「ポーエトリー・スラム」に行ってきた。
Newyorican Poets Cafe ("Newyorican"と言うのは造語で "New Yorker(ニューヨーク人)"と言う単語と"Puerto Rican (プエルトリコ人)"と言う単語を足して二で割って出来る。)と言う、私は今まで全然知らなかったけど、その世界では超有名な場所に行ってきた。何が有名かと言うと"Poetry Slam"と言う、詩の朗読のコンクール見たいなものの全国大会の発祥地として、そして今でもそのメッカとして。コンクールへの出場権を獲得した詩人たちが、観客の前で自作の詩を読みあげ、それに観客の中から選ばれた審査員がスコアを付け、予選、二次、そして本選と最終的に優勝者を決めていく。この「詩のコンクール」は、シカゴ、そしてサン・フランシスコで1980年代半ばに発祥、次第にニューヨークまで来て、アメリカ全体に広まったが、その後世界中に広まっているらしい。 私はこの詩の朗読大会に色々なものを期待して行った。きっと色々な人が色々な芸術的実験をしているに違い無い。常識や固定観念をぶっ壊してくれるようなものに巡り合えるかも知れない。新しいものに出会いたかった。自分の日常から脱出したかった。 始めは本当に息をのむような思いがした。まず空間から非日常的だ。倉庫のような吹き抜けのレンガ造りのだだっ広いスペースの一角にバーがあり、壁の一部にちょっと高くなっているところがある―これが、ステージだ。そこに人がぎっしり、本当にぎっしり入っている。身動きが出来ない。日本の通勤ラッシュ程ではないが、日曜日の午後のデパートのエレベーターくらいの混み具合。その皆が息をのんで、詩の朗読を聞き、ゴスペル教会のように、相槌や合いの手が入る。詩そのものは非常なリズム感があり、はっきりとした韻が抑揚のある読み方で強調され、非常にエネルギッシュでかっこいい。 ところが、2人、3人と進むにつれて、段々違和感が生まれてきた。 皆、似ているのだ。 虐げられた人間、抑圧的な社会の被害者、と言う視点からの詩、ばかりである。その理由は、性差別、人種差別、、レイプの被害者、同性愛者、トランスジェンダー、いじめの被害者、など多様だが、皆、どんな悲劇を通り抜けてきたか、どう言う怒りを感じるか、でもそれをどうやって乗り越えていくか、と言う起承転結なのである。そして読み方も静かに、クールに始めて、段々熱して来て、早口になり、声を高めていき、叫んで、そしてまた静かに戻る、と云うものが多い。スピードを増したままで終わるものもあるが、まあ、そう言う感じである。 確かに、エネルギーはもらった。 皆、ああやって詩を読むことで、自分のやるせなさに方を付けているんだ、と言うことも分かった。 でも、なんだか宗教とか、ある儀式を目撃した気持ちだった。 それはそれで、良いのだが。
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