ピアノ

来月の日本公演の告知です。

今日は、今年で17年目になる私の夏での日本公演の告知をさせてください。6月17日、土曜日の13時半開演、品川きゅりあんを中心に千葉や群馬まで足を延ばし、色々なところで弾かせていただきます。 沢山の方々に応援やご支援を頂き、今年ついに音楽博士の学位を取った!その感謝の気持ちを込めて、経て来た修行と勉強の結果、今の私が一番弾きたい曲たちを集めてみました。題して「天上の音楽vs。地上の英雄」。前半「天上の音楽」ではバッハの傑作、ゴールドベルグ変奏曲を、そして後半「地上の英雄」には、音楽に於ける「英雄像」を最初に体現したベートーヴェンのソナタ1番、ショパンの英雄ポロネーズ、そしてリストのメフィストワルツ、等を弾きます。 天上の音楽と言うのは古代ギリシャの音楽に対する考え方です。動くもの全てに音がある、と考えた彼らは、星も動く、だから音がある、と考えました。天上を一番適確に反映する事が出来るのは音楽だ、と彼らが考えた理由には数学者のピタゴラスが居ます。ピタゴラスは協和音が整数の比例で表すことが出来る事を発見したのです。例えば長い弦がドの音で響いた時、その弦を半分、つまり2:1の長さにすればオクターブ上のドが出る。3:2はドからソまで、4:3ならドからファ、と言う具合です。音楽は数字の体現だ、数字は絶対的な真実だ、だから音楽は天上をも反映する…「天上の音楽」の始まりです。この天上の音楽と言う考え方はクラシックに大きな影響を及ぼしています。コペルニクスやガリレイが実際には「天上の音楽」は在り得ないと立証した後でも、バッハの時代にも、です。バッハは数字に非常なこだわりを持っていました。例えば、ゴールドベルグは冒頭に少しお聴き頂いたあの有名なアリアから始まり、30の変奏曲を経た後に、もう一度最初と全く同じアリアを演奏して終わります。つまり、32のセクションから成る訳です。そしてそれぞれの変奏曲は32小節から成っています。さらにさらに、バッハにしては珍しく生前に出版されているこの「ゴールドベルグ」、初版のページ数は…32ページ!しかもこれはファクシミリで観ると分かるのですが、無理やりそうしている感じなのです。そして今の例は全く表面的な事で、曲を分析すると、摩訶不思議な事がわんさか!人間が作ったとは思えない精巧さなのです。 地上の英雄では、啓蒙主義から始まった思想革命、フランス革命を始めとする政治革命、工業革命など結果、個人の個性や思想・感情と言ったものが非常に重要視されるようになって来ていた激動の時代、英雄崇拝がクラシック音楽を大きく影響したことを取り上げます。混沌とした運命に勇敢に立ち向かい、チャレンジを制して、勝利と歓喜を手に入れる。この構図の象徴となったのがベートーヴェンです。彼の曲風にもそういうテーマは多かったのですが、彼の難聴・失聴、その後自殺まで考えたが「作曲に生きる」と決め、天才として名を遺した、と言う人生そのものにもこの構図は当てはまります。超絶技巧のピアニストも英雄視されました。当時、ピアノは劇的に進化を進めていました。そして量産もどんどん倍増されました。ピアノと言うのは、工業革命の象徴になったのです。「機械に人間性を乗っ取られるのでは」と言う工業革命以来の不安が、ピアノを制して劇的に音楽を繰り広げるピアニストを「英雄」にしたのです。ショパンの英雄ポロネーズとリストのメフィスト・ワルツはそう言う風潮の落とし子です。 前半と後半では、ガラリと音世界が変わります。丁度、ヨーロッパがその時代、ガラリと変わったように。音楽は勿論、色々な面からお楽しみいただけるプログラムを目指して、頑張ります!是非お越しください。 チケットのお買い求めはこちらからどうぞ。 6月17日(土)13時半開演。品川きゅりあん http://makiko0617.peatix.com 6月22日(木)13時半開演。千葉美浜文化ホール http://makiko0622.peatix.com

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演奏と録音の決定的な違い

3月末から私の7枚目となるアルバム「100年:ベートーヴェン初期作品2-1(1795)とブラームス晩年作品120(1894)」を私の心の友であり良きデュオ・パートナーのクラリネット奏者佐々木麻衣子さんと収録している。ベートーヴェンのピアノソナタ一番と、ブラームスのピアノとクラリネットのためのソナタ1番と2番。 自分のこれまでの6枚を含め、録音はもう二十年近くにわたり色々手がけて来たが、録音と言うのは本当に厳しい。素晴らしい試練と言えばポジティブだが、自己批判をしながら弾くと言うのは苦しい物である。 演奏中、3人の自分が居なければいけない、と言う事はピアノのレッスンなどで良く言われる。そこまでの自分の演奏を良く聴いて評価する自分、演奏に集中する自分、そして現時点以降の曲の展開を考える自分、である。録音の時にはこの最初の自分がとても大事になる。できるだけ効率よく、完璧に近い演奏を収録するためには、今進行中のテイクを続けるべきか、ここで中断して違うテイクを弾き直すべきか、常に判断しながら弾き進んでいる。 生演奏の場合、過去のミスは忘れるしかない。ミスをしたら大事なのはいかにそのミスの影響を最小限に食い止めるか、だけ。その為には演奏する自分と、現時点以降の音楽に集中する自分の方がよほど大事になる。音楽と言うのはコミュニケーションだ、と私は思っている。自分の気持ち、自分が美しいと思う物、そう言う物をシェアしたくて自然発祥すると言うのが音楽の理想的な在り方だと思う。だから生演奏では、お客さんのエネルギーと言うのが私の演奏を大きく左右する。お客さんがいっしょに乗ってくれるとワクワクする。ピーンと空気が緊張して無音の状態よりもさらなる静寂と言うのをお客さんと分かち合う、と言うのも物凄い一体感だ。この前(3月23日)にアジア・ソサイエティーで演奏した時は、リストのハンガリー狂詩曲で聴衆に参加を呼びかけたら、みんなノリノリになってくれた。   しかし録音の場合、このシェアする対象がとても抽象的なのだ。しかも色々な機械を通して変わった音を、全く違った環境で、今の私の演奏を聞く様々な人達、と言うのは想像し難い。 じゃあ、なぜ私は録音をするのか。私は2001年のラヴェル初期作品を皮切りに大体2年に一枚のペースでアルバム収録をして来た。これは自分に課した修行だ、と思っている。私の音楽人生を支援し、可能にしてくださっている沢山の方々や団体に感謝の表明と成長の報告、と言う意味もある。自分の成長の記録と言う意味もある。しかし、収録の作業と言うのは自己反省の、物凄い勉強なのである。練習中でも中々到達できない自己批判のレヴェルが、セッション中ずっと続くのである。これは非常に疲れるが、同時に自分が上達している実感も伴う。 そんな収録が続く中、明日は何度もすでにお世話になっているCrain Garden 演奏シリーズで正午にベートーヴェンのソナタとショパンの英雄ポロネーズ、リストのメフィストワルツを演奏させていただく。ご褒美みたい。とっても楽しみである。

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「気合を入れる」は「力む」とは違う。

今年の日本の演目テーマ『天上の音楽vs。地上の英雄』の後半で弾く曲はベートーヴェンのソナタ一番、ショパンの英雄ポロネーズ、リストのメフィスト・ワルツ一番など。この『地上の英雄』の初公開が13日(木)に迫っています。  『天上の音楽 v.s. 地上の英雄』PDF ダウンロード  Crain Garden Performance Seriesと言うお昼時一時間の演奏シリーズで『地上の英雄』デビュー! 同時進行で最新アルバム収録も着々と進んでいます。 これで7枚目となる私のアルバム。今回はわが心の友にして素晴らしいクラリネット奏者である佐々木麻衣子さんと組んで、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ一番(1795)とブラームス晩年のクラリネットソナタ作品120(1894)を「100年:ベートーヴェンの初期とブラームスの晩年」と言うテーマで収録中です。 それなのに...左手首と腕に違和感を覚え始めたのが一か月くらい前。3月11日と23日の演奏会でリストのハンガリー狂詩曲を弾いた時も、弾ききれるか心配でした。幸いお客様にはお楽しみいただけたようですが、その後も原因不明の腕の重さ、体のだるさ…(心理的なもの?)(姿勢?)(練習法?)と色々考えてみましたが、でもまあ英雄ポロネーズもリストも左手のオクターブ連打が大音量で延々と続いたりしますから、しょうがないと言えばしょうがないのかも知れません。どうやったら脱力できるだろう、どのようにペース配分しよう、どこで体力温存しようと、練習中にも演奏中にも日常生活中にも、自分の体に気を使っていました。 が、今日打開!発見!解明! 難所のパッセージに来ると「頑張らなきゃ」と思います。「集中しなきゃ」「上手く弾かなきゃ」…そしてその時に力んでいるのです。気合を入れると言う事は神経を研ぎ澄ますと言う事で、筋肉をこわばらせることでは無い。実際にはかなり冷めた状態で、冷静に達観してこなした方がうまく行く。 この発見のお陰で今日の練習は短時間ですごく効率よく、チャレンジの打開法が次々と発見できました。これは、人生にも当てはまることだな~と思って忘れないようにブログに書き留めておきました。

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博士論文審査、通りました!

  論文審査の討議と言う物が一般公開されている、と言う事は私は論文執筆の最初から知っていました。「あなたの論文は面白い!私が指導します。そして審査の討議には出席します。」と始めに図書館の論文指導統括を担当するエリザベスが言ってくれたのは、2014年の秋だった。そして2年半前の約束通り、竜巻警報も出る大雨の中、長靴を履いて、素敵な手書きのカードとお守りの首飾りを持って来てくれました。     論文を審査会の教授群に提出する際「論文審査発表」と言う物を学校に提出します。これを受けてライス大学は大学中とインターネットを通じて「何科の誰それの論文「(題名)」の審査がいつ、どこで公開で行われます。」と発表されます。 ところが…!今までライス大学の音楽科の論文審査は全てオフィスの会議室で行われていたようなのです。それだけでもう一般の人は来にくい。さらに私が「友人が数人来たいと言ってくれていますし、論文に関係あるピアノでのデモンストレーションで行いたいので、教室で審査をさせて頂く事は可能でしょうか?」と言ったところ、驚くべき抵抗に会ったのです。「不可能です。諦めてください。」「前例がありません。ピアノのデモンストレーションは自分の演奏をヴィデオをで撮ってプロジェクターで映写してください。」など。反論を許さない、威圧的な返答でした。ところがここで、私の論文指導教授が奮闘してくれました。「私の専門は中世ですが、大学と言うシステムがそもそも最初に設立されたころ、こういう論文審査は執筆者の発表の場でもあり、大学関係者全員が執筆者に質問をし、活発な議論の場となったようです。本来、論文審査と言うのはこういう場であるべきではないでしょうか?私が責任を持ちます。教室でやらせてあげて下さい。」ここからまた色々な論争があり、やっと妥協されたのが、教室の中に机を並べ、審査委員会と私が真ん中に座り、聴講者は教室の端っこでおとなしく目立たないように座る、と言う事でした。 当日は、最初に書いた様に竜巻警報も出る大雨で、「絶対に行く!」と言った人の多くが足止めを食らってしまったのですが、それでも野の君や私のデュオパートナーで心の友の佐々木麻衣子さん、エリザベスと引用のチェックを細かくしてくれた音楽図書館委員のメアリーなどが出席してくれました。 審査は私のプレゼンテーションから始まります。153頁でも簡略し過ぎたと思えるような複雑な内容なのし、それを15分のプレゼンにまとめるのはもうジョークと言うか、罪悪感と言うか。割愛に次ぐ割愛。でも「審査委員会は全員、きちんと読んできたばかりだから」と言う指導教授の激励を受けて、何とか12枚のスライドにまとめました。 プレゼンの後に審査会からの質問やコメントがあります。皆まず、褒め言葉から始めてくれました。「前例がない研究なのに、良くここまで色々情報を集め、まとめました。素晴らしい。」とか「Beautifulな仕事」とか色々言ってくれて嬉しかったです。 次に質問です。 「この内容を踏まえた今、あなたのこれからの演奏様式はどのように変わるのですか?」「クラシック音楽の教育はどのように成長するべきだと思いますか?」「記譜法と言うのは演奏にある限界を設定したと思いますか?」「録音産業と言うのが演奏様式にもたらした影響と言うのは暗譜と同じくらい多大ではありませんか?」 しかし私はプレゼンで全ての脳パワーを使い切ってしまった様にぼーっとしてしまい、さらに教授たちは質問の理由や背景など長々と説明するので(今の2分ほどのスピーチのどこが、どういう内容の質問なんだ。。。?)と私の頭ははてなマークでいっぱいで、なんとなくそれに関係のあるような論文の内容をお話ししたりして、(これでよいのかな?)という感じでした。それなのに質問が止むこと無くどんどん次から次へと発せられ、さらに聴講の人にも質問が振られ、聴講の人も一杯質問してくれて、私は脳みそがぐるぐるしてしまいました。 その後に、今度は最終論文出版前の最後の校正についてのコメントを頂きます。 「イラストに付けてある説明書きをもう少し丁寧にしないと良く分かりません。」「付録としてあなたが言及する出来事の年表があると、読者として大変助かります。」「目を閉じると聴覚が増す、と言うのは間違えではありませんが、あなたの引用している研究発表のデータとは必ずしも一致するとは言えない。この引用は適当では無いでしょう。」「ここはコピペの失敗だと思いますが、句読点が正しくありません。」 そして最後に「それでは合格の是非を審査委員で協議しますので、一度退室をお願いします。」と言われ、ぞろぞろと聴講の人達と一緒に部屋を出ます。「論文審査」と言うのははっきり言って大抵の場合合格する、どちらかと言うと通過儀礼と言う常識があるので、気楽な物で、聴講に来てくれた人は皆「おめでとう」と言って記念写真を撮ったりして、楽しく嬉しく別れます。が、何分も待たされている内に「何をそんなに協議することがあるんだろう…」と不安にもなってきます。 でも、ドアが開いて「おめでとう!」と握手を求められて、とっても嬉しい気分になります。 そして論文審査委員の教授たちと記念写真を撮って終わり!皆喜んでくれていますが、私の顔が嬉しくてくしゃくしゃなので、私はこの写真が好きです。野の君が撮ってくれました。 夜は美味しい赤ワインと洋ナシの甘酢煮添えフォアグラと自家製パスタにロブスターがゴロゴロ乗っている奴、とフィレミニョン(超レア)を食べました!  

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3月11日に東北・熊本復興支援のチャリティー演奏会をします。

ヒューストンで3月11日に東北・熊本復興支援のチャリティー演奏会をします。 ヒューストン日本人会、そして会場を無料提供してくださるFort Bend Music Center Kirby Locationの多大な協力を得て行うこのコンサートは、私と共演者のクラリネット奏者佐々木麻衣子さんにとっての友情記念でもあります。麻衣子さんと私が出会ったきっかけは、2011年のチャリティー演奏会を協力して行った事だったからです。 想えば2011年の東北大震災の際、ヒューストンの日本人コミュニティーは瞬時に結託し、様々な募金活動で力を合わせることによって、在外者としての日本との距離感から来る不安を払拭したのでした。私たち在外日本人には、日本社会に貢献・協力できることは日本と繋がれるきっかけ。日本人としての自分のルーツを確かめるひと時。そして日常生活に埋もれて時にはおろそかになってしまう日本人コミュニティーとのつながりの再確認のひと時でもあります。そして東北、そして熊本でいまだに避難生活を続けていたり、日常生活を平常心で続けることに困難を抱える状況の方々に、ヒューストンから応援している人々が居ると言う事実を知っていただく事で少しでも勇気づいて頂けたら、と言う願いもあります。 私たち日本人の多くは宗教を持ちません。でも、私は日本の古くからの慣習で例えば、子供が危篤の時、村中みんなで屋根に上って大声で子供の名前を呼んでその子を呼び戻そうとする、とかそういう習慣に「祈り」に似たものを感じます。ヒューストンのクリスチャン人口は今まで私が住んだことのある日本・NY・LAよりずっと多く、私にも物凄く敬虔なクリスチャンの友達が何人かいます。彼らは私が問題を抱えている時必ず「祈っているから」と言ってくれます。時々、私の手を握って私に聞こえるように神様にお祈りをしてくれる時もあります。始めは照れ臭かったのですが、私は本当に真摯なお祈りに何度も感動したことがあります。ティベット仏教のお坊さんはお経を唱えることで平和貢献をしている、と信じているそうです。中国からあんな侵略を受け続けているのに、お祈りをしなかったらもっと悪くなっていく、お祈りをしているから心の平穏・平和が保てる、と思うのだそうです。私の音楽は祈りだと思っています。そして、その音楽を3月11日に東北・熊本を始め、世界中の色々な被災者の方々のために捧げたいと思います。 https://www.facebook.com/events/358645517862940/ MATIMAコンサート   

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