February 2013

フランス映画『Amour』を見ました。

今週末はオスカー賞。 その年の映画に色々な賞が与えられる毎年恒例のビッグイベントで、 好きな人は集まって「オスカー賞パーティー」なるものを開き、 参加する候補者などのファッションを批評したり、 どの映画がどの賞を取るか予測しあったりして楽しむ。 私はロサンジェルスに4年間住んでたにも関わらず、 そしてNYでもLAでも映画関係の仕事をしたり夢を追ったりしている人たちと多く知り合ったにも関わらず、 あまりこう言うのには興味が無いのだが、 今回主演女優賞(オスカー史上最高齢!)を始め色々候補に挙がった『Amour』には興味があった。 理由の一つにはNY Timesの音楽評論家、Anthony Tommasiniの結構話題になった12月31日付けの記事「Playing by Heart, with or without the Score」が在る。『Amour』は老いたピアノ教師とその夫の話なのだが、Alexandre Tharaudと言う若いフランス人ピアニストが実名で主人公の生徒を演じている。実際にもそうなのだが、この主人公の生徒もデビューしたてだがすでに前途有望なキャリアで忙しく活躍中。脳梗塞で半身麻痺となった昔の教師を訪ねるシーンで、「12の時に教わったベートーヴェンのバガテルを弾いて」とせがまれて「もうあの曲は随分長いこと弾いていないし、ちゃんと覚えているか…」と躊躇するも、老いの激しい恩師の頼みを断りきれず、結局完璧な演奏をする。Tommasiniはここで疑問を提示する。「元ピアノ教師で、背景の本棚にも楽譜がぎっしり。なぜこの状況設定でで暗譜なのか」。Tommasiniの記事はこの後、このAlexadre Tharaudと言うピアニストがNYでのカーネギーホールデビューの際、楽譜を使ったこと(暗譜で演奏しなかった)。しかも、そのことが批評に全く書かれなかったことに発展し、さらにEmanuel Ax,Richard Goodeと言った、高名なピアニストがこの頃大きな舞台で次々と楽譜を使って演奏していることに言及し、暗譜の効用を疑問視している。 映画は思ったよりもさらに重い物だった。女主人公が元ピアノ教師だったことは映画の流れにはほとんど関係ない位の詳細で、テーマは老いと、人生を寄り添った夫婦がいかに尊厳を持ってその夫婦関係の幕を閉じるか、と言う問題。女主人公は脳梗塞を患い、半身不随になり、それがきっかけで痴呆、そして段々弱っていく。彼女の夫は最初の脳梗塞の手術から退院して来た女主人公の「もう絶対入院させないで」と言う主人公の頼みを最後まで守り、通いの看護婦の助けを借りながら、全ての看護を自分で請け負う。まだ意識がはっきりしている時、病態の発展を悲観して主人公が尊厳死をほのめかしても、「君は私に気遣っているだけだ。でも、立場が逆だったら、君は絶対私を同じように看護した」と、はねつける。看護も忍耐強く、隣人に賞賛されるほど。表面的にはだから、「Amour」なのだ、と思う。でも、夫は主人公が夫の生活の一部始終の助けを必要とするのと同じ比例で、彼女から必要とされることを必要としていたのでは無いか。看護の苦労を知らないから言える戯言かも知れない。 極限まで音楽の使用を最小限に抑えてある映画だった。淡々と日常の詳細を丁寧に反映し続けるのだけれど、時々全く音声を切って完全な静寂を演出したり、そんな中に映画のスクリーンいっぱいに絵画を何枚も数秒ずつ映し出したりする。一シーンでは、夫が元気だった頃の妻がピアノでシューベルト(即興曲作品90-3)を弾いているところをソファに腰掛けて一人回想している。その不動の夫がそのシーンで初めて動いて、彼の後ろに位置しているステレオを止めるとき、回想していたシューベルトは実は思い出の妻の演奏では無く、生徒が送ってきた新しいデビューCDの演奏だったことを知る。そして夫のステレオの切り方は曲の途中で、ブツリと切る。シューベルトが聞こえなくなった後の静寂に、夫と共に視聴者は取り残される。 私の後ろに腰掛けていた人は泣いていたけど、私は涙がにじむ程度で、涙もろい私には珍しく泣かなかった。でも今朝起きて、まだ考えていた。壇一雄の「リツ子、その愛・その死」を思い出した。あれは私小説だし、書き手の視点から書かれているから、そう言う意味でこの映画とは全く違う。でも、この映画を見たことで「リツ子、その愛・その死」の新しい見方が出来る気がする。壇一雄は物書きとして満州に送られ、終戦後帰国して結核に冒されているリツ子と長男太郎を見出すのだった。彼があそこまで我武者羅に妻の看病と子育てに投じたのは、そうしなければ終戦の混乱と貧困の中で、自分が自分の存在価値を見失ってしまう危機を無意識の内に感じたからではないか? 相手に必要とされていることをしてあげる愛と言うのは、分かりやすい。 でも、相手を必要とすることを自分に課す愛、と言うのもあるのだと思う。

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休みの効用、必要性。

昔は「休むなんて、甘い!」と思っていた。 出来るだけ長時間の持続練習、耐久練習、睡眠時間も削り、食事もあり合わせで、と言う宮本武蔵風の「修行」を楽しんでいた。疲れて朦朧としても頑張る!集中してなくても、音を出す! でもこの頃、「休む」と言うことの効用と必要性を感じる。 一日触らなかったピアノは、次の日に弾くことの快感を体験させてくれる。 曲は新鮮さを持って新しい輝きを持つ。 今日は私は1時間の散歩と、1時間ほどの草むしり、そして相棒とのキャッチボールをした。 散歩中に牧場を発見。牛と言うのは愛嬌がある。 散歩する私を不動で、でもゆっくりと目と、そして分からないほどの微妙な首の動きで追っている。 面白くなって後ろ歩きしてみた。 やっぱり私の動きを追っている。 今度はジャンプしてしゃがんでみた。 そしたら「もー、付き合ってられん!」 と言う感じで、のそのそとどこかに行ってしまった。 その他にも補助輪付きの自転車を猛列な勢いで真剣に漕ぐ、4歳児くらいの男の子にも出会った。 「ハロー!」と息を切らせながら、真剣に挨拶をされた。 笑わずに挨拶を返すのに苦労した。 草むしりは、なぜか物凄くはまってしまう。 根っこまで土を注意深く掘り分け、ぞろぞろと地中でつながっているかなり広範囲に広がる雑草の一連を引っこ抜いた時の達成感はたまらない! キャッチボールはこの頃週末の定番。昨日もやって、引き続き、である。 今日はゴロを取る練習で、息が切れた。 気温は18度位。動き回っていると半そででも汗がにじむ。 今週は結構ハードだったけど、又明日の練習が楽しみに思えるように、今日を経て、なって来た。

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『未就学児、お断り』に関して

私は横須賀ゆかりのピアニストグループ『スカぴあ』なるものに属している。 私自身は横須賀出身ではないのだが、 今年13年目になる私の日本での演奏活動のきっかけを作ってくださり、 その後もずっと私の活動を熱心に応援して下さっているNPO 「世界で活躍する演奏家を応援する会」が横須賀拠点のため、 お味噌で加えてもらっている。 毎年夏に行われる横須賀劇場ベイサイドポケットでのピアノ音楽祭では ピアノ一台で、ソロ、連弾、6手、8手、 さらに2台のピアノもどんどんピアニストの数を増やして行き最高は8人のピアニストが16手で弾く。 他ではめったに見られない、一日中のピアノの祭典だ。 今年は7月13日(土)に予定されている。 その他にもスカぴあではFMブルー湘南(78.5MHz)で 毎週土曜日の朝10時40分から11時までメンバーが月交代でDJのようなことをしている 「スカッとスカぴあ」と言う番組の放映、さらに出張演奏なども行っている。 私はスカぴあメンバーとしては唯一在外なので、運営に関われず、 せめての貢献として、スカぴあのブログを書いたりしている。 今回のブログのテーマは関心の高いテーマだったので、ここにもコピペさせていただこうと思った。 子供の演奏会入場を奨励するべきかどうか、と言う問題だ。 『スカぴあの熱心な賛同者が小さい時から生の演奏に触れさせたい、ご自分のお子様(未就学児)を是非来夏のスカぴあに連れて行きたい、と言うご希望を熱心にお伝えくださったことからスカぴあメンバー内でのディスカッションが始まりました。 「未就学児」と一口に言っても非常の個人差が在ります。一般的に普通の日本のコンサートの広報には「未就学児お断り」とか「小学生以上から入場いただけます」などの注意書きが見られます。「親子コンサート」や「子供のための音楽会」といった企画も多くありますが、でもアニメのテーマソングなどで水増ししたようなプログラムもあるようで、やはり「本物」の演奏・演奏会に小さいうちから触れさせたい、と言う音楽愛好家の熱意には、是非答えたい、と言う気持ちもこちらにもあります。子供は本当に正直で、良い刺激を与えたら、良い方向にどんどん成長していく凄い可能性を秘めています。出来るだけ沢山の日本の子供に、出来るだけ沢山の良い音楽に触れる機会を増やしたい! でも現状は、正直な子供であればある程、興奮して踊りだしてしまったり、感動をお母さんにどうしてもその場でお話して聞かせたくなってしまったり、予測の付かない反応をします。そして、どんなに最初の20分で感動してくれても「シー、静かにしなさい」「動かないできちんと前を見て座って!」などと言われているうちに、どんどん音楽が窮屈になってくる子も居るでしょう。それが最終的に「音楽会は大変だった。もう行きたくない」となってしまっては、本末転倒です。そして子供が他のお客さんの演奏会体験の妨げにならないよう、常に気をつけなければいけない親御さんいとっても、演奏会が大変になってしまうかも知れません。 入場料を頂いて演奏会を企画している側としては、全てのお客様が音楽に没頭して楽しんでいただくために、運営の面でも最善を尽くさなければいけません。人魚姫が15歳まで海の水面に上がることを許されなかったように、演奏会を「7歳になって始めていける、特別なイベント」と言う風に楽しみに待っていただくことは可能でしょうか? 小学生になれば、壇上のピアニストと演奏会の時空を共有して、責任を持って積極的に音楽会に参加することが可能になってくるのでは、と言うのが私たちの最終的な結論です。 私がまだ幼児の頃、母と妹と一緒に「演奏会ごっこ」と言うのをしました。母がレコードで音楽をかけてくれて、私たちは「演奏会に行く練習」と言うのをするのです。じっとして音を立ててはいけません。そして音楽に集中できるように頑張るのです。これがマスターできたら、演奏会に連れて行ってもらえる約束でした。でも、そんなに素敵なご褒美が待っていても、やはり小さい時には、動かず静かに一曲聴きとおすのは大変だったことを覚えています。 7歳になったら、是非来てね。そして演奏後に握手をしてね。』

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ヴァレンタインのアルバイト

ヴァレンタインの日の午後、学校から紹介された、と言って 結構大きな会社のVIPの秘書からメールが来た。 今日が奥さんの誕生日、しかもヴァレンタイン、と言うことで 急遽サプライズでピアニストを呼んで、夕食中のBGMをお願いしたい、との事。 今夜は特に予定が無かったし、受けてみた。 結婚37年目の夫婦。さすがに高級アパートだが、気さくな感じの二人。 二人が意外につましい夕飯を食べている間、ドビュッシーやショパンや 静かで癒し系の曲を5曲くらい弾いた。 一曲ごとに拍手をしてくれる。 むしろ無視してくれた方がお互い気楽かも、と言う気持ちもちょっと在ったが、 でもやはりちょっと嬉しい。いちいち褒めてくれる。 夕飯が終わって、夫が古いポップスのラブソングの楽譜を持ってきた。 簡単な編曲で、問題なく初見できる。 そしたら、最初はもじもじしていた夫が、ピアノの周りを去らないので、何かな~と思っていたら、 2番目から歌い始めたのである。 声が出ていない、息が続かない、そしてこちらまで恥ずかしくなるほど照れまくりながら、 でも、最後まで歌いきった。 「この曲は37年前、結婚式の時歌ってもらった歌なんだ」 聞いて、感動してしまった。 ラブのおすそ分けをもらった感じ。 約束の5割り増しをキャッシュでくれた。 いろんな意味で良いアルバイトだった。

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シェークスピアの「オセロ」対ヴェルディの「オテロ」

今学期は「オペラ:1875-1925」と言うクラスを取っている。 ビゼーの「カルメン」(仏)、ヴェルディの「オテロ」、ストラウスの「エレクトラ」(独)そしてベルグの「ヴォツェック」(独)をそれぞれ数週間ずつかけて勉強していくクラスだ。今日は私はヴェルディのオテロについてプレゼンをした。 シェークスピアの悲劇に基づいているこのオペラは1500年ごろのヴェニスの、ムーア人の将軍の話だ。ムーア人というのはぺトルーシュカでも悪役として出てくるが、北アフリカのイスラム教を信じるアラブ系の人たち。当時のヴェニスにはユダヤ人などと共にムーア人と言うのも結構居たらしい。このお話の主人公のオテロはキリスト教に改宗したムーア人。とても尊敬される人望の厚い将軍で、役人の娘と恋に落ちて結婚する。が、オテロに降格された軍人イアゴの企みにのせられ、新婚ラブラブの新妻デスデモーナが浮気をしていると言う疑惑に取り付かれ、殺してしまう。このお話の一番の問題はタイミング。シェークスピアの台本からははっきりとは分からないのだが、イアゴにデスデモーナの浮気をほのめかされてから、実際に殺人に至るまでに数日、あるいはもっと少ない、もしかしたら一日。このお話を解釈する上で大切なキーだ。二つの解釈が可能である。 1.ムーア人と言うのは野蛮人である。どんなに努力してヴェニスで認められる働きをしても、ちょっとのきっかけで火がついて野生がむき出しになる。 2. 「ムーア人」と言う事で、どんなに成功してもいつまでも人種差別の対象のオテロが最愛の妻に裏切られるのではと言う恐れから、嫉妬に走ってしまうのは自然な人間の心理である。 色々な文献を読み漁った。シェークスピアは「ヴェニスの商人」ではユダヤ人差別を扱い、「じゃじゃ馬鳴らし」では女性差別を扱っている。オテロも人種差別に関するあるスタンスを持って書いた可能性が強い。よって2. でも、ヴェルディと歌詞を書いたボイトは英語のシェークスピアから直接オペラを書いていない。そして当時イタリア語に訳されていたシェークスピアの批評文や、訳された台本、そしてイタリア語で上演された「オセロ」の多くは1番の解釈だったのである。何年もこの悲劇と付き合ううちに、当時のイタリア一般の解釈よりはずいぶん2番に近寄った二人だが、やはりシェークスピアよりよほど1番の解釈に近い。 シェークスピアは面白い!高校生の時、ロミオとジュリエットを英語で読まなくてはいけなくて、泣いた。まだアメリカに来たばかりで口語の英語もまま成らないのに、古い英語でつづりも文法されも時として違うシェークスピアには全く歯が立たず、日本語訳で何とかこなした。でも、今回、オセロを英語で楽しめる自分を発見して感慨深かった。そしてシェークスピアがオセロを書くに至った歴史的背景や彼の政治的信念などにかんしての文献が面白くてたまらず、一瞬「これからでも文学専攻したい!」と思ってしまった。

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