音楽

タングルウッドちょうど半分終了

8時  起床、作曲家たちとゆっくり朝食 9時半 キャンパスに移動 10時 研究生たちの演奏会 1時  作曲家たちと昼食、歓談 2時半 ボストン交響楽団モーツァルト交響曲39、40、41番(レヴァイン指揮) 5時半 夕食(寮のお庭でバーベキュー) 6時半 ピアニストと声楽家のグループで映画を見に行く(ハリーポッター) 私のルームメートは作曲家だ。 ルームメートは、音楽祭がかってに組み合わせを作るのだが、合格が決まった段階で 「貴方は朝方ですか、夜型ですか」とか、「きれい好きですか、そうでもありませんか」 などと、いろいろな質問に答えさせられ、一応相性を考えた組み合わせを作るようになっている。 その時、「そのほか、何かあったら書いてください」の項目に私は 「私は、作曲と指揮もします」 と書いて、(作曲か指揮の子と一緒の部屋だったらいいなあ)と思っていたら、 本当に作曲家が当ったので、凄くうれしかった。 おかげで作曲家(5人女性、1人男性)の研究生たちとよく遊ぶし、 時間があるときは彼らのクラスをのぞきにも行く。 今日は二つの演奏会の合間に作曲家と作曲の先生(Michael Gandolfi)と昼食を食べた。 その時、今年亡くなった二人の作曲家が話題に上った。 ルーカス・フォスと、ジョージ・パールだ。 二人ともタングルウッドに深い縁があった人たちで、二人を忍んで今年の演奏会はすべて どちらかの作曲家の曲が一曲は入るようになっている。 研究生たちはあまりこのことを喜んでいない。 特にピアニストはこのノルマを果たすために、 みんなフォスかパールのどちらかのソロの小品を課されていて、不満気味だ。 フォスはそれでも、割と客受けしやすい曲が多いのだが、 パールに至っては、とても抽象的で譜読みも難しい上に受けにくい、とあって、 みんな、弾くのも聞くのも、大文句垂れである。 作曲家たちと今日そのことを面白おかしく話していたらば、 作曲の先生に聞き咎められた。 彼は、20年ほどまえに自分も研究生としてタングルウッドに参加していて、 その時教師だったバーンスタインのエピソードをたくさん披露してくれる。 そのころはフォスもパールも健在で、だから個人的面識があったはずだ。 みんなで内心(しまった)と思ったが時すでに遅し。 静かに、パールが個人的にどんな人だったか、先生のことをどれほど支援してくれたか、 どういう哲学と概念をもって作曲活動をしていたか、聞かされた。 う~ン、他人の仕事を批判するのは簡単だけど、 みんな一生懸命生きて、いい仕事を残そうと思っているんだよなあ。 今日は全くピアノに触れなかった。 タングルウッドちょうど半分のところで、みんなちょっとげんなり気味。 ホームシックと言うか、タングルウッドの狭い世界に食傷と言うか。 そういう文句を言いあうのも楽しいのだが、今日はちょっとタングルウッドと音楽から距離を置くべく、 みんなで一日だらだら過ごして、夜は映画を見に行った。 明日からまた、がんばるぞ。

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現代曲をどうとらえるか

Ursula Oppensと言うピアニストがいる。 現代曲の演奏で有名な女流ピアニストで、Carter, Lutoslawski, Ligeti, Rzewskiなど 多くの名だたる現代作曲家が彼女の為に曲を書いている。 今日は、その彼女が半日だけタングルウッドに来る、と言うことでレッスンを受けられた。 この頃練習している"Boulez is Alive"(by Judd Greenstein)を聞いてもらう。 正直、この頃この曲にはだんだんうんざりしてきていた。 練習すればするほど、この曲の難解に見せかけて実はからくり的な要素が見えてきてしまい、 しかも数回の作曲家とのメールのやりとりで、作曲家から解釈の自由を許されず、 芸術家として全く信頼されていないような印象を受けてしまい、 「楽譜通り、指示通りに弾かせたいんならいっそコンピューターに弾いてもらったら」 みたいな、投げやりな気持ちになってきていたのだ。 Ms. Oppensに通して聞いてもらって、 「まあ、難しい曲、よく練習したのね」 と、認めてもらったらどっと愚痴がこぼれてしまった。 「作曲家との対話でむしろインスピレーションを吸い取られるように感じたことはありますか」 と、一通り話したあとで聞いてみたところ 「作曲家の指示と言うのは(初演で無い場合)、 あなたの前の演奏、あるいは演奏家に対する批評・反省と思いなさい。 例えば、楽譜に忠実に、と言われるのは 多分あなたの前に弾いた演奏家があまりに自由に解釈しすぎて、それを後悔しているだけで、 貴方が解釈してはいけない、と言うことではない。 どんな現代曲でも、ブラームスを弾くのと同じ常識的音楽性を持って 心をこめて、自然に息をしながら、楽しんで弾きましょう。 メトロノームや、コンピューターの様に弾くなんて、音楽の意味が無いですから」 と言ってもらった。 それを聞いて、どれだけ肩の力が抜け、嬉しかったか、ちょっと簡単には描写できない。 Ms. Oppensは、そういった後に、初対面なのに、ギュっとハグしてくれた。 音楽と言うのは、どんな状況でも、共同制作、そしてコミュニケーションだと思う。 作曲家と演奏家、共演者同志、興業の事務に関わる人々、そして聴衆。 音楽と言うのは言語で、言いたいこと、伝えたい気持ちがなければ、音楽なんてなくても良い。 例え、作曲家の音楽の定義が私の定義と全く別で、音楽を感情や概念の伝達の道具ではなく、 全く自分以外の要素を計算に入れない曲を書いて来たとしても その演奏の義務が私に来たら、私はその曲を私の感情、概念伝達の為に使います。

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マーラー交響曲6番(レヴァイン指揮)

8時半開演の今日のボストン交響楽団の演奏会が終わった時、すでに11時半だった。 時間の感覚が全くなくなっていたので、時計を見て、びっくりした。 遅いなあ、とも思ったが、同時に3時間でこれだけの体験ができるのもなんだか不思議な気がした。 今日の演目は、前半にレオン・フライシャーがモーツァルトの協奏曲23番(イ長調)を弾き、 後半がマーラー6番。 レオン・フライシャー氏は、2月に学校のオーケストラを客演で指揮しに来た時、 ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲のソロで共演させていただいた。 その時は、本当に優しく、厳しく、いろいろなリハーサルやランチを一緒に過ごしたが、 今日のモーツァルトはそういう思いでを全て超越した美しさだった。 81歳の誕生日が一週間後だが、モーツァルトに対してへつらうことなく、 何気なく、さりげなく弾いてしまい、それが完璧に美しかった。 ジストニアと言う病気で右手がほとんど使えなくなり、何十年も左手だけの演奏だったが 近年ボトックスを使った治療が効果を上げ、両手での演奏を再開している。 でも、やはり右手の、特に小指がなかなか思うように動かないらしく、 指使いを工夫したり、時には手を交差させて右手の部分を左手で弾いたりしていた。 (今日の席はピアノの鍵盤側の前から5列目だったので、実によく見えた) しかし、後半のマーラーは全くの別世界だった。 私はこの交響曲は初体験だったのだが、本当にびっくりした。 「亡き子をしのぶ歌」の直前に書かれた曲で、 新婚でキャリアも順調、一番幸せな時期に在ったはずのマーラーが 仮題として「悲愴」と名付けたイ短調の曲。 マーラーにしては珍しく、最後に長調ですくわれることなく、短調のまま終わる。 ベースや、チューバなどにソロが与えられ、全体的にどんどん音域が低くなって 音響がどんどん重くなっていくのに、リズムはずんずん進んでいく。 本当にびっくりして、今ちょっとショック状態気味。 どこまでがショックで、どこまでが眠気なのか、自分でわかりませんが、 とりあえず消化の為に、寝ます。

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聴く修行、夜はSavall

今日は、久し振りに一日中練習をした。 朝ごはんを食べてから夕飯まで、息抜き以外はぶっ通しで練習したのだ。 贅沢な気分だった。 タングルウッドで演奏予定の曲を一通り見た後に、自分のソロの曲も久しぶりに触った。 ここに来てから、「聴く」と言うことの深さを教わっているなあ、と思う。 メンデルスゾーンのトリオのコーチングから始まって、 私には未開の域だった声楽家たちとの、ここに来てから毎日の様にある共演、 そして毎晩聴く、素晴らしいアーティストによるコンサートに行くことで、 今まで自分がいかに聞けていなかったか、と言うことを思い知らされる。 ちょっと聞いて「次はこう来るだろう」と勝手に予測をつけて、 実際の音を聴いていない、と言うことが私にはよくある。 他の人の演奏はもちろん、共演者の演奏、そして自分自身の練習・演奏する音、 さらにはこれは会話にも当てはまることだと思う。 ちゃんと、聴こう。 一瞬、一瞬、空気の振動が私の鼓膜に伝わって、自分の脳に「音」として認識される 奇跡のプロセスをしっかり受け止めて音楽を創ろう。 昨晩に続き、今日もJordi Savall率いる、Le Concert des Nationsによる演奏会があった。 今日のプログラムは、シェークスピアの台本に出てくる「音楽」のキュー用に作曲された曲たち。 映画「アマデウス」で、サリエリを演じてアキャデミー・アワードを受賞した、 Murray Abrhamが曲の間にシェークスピアの「真夏の夜の夢」、「マクベス」などから朗読した。 趣向は面白かったが、音楽も演奏も私は昨日の方が好きだった。 音楽会で、朗読や、ダンスや、映像などを取り上げると、 どうしても音楽の効果が色あせてしまう様の気がする。 特に今日の場合、シェークスピアの時代のイギリスの作曲家、と言うことで Robert Johnson, Matthew Locke, そしてHenry Purcellの曲が並べられたのだが、 もともと音楽の国としてはどうしてもドイツ、フランスと、イタリアに 遅れてしまうイギリスというお国柄のせいか、 それとも昨日の演奏会があまりに凄過ぎて、期待しすぎたのか、 私には全部似て聞こえてしまった。 と言うことで、後半は舞台の後ろの席で、指揮をしているSavallをまっ正面に見る席に座った。 ここだと音響は良くないが、いろいろな古楽器がすぐそこに見えるし、 Savallの指揮も、演奏家たちの表情も、コミュニケーションも良く見える。 視点が変わると、また色々な発見があって面白かった。 Savallは、笑顔がとても優しいし、実に頻繁に微笑む(演奏中も)。 それから、打楽器奏者のタンバリンのテクニックがすごくてびっくりした。 ハープシコード奏者は、弦楽器がとても体を入れ込んで演奏するのに比べて、 タイプライターでタイプをしているように演奏していた。 後ろから見ていたら弾いてるか、休んでるか、分からないくらい。 そういう役割の楽器なのかも。

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古楽器アンサンブル, Le Concert des Nations(Jordi Savall)

毎晩、演奏会に行っている。 今日、オザワホールで着席して (なんだか久し振りな気がするなあ)と思った自分を発見して 一人で苦笑いしてしまった。 昨日だけじゃん、最近演奏会フリーだった日は。 今日のコンサートは度肝を抜かれた。 Jordi Savallと言う人を、私は今まで聞いたことがなかったのだが ルームメート(作曲家、ハープシコード奏者)が「Savallが来る!」と狂喜しているので、 (そうか、凄い人なんだ、逃しちゃいけないな)と思って行った、今日の演奏会である。 この人は今日のLe Concert Des Nationsと言うアンサンブル以外にも、 もう二つ古楽器アンサンブルのリーダーをしているらしい。 本人は、ヴィオラ・ダ・ガンバの奏者で、必要に応じて、指揮もする。 このアンサンブルは弦楽器一通りに、ルート、ハープシコードと打楽器の 全部で11人のグループだった。 何しろ、音がまずきれい。 耳新しいせいもあるかも知れないが、完璧な音程でハモル弦というのは、 もうそれだけで別世界に連れて行かれる。 それから、曲目がとっても、とっても面白かった。 Lully Suite from "Le Bourgeois Gentilhomme" (1670) Biber Battalia a 10 (1673) Corelli Concerto IV in D Major (1712) Avison Concerto IX in 7 parts, done from the Harpsichord Lessons by D. Scarlatti

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