August 19, 2010

オリエンテーション

今日はライス総合大学の修士課程、博士課程の生徒の為の説明会が在りました。 朝の9時から夜の9時まで色々な活動が在ったのですが、朝食(ベーグルとお茶かコーヒー)、昼食(サンドウィッチとクッキーとポテトチップスと飲み物)と夕食(バーベキュー)が全て無料で支給されました。この不景気の中、ヒューストンは石油からの収入で経済状態がそれほど悪く成っていない、さらにライス大学は他の大学が教授の給料カットや解雇などをしているのに比べ、全く健在である、と言う噂は本当みたい、と思いました。セクハラ予防のコースが必修だとか、論文を書く際出所を明らかにせずに他の人の文章を盗む事は、見つかったら大抵退学になります、とか、言う話の他に心理学の先生も、お医者さんも、生徒会の人も「運動をしよう!運動は心身と共に健康にしてくれ、生産性を高め、効率よく勉強も仕事もはかどるし、集中力もアップする!運動をしよう!」と繰り返しているのが印象的でした。 その他、キャンパスのツアー(とても大きく、キャンパスの中をぐるぐる走っているバスが在るほどです)や、図書館のツアー、生徒会主催の説明会、など色々ありました。「ラマダンで断食をしている生徒は、ヒューストンの気温と湿度に気を付けてください。それからお昼は、後で食べられるように持って帰って下さい」などと言っていて、人種や民族、宗教の多様性が垣間見られました。ざっと見ただけでも確かにインド人や、中近東ぽい人が多いし、アジア人も思ったよりずっと多い。黒人の人は思ったより少ないですが、何しろ多様なグループです。 明日も引き続き、説明会が在ります。 9時から11時半まで「安全」に関する説明会(多分ここら辺に多いハリケーンに付いてとか、キャンパス内での事故についてとか)の後、私はタングルウッドで一緒だったレーチェル(ピアニストでライスでは正式伴奏者として働いています)に運転してもらってお買いものに行きます。4時からは生徒会主催のお楽しみ会みたいなのが在って、6時からは校長先生のお家で修士課程・博士課程の生徒全員が招待されて、バーベキューが在ります。 私はしばらく練習の事は忘れて、ヒューストンを好きになる事、ライスでのこれからの生活を楽しみにする事に専念したいと思っています。

オリエンテーション Read More »

ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブの批評

私は、自分が自信を持って良かったと思える演奏がしたい。 他人にどう思われようと、どう褒められようと、自分が満足できない演奏には納得したくない。 言動で、演奏の印象をごまかしたくない。 でも、言動で演奏の印象をごまかせる事は承知している。 だから余計、その誘惑に勝てる、正直な、まっとうな演奏家になりたいと思う。 でも、今回のアウガスタ・リード・トーマスは、その意味で正直難しかった。 もともと現代音楽はベートーヴェンと違って一般的な解釈と言うものはまだ設立されていないし、 どの音が「正しい」のか、分かりにくいから、その演奏を正しく評価するのが非常に難しく成る。 私の経験から言えば、現代曲は余りにも複雑だから、 作曲家自身でさえ演奏家が正しい音を弾いているか分からない場合が多い。 多分、本当にその演奏の正確さをはっきりと把握しているのは演奏家自身だけだと思う。 だから演奏中、あるいは演奏後のハッタリでごまかしている「現代曲専門家」と言うのも居る。 今回私の演奏した”Traces”は現代曲の中では概念的にはもう少し分かりやすかったが、 技巧的にはかなり難しい所もあったし、音一つ一つに強弱記号や、 「エレガントに」「前の音に逆らって」と言ったト書きの様なものが付いていたり、 一つの音を右手と左手で交互に凄い速さで連打し続ける、と言った 普通のピアノ技法とはかなり違った疲れ方をする部分もあった。 そう言う意味で「難しい」曲だったと思う。 自分で解釈にやっと自信を持てたのは作曲家自身に狂喜してもらってからだ。 アウガスタ・リード・トーマスに初めて会ったのは去年のタングルウッド。 彼女は去年はFestival of Contemporary Musicの監督を務めた。 去年のテーマは「存命中の作曲家」で、選ばれた作曲家も曲も凄く若かった。 そう言う所が彼女と私と似ていると思うのだが、彼女は選曲の責任を全て任されたにも関わらず 自分の曲を出展する事を避けた。 兎に角、彼女が監督を務めた去年のFCMで私はやはりソロの曲で出演し、 彼女に大変気に入られた。 自分自身では納得できる演奏では無かったのだが、 演奏後の私の前に彼女は文字通り飛び出してきて(本当にピョン、と人混みの中から飛んできた) 「貴方は凄い!I love your playing! Oh, my God!!」 とこちらが後ずさりするような大興奮を披露したのだ。 今年、8月1日の最初の本番の前の準備の段階から、彼女は同じ様な興奮を披露した。 私自身の演奏の評価が自分で分からなくなるような作曲家の興奮で 実際観客にも受けたし、批評も「この演奏を逃した人は損をした」と言うような、大げさなものだったし 今となっては私はその日の自分の演奏を正確に評価する事が出来ない。 なんにせよ、その本番を前後して彼女は色々な人に私の推薦状を書いてくれ、 8月14日今年のFCMでの出演が決まってからは(多分本人も興奮・緊張していたと思うのだが) 「楽章の間は20秒くらい間を持った方が良い」とか、「このトリルは笑いを誘うように微笑んでみたら」とか 細かい提案がメールで細切れに来るようになった。 その間も「真希子のTracesの演奏は素晴らしい、私は一生でもう二度とこの曲をこのレヴェルの演奏で聴ける事は無いと思っている」とか「この曲はもう私のものではない、真希子のものである」と言った『前宣伝』と言ったら意地が悪いかも知れませんが、まあでも結果的にそう言うメールが沢山書かれていたようです。 本番二日前には「ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブが批評に来るから」と言うメールが来ました。 なぜ、彼女がそのことを知ったのか、この二つの大新聞が来る事にどれだけ彼女自身が影響していたのか 今は振り返って少し疑問です。 私は8月11日の深夜の録音、そしてその週毎日において行われていたシューマンのトリオのリハーサルとコーチングの為、余り経験しないような右腕の過労を感じていた。それから大きな新聞が二つ批評に来る、と言う事を他の誰にも言えず(他の子も同じプログラムで演奏するから、プレッシャーを与えたくなかったし、なぜ私がそのことを知っているのか、と追及されたらやはり困ったし。。。)シューマンのトリオもスムーズなプロセスでは無く、正直ストレスを感じていた。結果、8月14日のTracesは全く不満足な出来になってしまった。原因はどうであれ、私が自分自信、達成感も誇りも感じられない演奏をしてしまったのだ。(シューマンは頑張りました)。 ところが批評は全く悪く無かったのだ。ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブ、両方とも批評が今日出たのだが、私のかなりアカラサマなミスについては一つも触れずボストン・グローブは「弾けるような自身を持って "Traces"を演奏したマキコ・ヒラタはジャズとクラシカルの要素を混ぜたこの曲を両方の要素を活かして弾きこなし。。。」と言及し、ニューヨーク・タイムズはさらに「ジャズの要素を活かしながらショパン風のメロディーを歌わせ、バッハの要素を描き出しながら、モンク(ジャズ・ピアニスト)のハーモニーとリズムを際立たせ。。。」ともう少し紙面を割いて描写的。そして両方とも「今年のFCMではピアニストの活躍ぶり、レヴェルの高さが際立っていた」と結論づけている。確かに今年のFCMではピアニストが凄かった~私以外は。しかも、本当に唸るような素晴らしい演奏をしたのに、ニューヨーク・タイムズが記述を漏らしたピアニストが居るのに、私は両方ともに好意的な批評を頂いてしまっている。 批評家が本当に分からなかったのか?分からなかったとしたら作曲家自身の前宣伝に目がくらんでしまったのか?それとも若いながらにすでにかなりの地位を築いているこの作曲家への敬意表明が正直に書くことをためらわせたのか?何でも良い。私は惑わされない。私の演奏はまずかった。

ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブの批評 Read More »