どんどん毎日元気になってくる。嬉しい。 気分が悪かった時は本当に部屋を出て学友と顔を合わせるのも億劫だったけれど、 今日は色々用事でみんなに会うことが多く在って、そのたびに何だか嬉しかった。 夜、お友達がお部屋に遊びに来てくれた。 Youtubeで色々な演奏や曲で好きな物を皆で紹介し合った。 私はこういう風にYoutubeで遊ぶのは初めてで、 Youtubeで音楽を聴くときはいつも部屋で一人だったけど、とても楽しい体験だった。 昔はむしろ演奏会で聴く生演奏よりも、完全に一人で音楽に浸りきれる録音の方が好きだったけど、 人、特に気心の知れた音楽仲間と一緒に聞く音楽と言うのは、全く違ってまた凄く良いものだ。 浸りきって一人で聴く音楽と言うのは、全く主観とすでに持っている知識だけの世界に集中することになるが 一緒に聞く音楽は、他の人の感性を受け入れる客観性を残して聞くから、全く別体験だ。 視野も、音楽世界そのものもぐっと広がる。 とても刺激的で、勉強になったし、何より楽しかった。 昨日から、旅行中のMr. Perryに代わって後輩のレッスンをしている。 皆とても才能があるので、ちょっとした意見を述べるだけでどんどん演奏が変わって面白い。 私も、張り切って、そして皆の音楽性に触発される。
タングルウッド音楽祭にいる時はほぼ毎日、時には一日に二回以上、演奏会に行っていた。 しかし、タングルウッドの最終日、8月16日以来、音楽会には一度も行っていない。 始めは少し食傷気味だったし、移動や、引っ越しや、学校が始まって友達との再会とか、 色々在って演奏会に行きたい、とも思わなかった。 それに演奏会シーズンは9月下旬まで始まらないので、まだあんまり演奏会も無い。 でも、この数日、なんだか「演奏会に行かなきゃ」と言う焦燥感の様な気持がしてきた。 こんなこと、生まれて初めてである。 練習していると、自分の音楽が外からのインプットを必要としているのが分かる、そんな感じ。 図書館に行って、今学期演奏するブラームスのピアノ四重奏第二番の録音を借りて聴いた。 リヒテルと、ボロディン四重奏のメンバーによる演奏である。 生演奏の録音で、一楽章はリヒテルの演奏にちょっと不安定な所もあったが、 全体には圧倒的な演奏だった。引き込まれた。 弦がほとんどヴィブラート無しの完璧な音程で、ピアノの反映、エコー役を務める。 ピアノは、弦に溶け込むような音を出す。 夜は、今学期最初のピアノの「Playing Class」が在った。 コルバーンのピアノ科の生徒がみんな集まって、先生と一緒にその週に仕上がった曲を聴く。 昨日のクラスでは、サンサーンスの協奏曲2番、ショパンのアンダンテ・スピナート、 アルベニスの「テュリアーナ」と「コーパス・クリスティ」、ショパンのソナタ2番、 そしてラヴェルとシューベルトの三重奏を聴いた。 皆確実にうまくなっている。 リヒテルの録音とはまた全く違った意味で、非常に感動した。 私は、幸せな環境にいるなあ、と思う。
金曜日の夜、夏休み中倉庫に入っていた大荷物を部屋に運び込み、大整理をしていたらば 右の人差し指の爪の先っぽがちぎれてしまった。 爪の中のピンクの肌があらわになって、ちょっとひりひりして痛かったので、 この週末は練習は控えることにした。 ちょっとひどい深爪くらいのものだし、夏前の私だったら疑いなく練習していたと思う。 でも、タングルウッドの後、いろいろ考察することあって、その一つに 私は今まで練習しすぎて、その為に多くのものをむしろ失っていたのではないか、と言うことがあるのだ。 惰性で弾いてしまい、音に鈍感になり、音楽が当たり前になる、と言う状態。 その状態を脱出すべく、今回のはがれ爪は良い機会、と思い、練習をしなかった。 その代りにまず、いろいろな作曲家によるエッセーを読んだ。 タングルウッドでのブログで何回も 「現代曲考察については、いつかきちんとまとめて書く」 と、宣言したが、未だに実行ができないのは、考えれば考えるほど色々分からないからだ。 だから、作曲家たちは何を考えて、この方向に音楽を動かして行ったのか読んでみた。 大きく分けて、19世紀末期、20世紀初期の作曲家たちは2つに分けられるかも。 一つは非常な客観主義。音楽のそれまでの伝統的な文法に見切りをつけて、感情表現の手段では無く、ただ単に自分の五感で感じ取った外界の描写として、自然に存在するのに近い音を自分なりに整理したものを「音楽」とする。印象派のドビュッシーを始め、Emersonや、Thoreauに触発されたアイヴスの超越主義、それから意外なところではブゾーニもどちらかと言えば、こちらに近い。 もう一つは非常な主観主義。もともと教会や宮廷の為にはっきりとした社会的役割を持っていた西洋音楽は、啓蒙主義(ベートーヴェン)以来、自己表現の為の音楽に変わる。それがロマン派で、より感情を強調した方向に持って行かれ、さらにフロイドの登場で、自分にも意識し得ない、意識下の世界の探索の手段としての芸術、と言うことで表現主義がウィーンに登場。社会的常識を超越した、野性的、暴力的な表現。ショーンベルグを始めとする、ウィーン第二学派はこちらに属する。 ドビュッシー、ブゾーニ、アイヴス、ベルグ、ウェーバーン、そしてショーンベルぐによるエッセーを読んだ。実に興味深かった。そして作曲家たちはみんな、かわいそうになるほど一生懸命だった。 はじめは、「練習できないからお勉強でもするか」とちょっと義務感から始めた読書だったが、面白かった。
永遠に来ないかと思うときもあった、タングルウッド最終日になってしまった。 信じられない気持で、みんな何となく夜いつまでもぐずぐずと寝ないでおしゃべりをしてしまった。 明日は10時までに寮を出なければいけないのに。 お洗濯も、荷造りも、まだの人が多いのに。 それはそうと、一昨日、昨日、今日とつづけてものすごい演奏会が立て続けにあった。 8月14日:ボストン交響楽団、指揮マイケル・ティルソン・トーマス。 ラフマニノフのピアノ協奏曲3番(独奏、ブロンフマン)、ショスタコーヴィッチの交響曲5番 8月15日:ボストン交響楽団、指揮アンドレ・プレヴィン ベートーヴェンの交響曲4番、リストピアノ協奏曲2番(独奏、Jean-Yves Thibaudet)、ラヴェル「ラ・ヴァルス」 8月16日:研修生によるオーケストラ、指揮クルト・マズア ブラームスのピアノ協奏曲2番、(独奏ギャリック・オールソン)、ブラームスの交響曲2番 まず、凄いのはピアノ協奏曲の中でも特にヴァーチュオシックな3曲が 3日続けて超有名なピアニストによって演奏されたこと。 皆凄かったが、ブロンフマンは巨体によってピアノを制覇し、聴衆を圧倒した感じ。 ティボデはテントの演奏会場の音響を計算に入れ、できるだけ明確に、はっきりと弾こうとした。 ブロンフマンに比べると、理性的で、計算が聞いた演奏に思えたが、熱情と言う意味では欠けたかも。 それは曲の性格による所でもあるのだが。 でも、ブロンフマンが体で弾いている感じだったのに対し、 ティボデは対局的に、指の細かい動きでコントロールするきらいが在った。 そして3日目のオールソンはこれは文句が付けようがない。 この人もかなり体が大きいのだが、(鍵盤の下に膝が入りにくそう)、 ブロンフマンが良くお尻を浮かせて重心をピアノに欠けていたのに比べ、 オールソンは常にがっしりとお尻が安定して、 おおらかに、自然に弾いていた。 それなのに(だから!?)音が詰まることなく、おおらかに響いて、本当に気持ちよく聴けた。 この3夜の演奏を比べるだけでも、物凄い勉強になった。 もう一つ凄いのは、15日に振ったプレヴィンと、16日のマズアが二人とも80歳だったことだ。 年の取り方、と言うのは随分個人差があるようだが、 プレヴィンは物凄くゆっくりとしか、歩けなくなっている。 機智の富んだ会話をするし、足腰以外は若若しく見えるが、 舞台の袖から指揮台に上がるまで、付添に一緒にあるいてもらい、 指揮台上がるのに、支えてもらっている。 そして、彼の指揮はすべてが耐えがたくゆっくりだった。 なぜそうなるのか。 年のせいか、意識的解釈か。 彼の知名度と、歴史から、オケの奏者は彼の指示に従うが、信じられないテンポであった。 マズアはパーキンソン病から、手の震えが止まらない。 でも、それが全く演奏の妨げにならない、物凄いエネルギーで、物凄い演奏をオケにさせてくれた。 クレンプラーは晩年、脳溢血を患い右半身が麻痺しても、 左手だけで物凄く存在感と主張のある指揮をしたそうである。 年はみんな取っていくし、それにつれて肉体的限界が出てくる。 でも、年をとればとるほど、歴史とのつながりは濃くなるし、経験は豊富になり、 自分の視点と言うのもどんどん確率されていくだろう。 自分の成長の深さによって、どれだけ肉体の衰えを超越できるか。 なんだか究極のレースである。
今日はたくさん凄いことが在った。 まず朝、ボストン交響楽団のドレス・リハーサルを見学しに行った。 今日のプログラムはブロンフマンの独奏でラフマニノフの協奏曲3番と ショスタコーヴィッチの交響曲5番、指揮はマイケル・ティルソン・トーマスである。 リハーサルでは前から10列目くらいの鍵盤側の席に座って聴いていたが、 私たちを見つけたブロンフマンは、昨日の遭遇もあってか、オケのイントロ中に目礼してくる。 それだけで興奮なのに、リハーサル中に「聞こえる?」と目と手振りで聴いてくる。 本当は今夜の本番を控えて、抑えめに弾いているブロンフマンの音は、オケに負ける時もあったが、 まさか「聞こえません!」とは、絶対に言えない。 ブンブンと、頭を縦に激しく振って「聞こえます!聞こえます!」と何回もやった。 リハーサル中のブロンフマンはオケのテュッティの最中は、 難しいパッセージを鍵盤に指をあててさらったり、水を飲んだり、オケの団員と目くばせを交わしたり、 結構気が多かった。 そして、「これが彼にとってはメトロノームと練習するようなものなんだなあ」と思わせるような、 感情と、勢いをすべて排除して、正確にゆっくり目に通していた。 しかし夜の本番では、一転して物凄い演奏を披露したのだ。 何回も重心を鍵盤に乗っけるべく、お尻を浮かせ、テンポは計算されつくしているが 常に緊張感があり、そして勢い付けるところでは、オケを振り飛ばすかのような勢い! 終わった瞬間に、観客が地震の様などよめきを上げて、立ち上がった。 5回カーテン・コールが在った。 午後はアンドレ・プレヴィンの歌曲のドレス・リハーサルがあった。 アンドレ・プレヴィン出席だったので、普通のドレス・リハーサルよりも緊張したが、 彼はみんなを惜しみ無く誉めて、とても楽しそうにしていた。 マーティン・キャッツの公開レッスンがそのあと在った。 この人は有名な伴奏者で、今日はドイツ歌曲の公開レッスンだったのだが、 歌詞をいかに音楽に反映させるか、と言うことに重点を置く面白いレッスンだった。 コンサートのせいか、それとも充実感か、とても幸せな気分だ。