障害者施設、ワイワイクラブにて、訪問演奏

今日は、色々な障害を持つ方が通われる、デイ・ケア・センター「ワイワイ・クラブ」での訪問演奏を行いました。 ワイワイ・クラブではメンバーの皆さんを中心に焼き菓子、パンなどが出されるキャフェ、 そしてビーズなどで作られた小物の展示販売もあります。 http://www.geocities.jp/yycyyh/ そこで、演奏前のお昼ごはんで頂いた、焼きたてのクロワッサンは 私がパリ以外で食べたクロワッサンの中で一番おいしかった、と断言できます。 それから、野菜カレーのデーニッシュ、紅茶メロンパンも本当に美味しかった! 演奏会では、みんなと会話をしながら、曲を弾きすすめました。 はじめにみんなに、フレーズ=呼吸、拍=脈、と言う話をして、 バッハの前奏曲一番をみんなと深呼吸しながら弾きました。 弾き終えたら、kさんが 「疲れがいやされる感じでした。まるでコーヒーをゆっくりと飲みながら聞いていたような・・・」 と、しみじみ言ってくださって、それがとても実感がこもっていたので、みんなで共感して笑いあいました。 びっくりしたのは、 「楽しいベートーヴェンと悲しいベートーヴェンとどちらが聞きたいですか」 と問いかけ、悲しいベートーヴェンの例として、有名な「月光のソナタ」の最初の数小節を弾き始めたらば、 一人のメンバーが 「いやだ、怖い、それは無理です、その曲はいやです」 と、すごくはっきり拒否反応を示したことです。 月光のソナタは有名だし、同情しやすい感情を提示するので、みんなに喜んでもらえるかも、 と思って弾こうかな、と思いましたが、 でも確かにこの曲は「怖い」です。 私はもうあまりにこの曲になじみ過ぎて、この曲を「怖い」と思う気持ちを忘れていた。 そして、そういう風にはっきりと感じてくれて、その気持ちをコミュニケーションをとってくれるのは、 常識に縛られる「常人」では難しいことで、それをはっきりと示してくれるお客さんと音楽を分かち合えたのは 私の幸せです。 そして、「月光のソナタ」の代りに「ロンドハ長調、作品51-1」を弾いて差し上げたら、 「月光のソナタ」を嫌ったその方が 「ああ、良かった~」 と本当に満面の笑みを浮かべて、椅子の中で姿勢を崩して喜んでくださったので、 私も本当に嬉しかった。 そのあと、ラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」からの抜粋や、 ドビュッシーの「月の光」そして、スクリャーヴィンの「左手の為の夜想曲」など、 一生懸命弾き、一生懸命聞いてもらいました。 今日は、いろんな人から「ありがとう」と言ってもらったけれど、 私の方こそ、「ありがとう」です。

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練習

今日は、一日練習日でした。 明日、障害者施設での訪問演奏、そして明後日は美術館での独奏演奏会と言うことで、 本当はそのプログラムの練習だけなら気楽なのですが、 実は今月末からタングルウッド音楽祭の研究生として、 2か月間ほぼ毎日なんらかの新作演奏があり、 その楽譜の一部が郵送されてきたのが、5月末。 かなり高度な現代曲のソロもいくつかあり、その譜読みを進めているほか、 11月にまた独奏会があるので、そちらのプログラムの譜読みもそろそろ始めないと。。。 と、言う感じなのです。 10時から5時まで、おひるとおやつを除き、みっちり練習。 帰り道は電車で爆睡しながら、練習の夢を見ていました。 少しは復習になったかな。 今回晴れてクライバーン・コンクール優勝の辻井さんは、目が不自由なのに、ほとんどの音を聞いて拾えるそうです。 楽譜が見えるから、見えなくなるもの、って何かな、と考えながら練習しました。 意外にそういうものは多いのかも。

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いきなりですが、聴衆求人!

はじめまして、ピアニストの真希子です。 ロサンジェルス在住ですが、今現在は毎年恒例の日本での演奏活動を行うべく、里帰り中です。 いままでに3回のサロン・コンサートと小学校での訪問演奏を終え、 残るところは金曜日の障害者施設での演奏会一回と、 横須賀の現代美術館「カスヤの森」(http://www.museum-haus-kasuya.com/index00.htm) でのリサイタル一回のみとなりました。 「カスヤの森」でのリサイタルは、諸事情、手違いで、いつもどおりの宣伝が行われておらず、 当日の入りが少し心細い、今日この頃です。 プログラムは、古典を代表するモーツァルトとベートーヴェン、印象派を代表するドビュッシーとラヴェルを比べてみるような、設定になっています。 場所:「カスヤの森」現代美術館 (JR横須賀線、衣笠駅より徒歩12分) http://www.museum-haus-kasuya.com/index00.htm 時間:6時半(より少し遅れます)開演、休憩をはさんで2時間弱のプログラム 曲目:ベートーヴェン、ロンドハ長調、作品51-1、モーツァルト、イ短調のロンド、ドビュッシー「映像一巻」、ラヴェル「優雅で感傷的なワルツ」、スクリャービン、他 ピアニスト:私、平田真希子、http://makikony.cool.ne.jp/ ティケットのご予約、ご質問: (045)826-2348、またはメール、jhirata@c3-net.ne.jp) ぜひ、お越しください。

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LAに戻って

日本の皆皆さま LAに戻ってきて、一週間が経ちました。とても盛り沢山な一週間でした。 水曜日にはLAオペラのゲネ・プロを見に行きました。 演目はプッチーニの“Il Trittico(三部作)”。短い3つの作品をセットとして一晩のオペラ(3時間45分)とした作品で、「外套」、「修道女アンジェリカ」、「ジャンニ・スキッキ」から成っています。最初の2作品が悲劇で、3作目が喜劇。 この3作目を喜劇で有名な映画監督、ウッディ・アランが舞台監督したこともあり、ゲネ・プロなのに大入りでした。私はまだ時差があったし、2作ほど見て帰ろうかと考えていたのですが、歌手が信じられないほど素晴らしく、1作目のテナーの熱唱では背筋がゾクゾクして、2作目で自分でもあきれるほど泣いてしまい、結局全部見てしまいました。プッチーニは不協和音を本当に魅力的に響かせて、味を出します。もう、ぐっと来てしまいました。 2作目を見て大泣きした後、劇場の外で外気にあたりながら、現実がひどく目新しく感じられました。こういう風に自分の観点が動かされることが「感動」というんだなあ、と改めて妙に納得してしまいました。 木曜日の午後は、無料のドレスの展示会がコルバーンの集会室でありました。 匿名の個人が自分がいらなくなったドレスを大量にコルバーンに寄付してくれたのです。音楽を生業としていると、お金はないのにドレスが大量に要り、困ります。 アメリカのドレスは日本のものよりも作りが雑ですが、値段もケタ違いに安いのです。同じドレスを2回続けて着るわけにはいかないし(同じお客さんが来てくださってるかも知れないから)、ドレスに演目を反映させたいという気持ちもあって、私は古着屋や、安売り、それからお下がりを主に、驚異の安値で大量にドレスを集めています。今回のドレスたちは、絶対に着て楽器演奏できないような飾りの多いものばかりでしたが、こういうイベントにはありがたくセッセと通うことにして、ついでに多いに楽しんでいます。 土曜日は生れて初めて、サーフィンをしました。 LAは海岸沿いの都市で、気候も温暖、そしてさらに波がサーフィン向きなので、普通の人が日常的にサーフィンをしているような町です。私もずっと挑戦してみたいと思っていたのですが、今回学校から希望者を募って連れて行ってくれる、との事だったので、チャンスに飛びつきました。約2時間サーフボードと格闘して、一応筋肉痛以外の肉体支障はなし、そして非常に楽しかった。でも、残念ながらサーフボードの上に立つことはどうしてもできませんでした。サーフィンと言うのは気楽なスポーツに見えますが、実はどうして、かなりの筋力(少なくとも私の今以上の筋力)を必要とするようです。サーフ・ボードを持ってかなり沖まで出て行き、波を待って「ヨイショ!」とサーフ・ボードにお腹を下にして水平に飛び乗り(私の場合は「へばりつく」といったほうがより正直)、波の勢いを利用してサーフ・ボードの上に立つ、と言うのが、今の私の理解するところのサーフィンです。運動量も筋力もまだまだ向上の余地の大いにある私にとってはサーフ・ボードを担いで、沖までたどり着くのもなかなかのファイトを要したのですが、とりあえずはサーフ・ボードにしがみついて砂浜まで波に乗っかて滑っていくことは完全にマスターしました。ところが、波に乗って勢いのついたサーフ・ボードの上で立つには腹筋と腕の筋肉、そして最終的には足の筋肉が大いに必要となるようで、私はどうしても膝立ち以上はできなかった。 悔しい。やはり、金管奏者は楽器演奏に筋トレが必要なため、成功者が多かったです。 一緒に行ったピアニストたちと、ピアニスト共有のサーフ・ボードを買おう、と意気込んでいます。そして、金管奏者たちを見返してやるのです。 日曜日はゲッティ美術館に行ってきました。展示もさながら、私は何よりその建物と庭に驚嘆しました。LACMA(「ラクマ」L.A. Countey Museum of Arts)の空間も素晴らしいと思ったけれど、ゲッティは更に素晴らしい。建築家、リチャード・メイヤー(Richard Meier)の巨大なビルの棟棟は、近代的ですが、真っ白でりりしく、周りの山や海、そして庭とうまく調和してビルそのものが浮き立つことはありません。すがすがしく、自然です。ロバート・アーウィン(Robert Irwin)のデザインした庭は、私がポルトガルの古いお城で見た庭によく似ています。いろいろな花が咲き乱れ、きれいに刈り込まれた垣根が迷路になっていて、その真ん中に巨大な噴水があります。迷路の周りには子供が転がって遊べるきれいな芝生が広がっています。そして、この美術館もコルバーンと同じように金持ちの個人の財団によって成り立っており、入場料は無料です。 こうして書いていると、私が遊んでばかりいるような感じもしますが、そんなことはありません!私は目下、デビュッシーの「映像」の一巻、二巻、合計六曲を来週までに譜読み、そして仕上げることを目標に毎日全力練習中!さらに、今学期のスケジュールは日に日に埋まってきているのです。以下をご参照ください。 9月24日  ベースのリサイタル、共演 10月1日 プーランクの三重奏の演奏 10月?日 プーランクのオーボエ・ソナタ共演 10月12日 自分の独奏会(ドビュッシーの映像一巻、もしくは二巻、エサ・ペッカ・サロネン「ダイコトミー」、休憩、「ハンマークラヴィア」 10月13日 NYへ 10月15日 あるオーディション(内緒) 10月16~ ハンマークラヴィア、他、収録 10月25日 エサ・ペッカ・サロネン「ダイコトミー」演奏 11月11日 指揮:コープランド「Quiet City」、ベリーニ、オーボエ協奏曲 この他にまだ、コンサートがいくつか入る予定なのです。 私が「今のうちに!」と、ドビュッシーの合間を縫って一生懸命遊ぶ理由がおわかりでしょう? それでは、そろそろ海岸に向けてお友達とドライヴする時間が迫ってきたので、この辺で。

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ソナタ形式=「起承転結」

「ソナタ形式」と言うと飛んでも無く難しく聞こえるし、恥を忍んで言えば私だって、この「ハンマークラヴィア・プロジェクト」を立ち上げてから腹を据えて楽典の本を何冊も読んでやっと始めてはっきりと納得した次第である。分かってしまえば何という事も無い。第一主題(first theme/masculine theme)、第二主題(second theme)、提示部(exposition)、展開部(development)、再現部(recapitulation)などとややこしく言うから難しいのであって、ソナタ形式とは単なる音楽の起承転結のことである。 そしてまさに文字通り、起承転結なのである。 分かってしまえば気抜けがするくらい、ソナタ形式の曲たちはすんなりとソナタ形式に当てはまる。(そしてピアノ曲の半分以上はソナタ形式である)、 ソナタ形式とは、3部から成る。 第一部(提示部、あるいは呈示部) = 「起」+「承」= 問題提起 「起」まず、ある音楽が紹介される。 例1)今日はお天気。 例2)ああ、ロミオ、ロミオ!あなたはどうしてロミオなの? 「承」「起」の音楽を承って応答がなされる。この応答には発展性があり、結論性が無い。(「承」の終わりで演奏をやめると、なんだか納得できない) 例1)明日もお天気かな? 例2)家族と離縁して、家名を忘れて!  ここで少し専門的な話をすると(面倒くさい読者は、次の二段落を飛ばしてください)、ソナタ形式がややこしくなる一つの理由には、提示部には第一主題、第二主題、と言う二つのメロディが存在しなければいけないと言う一般的な誤解がある。確かにはっきりと二つの主なメロディが存在するソナタも多いが、一つしかメロディが無かったり、あるいは3つも4つもメロディがあったりするソナタも多いのである。全くメロディらしきものが無いものもある。例えば、ベートーヴェンの5番、「運命」交響曲(交響曲の第1楽章は通常ソナタ形式である)のかの有名なオープニング、「ダ・ダ・ダ・ダーン」は果たしてメロディと言えるのだろうか。しかしあの楽章の「起」の部分は「ダ・ダ・ダ・ダーン」とその変奏のみから成っているのである。音楽と言うのは、旋律とリズム、和声と言う3つの要素から成るが、ソナタ形式を旋律で定義しようとするのは間違えである。ソナタ形式を史上最初に定義した(と自己宣言した)のはベートーヴェンの弟子、カール・ツェルニーであるが、彼がこの間違えを犯したため、今でもこの誤解が容認されている。あの小さなピアニストたちには拷問的な練習曲を何百も作曲したことと並べ、なんとも迷惑なツェルニー氏である。(しかしツェルニー氏の名誉のためにもうちょっと書けば、彼は800曲以上を書いた多産な作曲家でもあり、彼の作品はもっと演奏されるべきである、と私は思っている。学術的な興味だけでなく、彼の曲はしっかりとした構築でなかなか面白いのである。ツェルニーはリストの教師でもあった。)  では、旋律で定義できないとしたら、ソナタ形式とは何で定義するべきなのか? それは、和声なのである。「起」の部分はその曲(あるいは楽章)の一番主要な調(へ長調の曲ならへ長調、ニ短調の曲ならニ短調)で起こる。これはその曲において、一番安心できる調、いわばお家である。「承」の部分はお家に帰りやすい調で起こる。一般的に長調の曲なら属音(スケールの5つ目の音)に基づく調(ヘ長調ならハ長調)、短調の曲なら平行調(短調のスケールの3つ目の音から始まる長調のスケール、ニ短調の曲ならヘ長調)、に移行する。ベートーヴェンなどのへそ曲がりはこういう伝統は破ったりするが、とりあえず一般論ではそういう人は無視しておく。要するに聞いている人は、まず曲が始まったら「よし、これがこの曲のお家なのか。ここが一番落ち着くところなんだなあ」と認識していただき、変化が始まり、なんだかお家と違った音響に包まれたら、「うん?なんだかお家とは違うところに来たぞ。これから何が起こるんだろう」とわくわくして頂ければ良いのである。「起」から「承」に移行するとき、また音楽的にいろいろ面白いことが起こるのだが、ここではとりあえず割愛。しかし、この過渡期にしばしば新しい旋律が出てきたりして、旋律でソナタ形式を定義しようとする人を混乱させる。 第二部(展開部)= 「転」 = 試行錯誤 「起」や「承」で紹介された材料(メロディ、あるいはもっと小さな音形の単位、あるいはリズム)を使って、発展させていく。いろいろな調性を渡り歩き、次に何が来るか予測がつきにくい。冒険的。 例1)明日も晴れるといいなあ―>明日は運動会なんだ―>天気予報は晴れだった―>でも雨だったらどうしよう―>そうだ、テルテル坊主を作ろう! 例2)あなたの名前だけが私の敵;―でもあなたはあなた自身であって、名前ではないはず。―>モンタギューって何?手でも、足でも、腕でも、顔でもあなたに属するなにものでもない。他の名前になって!―>名前が何だって言うの!バラを何と呼んでも、その甘い香りは変わらない; 第三部(再現部)= 「結」= 結論 第一部で提示された問題に結論を付ける。調性的には、第三部はずっと主音の調、安定した(お家の)調にとどまる。普通「起」と「承」が繰り返されるが、単純なソナタ形式では「起」の部分が省かれる場合もある。 例1)「起」今日はお天気。「承」明日もお天気!:-) (あるいは単に「承」「明日も絶対お天気!」) 例2)「起」そう、ロミオ、ロミオ、何と呼ぼうとあなたはロミオ。 「承」家族と離縁して!名前をわすれて!変わりに私を上げるから! 以上が私がやっと理解したソナタ形式の概要である。 このエッセーを読んでいただいた聞き手の方々に、こういう風にソナタを聞いていただけたら、幸いだ。 「起」 よし、これがこの曲の調子、主張かあ。再現部での再会を楽しみに覚えておこう。 「承」おや、音響が変わって、新しい主張がなされたぞ。 「転」あれあれ、この曲はいったいどこに行くんだ? 「結」ああ、帰ってきたよ。なかなかの冒険だったなあ。そうそう、「起」がこんな主張をして、この曲は始まったんだった。お?そして「承」は冒険を経てこういう風に納得したのか。うまく納まった!いやあ、いい曲だった。 ここでちょっと書き足したいのは、この3つの部分の割合である。 大体曲を3等分にするのが普通だが、ソナタによっては第二部が非常に短かったりもする。 こういう風に思っていただきたい。 どちらの例でも、「起」と「承」の台詞は、役者は周りの景色を見回したり、思わせぶりなため息をついたりして、随分と間を持ってしゃべるのである。これは場面設定、キャラクター設定、雰囲気の設立などのために不可欠なスペースである。音楽的に説明すると、第一、第三部においては、和声進行が単純で、間遠なのである。そして第二部に来ると、役者はたたみかけるように台詞をしゃべる。音楽的に言うと、調性がめまぐるしく交代し、それによって材料も細切れになって提示されたりする。第三部は第一部と同じペースで和声が進行する。

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