バロック―1600年から1750年


バロック=1600年-1750年…
こういう時代区分というのは、歴史家が振り返って行う物である。
1599年の大晦日から一晩明けて起き出した人間が皆、
「さあ、今日からバロックだよ!」と挨拶を交わす訳ではない。
でも、歴史を勉強する上でこういう時代区分にぴったり当てはまってくれる、
とても便利な出来事、と言うのがいくつかある。
バロックの場合、まずその終わりには、かの大バッハの没年が1750年。
では、その始まりは、と言うと二つほど、非常に重要な出来事がある。
まず、モンテヴェルディが『第二の方法』と言う、音楽が歌詞を強調する役割を担い、その為には音楽のルールを破ることを良しとする『音楽=表現の手段』の公式を打ち出すきっかけとなったのが1600年。現存する最古のオペラ(ペーリ作曲の『ユリーディチェ』)の初演が1600年。
では、バロックと言うのは一般的にどんな時代だったのか。まず、イタリアとドイツと言う、それまで音楽史の推進に置いてはほとんど末端的な存在だった二カ国が突然威力を示す。
マドリガルと言うイタリア語の世俗ジャンルの作曲で突然イタリア人が西洋音楽発展のトップに躍り出始めたのが1570年ごろである。経済力もあり、パトロンも多く、他の分野では優れた芸術家を沢山出して居るのに、なぜか作曲に置いてはさっぱりだったイタリアが、まずマドリガルの分野に置いてLuca Marenzio (1553-99)やCarlo Gesualdo(1561-1613)と言った異才を生み出し、それと関係あるのか無いのか、教会音楽の分野でもGiovanni Palestrina (1525-94), Andrea Gabrieli (1532-85)とその甥のGiovanni Gabrieli(1555-1621)とイタリア人の名前のオンパレードである。その上、1600年に『オペラ』がフィレンツェで発明され、その急速な発展がイタリア中で起こるに連れ、イタリア人はさらに、さらに勢いを増していく。Claudio Monteverdi (1567-1643オペラ、マドリガル)、Girolamo Frescobaldi(1583-1643主に鍵盤楽器曲専門)、Alessandro Scarlatti (1660-1725、オペラとカンタータ)Antonio Vivaldi(1678-1741主に管弦楽曲、特にコンチェルト)、Corelli(1713-1653-弦楽器曲専門)。
しかし、バロックを笑って閉じるのは、ドイツ人である。Philipp Teleman(1681-1767), Johann Sebastian Bach (1685-1750),そして(この人は25歳以降はイギリスで暮らし、42歳の時には英国市民権まで取ってしまっているのだが、でもやっぱり生まれはドイツの)Georg Handel(1685-1759)。
ドイツとイタリアと言うこの二つの国に共通しているのは何か。君主制国家では無いのである。しかもこの頃、イタリアもドイツも物凄く小さな領土に迷路の様に分けられて、それぞれ領主とか何だか色々訳の分からない貴族のタイトルのついた人たちが小さな小さな領土を大事に大事に支配しているのだ。この頃のヨーロッパで他の主な国はフランス、イギリス、そしてスペイン。全て専制国家なのである。しかしまず、イギリスはもうバロックの始めからかなり政権がごたごたして、フランスやスペインと比べるとその予算も権威も比べ物にならない。スペインはアメリカ大陸に進出してそこからの音楽を輸入したり、面白い動きがあるものの、元々ヨーロッパ文化からは少し外れた存在であったこと、さらに植民地内での度重なる革命、それから王族が余りにも贅沢しすぎて一時はトップだった経済力が衰える、など。
フランスはのバロック時代は、最後に衰退し始めるまではかなり派手!ルイ13世の治世が1610-43、そして5歳のルイ14世「太陽王」が即位しその後72年間、絶対的権力を駆使してヴェルサイユ宮殿を建て、ルーブル宮殿を改築し、フランス独自のバレー文化、オベラ文化を開花させる。しかしこれが他の国に広まらない、さらに後世に伝わらないのは幾つか理由がある。まず、フランス革命まで続く王宮の見境の無い贅沢で起こる経済衰退。その後に起きたフランス革命の破壊力。しかし、それだけではない。この頃のフランス王宮文化は余りにも排他的だったのである。他国からの影響を排除し、自分たち独自の文化を純粋に守り通そうとする態度。
逆にドイツはそれまでの下地が無いから、どんどんイタリア、フランス、そしてその他の国の伝統、様式、ジャンル、全てを学び、それを自分たち独自の文化に上手く合わせて、ヨーロッパ中の全てに受けるような新しい音楽をつむぎだしていく。イタリアは、宗教改革の後信者が随分減り、苦労して反省会を積み重ね、どうしたら離れていった信者たちを芸術の力で呼び戻せるか、工夫をする。オペラの要素を取り入れたオラトリオ(アリアやレチタティーブやコーラスがオケの伴奏つきで演奏される一種の歌劇だが、聖書のお話に基づいていて、衣装や舞台設置やアクションは無い)と言うジャンルや、コーラスや楽器奏者を聖堂の色々な場所に散らばらせて、それぞれ違う旋律を歌わせて楽しむ多重合唱となど。
「コンチェルタート・スタイル」と言う概念がバロックと言う時代を理解する一つの鍵となりえるかも知れない。異質な物を敢えて一緒にハモるように組み合わせ、その味を楽しむ、と言う概念である。多声合唱ではルネッサンス後期まではいつもテナーが主役だった。1300年ごろから今度はソプラノが主役に。でも、全ての声が同等となり始めたのは、ルネッサンス中期である。それでも、それまでは声楽曲なら声楽曲、器楽曲なら器楽曲と区分けされる傾向があった。声楽曲を楽器が伴奏することがあってもどちらが主でどちらが従かいつも明確になるような作曲の仕方、演奏の仕方。でも、バロックになると声楽と器楽、さらに器楽でも弦楽器と木管楽器、金管楽器など別の種類の楽器を組み合わせる。ソロとアンサンブルが同等にやり取りする。ジャンルの区分もそうである。カンタータと言うもともと室内楽として始まったジャンルが宗教音楽に取り入れられる。オラトリオと言う宗教音楽が、オペラの影響を積極的に受ける。こういう柔軟性は、それは結局、各国の様式にも当てはまることだったのかも知れない。だからドイツがのし上がってきたのかも。1700年には50時間かかった160キロの旅が1800年には16時間に縮小される。世界はどんどん狭くなり、お隣はどんどん近くなる。特に陸続きのヨーロッパでいつまでも「自国」に固執していては、生き延びていけなかったのかも知れない。
1600年、バロックの始まりに戻ろう。アルトゥージと言う批評家が、モンテヴェルディのマドリガルの特に「クルーダ・アマリリ」と言う曲を指して「余りにも型破りだ。ちょっと低音を変えればルールにかなう物を、何故わざわざルールを破って不協和音を鳴らすのか」と非難をして、それが大きな論争に発展するきっかけを作ったのが、1600年。1605年にモンテヴェルディはマドリガル5巻目の序文に「今までの音楽はある型にはめて書かれていた。従って、音楽はルールに従い、その音楽に言葉が従う、と言う構造だった。これを借りに『第一の方法』としよう。しかし私は音楽は言葉の意味を強調し、言葉に従属するべき物だと考えている。より効果的に言葉を強調するためならば、ルールも破り、不協和音も使う。これを私は『第二の方法』と呼びたい」と述べ、さらにモンテヴェルディの弟がそれに補充して「アルトゥージ氏はその非難の時に歌詞については一言も触れていない。しかし、どこで不協和音が使われているかを歌詞と照らし合わせて考えてみれば、その必然性は一目瞭然であろう」としている。音楽が、音楽そのもの以外の何か(歌詞、詩、言葉、感情、メッセージ)を表現する手段となる始まり、と言っても良い。音楽はただ美しいのではなく、何かを表現する、意味あるもの、になるのだ。
この『第一の方法』『第二の方法」で思い出すのがStile antico「古い様式」vs。Stile Moderno「新しい様式」である。「古い様式」は宗教革命以降のカトリック教会が奨励した純粋な対位法のモデルとして挙げられたパレストリーナのような書き方。「新しい様式」は上のメロディーと低奏音をはっきりとしたバロックで初めて出てきた音楽のスタイルのことである。しかし、「第一。二の方法」でも「古い・新しい様式」でも大事なのは、バロックに置いては初めて、全てがOKだったことである。新しい書き方を提唱するのだが、だからと言ってそれが古い書き方を乗っ取るのか、と言えばそうではなく、歌詞やコントラストや音楽の内容によって、使える物は全て使う、これがバロックである。そしてコレは先の「今チェルタート・スタイル」の精神に通じるものがあるかも知れない。
先のクラウディオ・モンテヴェルディ氏(1567-1643)はもう一つ、最初の重要なオペラ作曲家としてもバロック音楽史で重役だ。彼の書いた「オルフェオ」(1607)は歴史上最初のオペラでは無いのだが(多分3作目)、まあ最初の傑作として、「オペラ開幕」に名指されることが多い。最初はオペラはエリートの間で、宮廷で実験的に上演された。しかし、この頃出てきた株式会社の概念で最初の公開オペラ会場が開かれるのが1637年、ヴェニスでの事。かなり儲かったらしい。モンテヴェルディ氏はその没年に『ポッペーアの戴冠』(1643)と言うオペラを発表するまでに実に12のオペラを書き、オペラ発展の最初のステージに大きく貢献する。
資本主義、株式会社の概念のもとに演奏会が始まったと言う話、今度はイギリスに飛ぼう。公開演奏会が最初に開かれたのは1672年、ロンドンでのこと。でもコレはそんなに華やかな話ではない。英国の王宮は財政困難で、音楽家たちの給料は薄給。しかも未払いになることも多かったらしい。オーケストラの一人が自宅を開放して、宣伝してティケットを買ってくれた人に楽団演奏家の演奏を聞かせる、と言うことを始めたのが、ロンドンなのである。この一般聴衆に入場券を売ることで演奏会をビジネスとして成り立たせる、と言うことはこの後の西洋音楽の発展の方向性に大きく影響する。イタリア・オペラに関して言えば、どんどん一般受けするように派手に、しかし音楽と内容が二の次になっていくのである。カストラート(幼少期に虚勢された、男性ソプラノ)や、プリマ・ドンナの人気がオペラの成功の鍵を握り、その為に作曲家の十数倍の収益を得るようになるのも、この頃である。「不特定多数の一般聴衆を喜ばせるための音楽」と言うのが始めて出現したのだ。ここで上手く立ち回ったのがヘンデル、少なくとも現世のキャリアと言う意味では実に不器用だったのがバッハだ。この二人、同年に生まれているのでそのキャリアを比べるととても面白い。
二人とも18の年まで教会音楽家となるべく、教育されている。17でヘンデルは教会オルガニストの職をゲット、バッハは18で同じようなポジションをゲット。しかし、ヘンデルは実に突然、その全てを蹴って勝手にハンブルグに行ってしまうのである。ハンブルグに何があったか。1678年に開いた、ドイツ初の公開オペラ・ハウスである。この頃のドイツでは、イギリスでもフランスでも特に最初受け入れられなかったイタリア・オペラを多いに好み、イタリア語の戯曲をドイツ語に訳して使用したり、ドイツ人作曲家がアリアの部分はイタリア語、レチタティーヴォ(喋るように歌う部分、ここで大体の筋が決まる)の部分はドイツ語のオペラを書いたりしていた。ここで若干20歳のヘンデルはオペラ作曲家デビューを果たし、それをきっかけにイタリアに職を得て5年滞在、そしてその後1710年、外国人音楽家に一番寛容だったイギリスに渡り、1713年にはアン女王のスポンサーまで得ている。ここですでに同時期のバッハの二倍の給料。さらに英国オペラ会の監督に任命される。しかし数年後、オペラの人気がちょっと衰退したと思いきや(余りにも沢山の人が沢山の劇場をいっぺんに公開しすぎたのです、制作費もとっても高いし)、今度はヘンデル、英語のオラトリオと言う新しいジャンルを開発、一攫千金するのである!イギリスで製作されるオペラはイタリア語で上映されていた。これには収入の面で二つの問題がある。一つはイタリア人歌手を雇わなければいけない―高い。もう一つは中産階級のイギリス人がイタリア語が分からない―客足が遠のく。しかも、教会の命令で復活祭までの4週間は劇場を閉めることを命令―この間収入が無い。と言うことで、いつでも上演でき、しかもイギリス人歌手(安い)でOKで、しかも舞台装置も衣装も背景も要らないから制作費がずっと安い、「メサイア」を筆頭にする、英語のオラトリオ!ハレルヤ・コーラスなどはベートーヴェンの「喜びの歌」と同じくらい、馴染み深いだろう。これは全部、このオラトリオ出典なのである。これは音楽史上初めて作曲された、作曲家の死後一度もマイナーになったことの無い曲たちである。あの「西洋音楽の父」バッハでさえ、死後一度ほとんど忘れられているのである。19世紀に復活するのだが。
そのバッハだが、逆に涙ぐましいような苦労人生を送っている。生涯独身貴族を通したヘンデルと比べて、バッハは22歳で結婚。20人の子供を二人の妻に出産させ(一人目は七人目を出産後に他界)、幼年期に無くなった7人を除く13人を育て上げるのである!しかもヘンデルの10分の一くらいの収入で!そしてその仕事量が並大抵では無い。ヘンデルだって40のオペラ、30のオラトリオ、100位のカンタータ、36の協奏曲と、頑張って書いているのだが、バッハに比べるとまるで遊び暮らしていたかのようである。バッハは生涯オペラは一つも書いていないが(コレも面白い)、協会用のカンタータ(ルター派の教会ではカンタータが日曜日のミサの目玉で、バッハは教会に勤めているときは毎週一曲は新曲を出していた)300以上、ミサ曲、受難曲、オラトリオ、モテット、オルガン曲、ハープシコード曲、室内楽、協奏曲…子供が13人いて、その上、文字通り数え切れない数の曲を書いて、さらにラテン語や音楽を毎日4時間教え、作曲だけでは無く、パート譜のコピーも自分でし、その上教会の合唱団のリハーサルと本番を指揮し、学校の優秀な生徒のレッスンを教え、そしてアルバイトで結婚式や街のイベントのために曲を書いたりもしているのである。人間業とは思えない。
バッハもヘンデルもそのオルガン奏法で有名だったが、(そうそう、バッハはオルガン製作のコンサルティングもやっていた)楽器自体の改良・発展がどんどん行われたのもこの頃である。オルガンの改良・発展はオランダと北ドイツを中心に行われた(1650-1750)。そしてヴィオリンを始めとする弦楽器作成の最高峰、アマッティ、ストラディヴァリ、そしてグアルネリがなぜかほぼ同時期、皆北イタリアはクレモナと言うところに出現したのが、1600年から1750年にかけてである。そして、良い楽器が出てくると、その楽器のためのジャンルが発展するのである。ドイツでは特にルター派のミサでのオルガン使用が奨励されていたため、その為のレパートリーがどんどん発展する。バッハのオルガンコラール、トッカータ、前奏曲とフーガ、などを思い浮かべていただこう。そしてヴァイオリンは、コレリのソナタ、ヴィヴァルディの協奏曲。
そろそろ終わりたいのだが、余りにもフランスを軽視しすぎた。フランスで一番大事なのは、Jean-Philip Rameau(1683-1764)であろう。他にもルリーやクーペランなど、偉大な作曲家は居るのだが、バロック以降への発展が余り無いので、ここでは割愛。しかし、ラモーについては一言だけ。この人は凄くユニークなキャリアの持ち主で、40代までほとんど無名だった。しかし、1722年に出版した「Treatise on Harmony(和声論)」と言う本で一躍有名になり、それ以降フランスを代表とする主に劇音楽の作曲家として活躍する。この和声論という本に説明されていることは、今の楽典のクラスで世界各地の音楽学生が勉強することとほぼ同じである。それまでの音楽理論はそれぞれの声部を一つずつ水平に追っていき、声部と声部の間の距離を協和音とするか、不協和音とするかを考える、と言う方法を取っていた。でも、ラモーはこれを縦割りで考える方法を提唱下のである。今のドミソの和音が始めて理論として提唱されたのである。コレリの時代からすでに実践されていたことではあったのだが、それでもきちんと命名と定義と説明ができる、と言うのはえらいことである。
バロック大要でした。思いがけず頑張って書いてしまいましたが、結構楽しかった。
明日から、古典派!