でも、最近気がついたのだが、そうすると死角が出てくるのである。 ペダルを使わない利点は: 1.すべての音を意識するようになる。 2.上の1.の結果今まで意識していなかった和声や装飾音の発見があり、新鮮。 3.地に足が着く。 この3.はヨーガの着想。 ヨーガでは「地面からエネルギーを得る」、と言う言い方をする。 地についた自分の足をしっかり意識することによって、自分の確認をする、と言う意味だと 私は理解している。 日本語の諺「地に足をつける」とか、英語では「be grounded」とかも ほぼ同じ意味だと思う。 ところが、ピアノを弾いていると大抵右足はサステイン・ペダル、左足はソフト・ペダルに乗っていて、 地に着いているのはかかとだけ、になってしまう。 そしてこのかかとがピンポイント・ヒールなどを履いているときはもう悲劇。 本番中、この状態で緊張のためひざが震えたらもうアウトだ。 ペダル無しで練習していると、足をしっかりと地に着けてピアノを弾くことになる。 そうすると、落ち着いて冷静に、色々な判断が出来てくるのである。 聞き方もより分析的に、客観的になって、全く違ってくる。 ペダルを用いて演奏することは、まるで酔っ払って演説するような物である。 酔っ払っていると、勢いが出てくるかもしれない。 声が大きくなり、顔が紅潮し、人をも一緒に酔わせやすくなるかもしれない。 しかし、酔っ払いながらの演説に筋を通し、説得力を持たせようと思ったら、 素面のときの演説内容の裏づけリサーチと、冷静な論理づくり、そして練習が必要だと思うのだ。 そうしなければ、単なる自己陶酔だ。 自己陶酔と、共感を呼ぶ情熱の違いは本当に紙一重だ。 そこが素人とプロの違い、とさえ、言えるのかも知れない。 そして、素面でペダル無しの練習は新鮮で楽しいし、 自分に厳しくなる、良い修行。 午前中は酔わない!

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