リサイタルは儀式!?

私の博士論文のトピックは「ピアノ演奏に於ける、暗譜の歴史」である。 暗譜演奏を定着させたのは、リストとクララ・シューマンと言う事になっている。 ちなみに、今日のピアノ・リサイタルのフォーマット ―2時間の、休憩を挟んだ独奏― を定着させたのもこの二人、と言われている。 (実際はリストがロンドンで1840年に行ったのが最初と言われている。クララ・シューマンは、リストに着想を得て、1844年に初めて『リサイタル』を行っている。これはこのフォーマットの方がより良いと思った、と言うよりは、それまでの伝統―他の楽器奏者や時には役者や劇団を雇って合間に演じさせる―は手配も大変で出費もかさむから、だったようだ) この二人とこの時代について言及してある、と言う事で 実際には暗譜については一言も触れられていなかったが 読んで見たら、面白かった。 The ritual of music contemplation: An anthropological study of the solo piano recital as cultural performative genre Pedroza, Ludim Rebeca http://search.proquest.com.ezproxy.rice.edu/docview/305478050/abstract/D02ACCDCA0A44617PQ/10?accountid=7064 まず、リサイタルと言うものの意義について問いかけます。 今の世の聴衆にとって、音楽を楽しむ、または知る上で、どれだけ有意義で有効なフォーマットか。 ピアニスト自身は、まるでリサイタルを演奏することがピアニストである証明のように 学生時代はその為に練習を重ねるが、実際の収入をリサイタルで得ることになるピアニストはわずか。 ならなぜ、ピアニストの教育で、リサイタルにこれまでの重点が置かれるのか。 まさに! 次に、リサイタルとは、むしろ儀式ではないか?と、問いかけ、儀式の定義を行います。 主に人類学者Victor Turner(そして補佐的に、人類学者Eric W. Rothenbuhler)の研究を基に、儀式とは二つに区分けられる、とします。 1.アフリカの部落のような小さく、工業革命の影響を受けていないコミュニティーに置ける、全員が参加を義務付けられる儀式。(例えば日本の伝統的なお祭り、教会の祭典、など)。これは、コミュニティーの日常から離れ、また日常の良さを確認して、戻るための役割がある。(Liminolity) 2.工業革命後の、大きな社会に置ける儀式(演劇、舞踏、スポーツイベント、など)-余暇にどの『儀式』に参加するかは、個人のアイデンティティーをつかさどる大きな要素。この『儀式』は日常から距離を隔て、日常や現実の正当性や、現状はどう変化できるか・するべきかと言うアイディアの提示などを行い、革命などに繋がることもある。(Liminoid) そして、では、リサイタルとは1と2のどちらに属すのか? 彼女は歴史を追って、リサイタルは儀式2から儀式1へ移行している、と意見を述べています。 もう一つ、この論文で面白かった点。 リスト対クララ・シューマンで、リサイタルは全く違う役割を果たしていた。 リストは自分の超絶技巧とスター性を見せびらかすために 聴衆を自分だけに集中させる2時間が欲しかった。 しかし、クララ・シューマンは音楽を崇高な物として、「娯楽」から遠ざけようとした。 その違いが選曲にも、演奏法にも、明らかだ、と言うのです。 私は明らかにクララ・シューマン線で今まで来ました。 しかし、最近、私にリスト線の選曲をリクエストする人が出てきているのです。 私はピアノ演奏をスポーツを見るような感じで技巧だけに感嘆して欲しくない、と言う思いから 例えばリストの『ラ・カンバネラ』などの曲を今まで避けてきました。 […]

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