August 2013

1750年から1825年、革命の時。

1749年にヘンデルの「王宮の花火の音楽(Royal Fireworks)」―屋外での式典のために書かれた管弦楽のための華やかな曲―の公開リハーサルが行われた際、12,000人もの人が一目みたいと詰め掛けて、三時間交通が不通になったらしい。前回でも触れたが、公開演奏会が始まったのはロンドン、1672年。それがパリでも1725年に始まり、ドイツのライプツィグでも1763年に始まる。中産階級のアマチュア演奏家や愛好家を念頭に置いた演奏法や音楽理論の本が多数出版され、出版社はアマチュア用の曲を作曲家に依頼する。音楽が特権階級のみの物だった時代は過ぎ、大衆が演奏・出版・作曲される音楽を左右する時代の到来。それは要するにに革命の時代であった。 啓蒙主義的な考え方がどんどん浸透する。人間の観察力、経験から学ぶ力を伝統や宗教より重んじ、常識的・実際的な道徳の方が教会の教えより大事であるとする。国家や体制の役割を人権の保護とし、一般教育の必要性を説く。人工的なものより自然なものを良しとし、自然に(のみ)『真実』が見出せるとする。人間皆平等、人間皆兄弟。この思想が最後にベートーヴェンの第九のフィナーレ「喜びの歌」で開花するまでの道のり、と言うのが古典派の作曲家の生きたヨーロッパ。 オペラの発展に置いても、その反映を見ることが出来る。 メタスタシオ(1698-1782)と言う詩人が居る。音楽史での彼の重要性は、オペラ・シリアと言うジャンルを確立したことに在る。彼自身、啓蒙主義者を自負し、聖ローマ皇帝の委嘱にはしばしば啓蒙主義的で寛容な皇帝を登場させ、娯楽を通じて道徳教育を、と言う観点を持って書いていた。これはこれで成功し、27しか無かった彼の台本は実に100以上のオペラとなって今日に残る{例えばモーツァルトもオペラにした「Clemento di Titto」)。しかし、彼はあまりにもはっきりとしたオペラ・シリアの公式を確立しすぎた。3幕それぞれ大体10から20のシーンがあって(登場人物の入場・退場をシーンと数える)、登場人物は大体6人(二つのカップルとそれから打ち明け話を聞く脇役)。アリアとレチタティーボを交互に繰り返す。そして絶対に喜劇的要素があっては成らない… こういう体制を提示されると、すぐ反抗したくなるのがこの時代なのである。 まず最初にオペラの幕と幕の間の休憩時間に一幕ずつ演じられるIntermezziと言う喜劇オペラのジャンルが急に発展する。Pergolessi(1710-36)の「奥様女中」はその代表作だ。これは言うことを聞かない女中にまんまと言いくるめられて最後にいつの間にか結婚を申し込んでいる独身貴族の男性のコメディー。社会階級の差や、貴族制度などを笑った風刺劇である。そしてそのちょっと後に始まったOpera Buffaと言う喜劇オペラ。Intermezziと並び、貴族からの委嘱ではなく、公開オペラ劇場で演奏されるために出てきたジャンル。でも、コメディーと言うのは芸術的実験がしやすい。と言うことで、これらのジャンルはオペラ・シリアを抜いてどんどん芸術作品として発展。モーツァルトの『コシ・ファン・トュッティ』や『フィガロの結婚』までどんどん成長して行く。この頃にはもう貴族も腹を抱えて笑う、皆に愛されるジャンルである。そして貴族をも笑わせながら、社会制度の痛切な批判もユーモアに交えて行えるのが、こういう喜劇なのだろう。そして喜劇のジャンルだけではなく、まじめなオペラにも見直しの空気が1750年くらいに巻き起こる。一つはフランスで起こった「バフーン口論(Quarrel of the Buffoons)」。これはイタリアの喜劇オペラ(Opera Buffa)のグループが2年ほどパリで公演をしたのをきっかけに巻き起こった。それまでのフランス・オペラは余りにも様式に凝り固まっていて、自然さも人間味にもかけていた。もっとイタリア喜劇に学ぶべきではないか…と提唱したグループの筆頭に立ったのが「自然に帰れ」のジャン・ジャック・ルソー。彼は実は自身も作曲家でもあって、この「イタリア喜劇スタイル」で、実験的なフランス語のオペラさえ残している。それからイタリアを中心に起こった「オペラ改革」。それまでのオペラを余りにも様式ばっているとして、より自然な表現を追及したグラックに代表される動き。 交響曲も、四重奏もこの時代、ハイドンによって確立されたジャンルとなり、それをベートーヴェンが一気にその限界まで持っていってしまう。それまでは奏者の楽しみのため、聴き手の娯楽のための音楽だったのが、ベートーヴェンでなぜかいつも、作曲家のため、さらには音楽のための音楽、になるのである。ミサ曲でさえ、すでに宗教のためではない。ミサ曲と言うジャンルを使って、ベートーヴェン様が何か物凄い音楽を書いている、のである。何故そう言うことが許容されたのか。それはベートーヴェンの表現しようとしていたことが全く啓蒙主義のそれと、たまたま一致したから、そしてベートーヴェンと言う人物そのものが(難聴を乗り越えて、作曲に人生をかける個人)その頃革命を計画・実行する人々の理想にかない、個人の内面と言うことがどんどん大事に成っていくロマン派への格好な橋渡しになったからではないか。 随分はしょったが、ロマン派に早く行きたいので、今日はここまで!

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バロック―1600年から1750年

バロック=1600年-1750年… こういう時代区分というのは、歴史家が振り返って行う物である。 1599年の大晦日から一晩明けて起き出した人間が皆、 「さあ、今日からバロックだよ!」と挨拶を交わす訳ではない。 でも、歴史を勉強する上でこういう時代区分にぴったり当てはまってくれる、 とても便利な出来事、と言うのがいくつかある。 バロックの場合、まずその終わりには、かの大バッハの没年が1750年。 では、その始まりは、と言うと二つほど、非常に重要な出来事がある。 まず、モンテヴェルディが『第二の方法』と言う、音楽が歌詞を強調する役割を担い、その為には音楽のルールを破ることを良しとする『音楽=表現の手段』の公式を打ち出すきっかけとなったのが1600年。現存する最古のオペラ(ペーリ作曲の『ユリーディチェ』)の初演が1600年。 では、バロックと言うのは一般的にどんな時代だったのか。まず、イタリアとドイツと言う、それまで音楽史の推進に置いてはほとんど末端的な存在だった二カ国が突然威力を示す。 マドリガルと言うイタリア語の世俗ジャンルの作曲で突然イタリア人が西洋音楽発展のトップに躍り出始めたのが1570年ごろである。経済力もあり、パトロンも多く、他の分野では優れた芸術家を沢山出して居るのに、なぜか作曲に置いてはさっぱりだったイタリアが、まずマドリガルの分野に置いてLuca Marenzio (1553-99)やCarlo Gesualdo(1561-1613)と言った異才を生み出し、それと関係あるのか無いのか、教会音楽の分野でもGiovanni Palestrina (1525-94), Andrea Gabrieli (1532-85)とその甥のGiovanni Gabrieli(1555-1621)とイタリア人の名前のオンパレードである。その上、1600年に『オペラ』がフィレンツェで発明され、その急速な発展がイタリア中で起こるに連れ、イタリア人はさらに、さらに勢いを増していく。Claudio Monteverdi (1567-1643オペラ、マドリガル)、Girolamo Frescobaldi(1583-1643主に鍵盤楽器曲専門)、Alessandro Scarlatti (1660-1725、オペラとカンタータ)Antonio Vivaldi(1678-1741主に管弦楽曲、特にコンチェルト)、Corelli(1713-1653-弦楽器曲専門)。 しかし、バロックを笑って閉じるのは、ドイツ人である。Philipp Teleman(1681-1767), Johann Sebastian Bach (1685-1750),そして(この人は25歳以降はイギリスで暮らし、42歳の時には英国市民権まで取ってしまっているのだが、でもやっぱり生まれはドイツの)Georg Handel(1685-1759)。 ドイツとイタリアと言うこの二つの国に共通しているのは何か。君主制国家では無いのである。しかもこの頃、イタリアもドイツも物凄く小さな領土に迷路の様に分けられて、それぞれ領主とか何だか色々訳の分からない貴族のタイトルのついた人たちが小さな小さな領土を大事に大事に支配しているのだ。この頃のヨーロッパで他の主な国はフランス、イギリス、そしてスペイン。全て専制国家なのである。しかしまず、イギリスはもうバロックの始めからかなり政権がごたごたして、フランスやスペインと比べるとその予算も権威も比べ物にならない。スペインはアメリカ大陸に進出してそこからの音楽を輸入したり、面白い動きがあるものの、元々ヨーロッパ文化からは少し外れた存在であったこと、さらに植民地内での度重なる革命、それから王族が余りにも贅沢しすぎて一時はトップだった経済力が衰える、など。 フランスはのバロック時代は、最後に衰退し始めるまではかなり派手!ルイ13世の治世が1610-43、そして5歳のルイ14世「太陽王」が即位しその後72年間、絶対的権力を駆使してヴェルサイユ宮殿を建て、ルーブル宮殿を改築し、フランス独自のバレー文化、オベラ文化を開花させる。しかしこれが他の国に広まらない、さらに後世に伝わらないのは幾つか理由がある。まず、フランス革命まで続く王宮の見境の無い贅沢で起こる経済衰退。その後に起きたフランス革命の破壊力。しかし、それだけではない。この頃のフランス王宮文化は余りにも排他的だったのである。他国からの影響を排除し、自分たち独自の文化を純粋に守り通そうとする態度。 逆にドイツはそれまでの下地が無いから、どんどんイタリア、フランス、そしてその他の国の伝統、様式、ジャンル、全てを学び、それを自分たち独自の文化に上手く合わせて、ヨーロッパ中の全てに受けるような新しい音楽をつむぎだしていく。イタリアは、宗教改革の後信者が随分減り、苦労して反省会を積み重ね、どうしたら離れていった信者たちを芸術の力で呼び戻せるか、工夫をする。オペラの要素を取り入れたオラトリオ(アリアやレチタティーブやコーラスがオケの伴奏つきで演奏される一種の歌劇だが、聖書のお話に基づいていて、衣装や舞台設置やアクションは無い)と言うジャンルや、コーラスや楽器奏者を聖堂の色々な場所に散らばらせて、それぞれ違う旋律を歌わせて楽しむ多重合唱となど。 「コンチェルタート・スタイル」と言う概念がバロックと言う時代を理解する一つの鍵となりえるかも知れない。異質な物を敢えて一緒にハモるように組み合わせ、その味を楽しむ、と言う概念である。多声合唱ではルネッサンス後期まではいつもテナーが主役だった。1300年ごろから今度はソプラノが主役に。でも、全ての声が同等となり始めたのは、ルネッサンス中期である。それでも、それまでは声楽曲なら声楽曲、器楽曲なら器楽曲と区分けされる傾向があった。声楽曲を楽器が伴奏することがあってもどちらが主でどちらが従かいつも明確になるような作曲の仕方、演奏の仕方。でも、バロックになると声楽と器楽、さらに器楽でも弦楽器と木管楽器、金管楽器など別の種類の楽器を組み合わせる。ソロとアンサンブルが同等にやり取りする。ジャンルの区分もそうである。カンタータと言うもともと室内楽として始まったジャンルが宗教音楽に取り入れられる。オラトリオと言う宗教音楽が、オペラの影響を積極的に受ける。こういう柔軟性は、それは結局、各国の様式にも当てはまることだったのかも知れない。だからドイツがのし上がってきたのかも。1700年には50時間かかった160キロの旅が1800年には16時間に縮小される。世界はどんどん狭くなり、お隣はどんどん近くなる。特に陸続きのヨーロッパでいつまでも「自国」に固執していては、生き延びていけなかったのかも知れない。 1600年、バロックの始まりに戻ろう。アルトゥージと言う批評家が、モンテヴェルディのマドリガルの特に「クルーダ・アマリリ」と言う曲を指して「余りにも型破りだ。ちょっと低音を変えればルールにかなう物を、何故わざわざルールを破って不協和音を鳴らすのか」と非難をして、それが大きな論争に発展するきっかけを作ったのが、1600年。1605年にモンテヴェルディはマドリガル5巻目の序文に「今までの音楽はある型にはめて書かれていた。従って、音楽はルールに従い、その音楽に言葉が従う、と言う構造だった。これを借りに『第一の方法』としよう。しかし私は音楽は言葉の意味を強調し、言葉に従属するべき物だと考えている。より効果的に言葉を強調するためならば、ルールも破り、不協和音も使う。これを私は『第二の方法』と呼びたい」と述べ、さらにモンテヴェルディの弟がそれに補充して「アルトゥージ氏はその非難の時に歌詞については一言も触れていない。しかし、どこで不協和音が使われているかを歌詞と照らし合わせて考えてみれば、その必然性は一目瞭然であろう」としている。音楽が、音楽そのもの以外の何か(歌詞、詩、言葉、感情、メッセージ)を表現する手段となる始まり、と言っても良い。音楽はただ美しいのではなく、何かを表現する、意味あるもの、になるのだ。 この『第一の方法』『第二の方法」で思い出すのがStile antico「古い様式」vs。Stile Moderno「新しい様式」である。「古い様式」は宗教革命以降のカトリック教会が奨励した純粋な対位法のモデルとして挙げられたパレストリーナのような書き方。「新しい様式」は上のメロディーと低奏音をはっきりとしたバロックで初めて出てきた音楽のスタイルのことである。しかし、「第一。二の方法」でも「古い・新しい様式」でも大事なのは、バロックに置いては初めて、全てがOKだったことである。新しい書き方を提唱するのだが、だからと言ってそれが古い書き方を乗っ取るのか、と言えばそうではなく、歌詞やコントラストや音楽の内容によって、使える物は全て使う、これがバロックである。そしてコレは先の「今チェルタート・スタイル」の精神に通じるものがあるかも知れない。 先のクラウディオ・モンテヴェルディ氏(1567-1643)はもう一つ、最初の重要なオペラ作曲家としてもバロック音楽史で重役だ。彼の書いた「オルフェオ」(1607)は歴史上最初のオペラでは無いのだが(多分3作目)、まあ最初の傑作として、「オペラ開幕」に名指されることが多い。最初はオペラはエリートの間で、宮廷で実験的に上演された。しかし、この頃出てきた株式会社の概念で最初の公開オペラ会場が開かれるのが1637年、ヴェニスでの事。かなり儲かったらしい。モンテヴェルディ氏はその没年に『ポッペーアの戴冠』(1643)と言うオペラを発表するまでに実に12のオペラを書き、オペラ発展の最初のステージに大きく貢献する。 資本主義、株式会社の概念のもとに演奏会が始まったと言う話、今度はイギリスに飛ぼう。公開演奏会が最初に開かれたのは1672年、ロンドンでのこと。でもコレはそんなに華やかな話ではない。英国の王宮は財政困難で、音楽家たちの給料は薄給。しかも未払いになることも多かったらしい。オーケストラの一人が自宅を開放して、宣伝してティケットを買ってくれた人に楽団演奏家の演奏を聞かせる、と言うことを始めたのが、ロンドンなのである。この一般聴衆に入場券を売ることで演奏会をビジネスとして成り立たせる、と言うことはこの後の西洋音楽の発展の方向性に大きく影響する。イタリア・オペラに関して言えば、どんどん一般受けするように派手に、しかし音楽と内容が二の次になっていくのである。カストラート(幼少期に虚勢された、男性ソプラノ)や、プリマ・ドンナの人気がオペラの成功の鍵を握り、その為に作曲家の十数倍の収益を得るようになるのも、この頃である。「不特定多数の一般聴衆を喜ばせるための音楽」と言うのが始めて出現したのだ。ここで上手く立ち回ったのがヘンデル、少なくとも現世のキャリアと言う意味では実に不器用だったのがバッハだ。この二人、同年に生まれているのでそのキャリアを比べるととても面白い。 二人とも18の年まで教会音楽家となるべく、教育されている。17でヘンデルは教会オルガニストの職をゲット、バッハは18で同じようなポジションをゲット。しかし、ヘンデルは実に突然、その全てを蹴って勝手にハンブルグに行ってしまうのである。ハンブルグに何があったか。1678年に開いた、ドイツ初の公開オペラ・ハウスである。この頃のドイツでは、イギリスでもフランスでも特に最初受け入れられなかったイタリア・オペラを多いに好み、イタリア語の戯曲をドイツ語に訳して使用したり、ドイツ人作曲家がアリアの部分はイタリア語、レチタティーヴォ(喋るように歌う部分、ここで大体の筋が決まる)の部分はドイツ語のオペラを書いたりしていた。ここで若干20歳のヘンデルはオペラ作曲家デビューを果たし、それをきっかけにイタリアに職を得て5年滞在、そしてその後1710年、外国人音楽家に一番寛容だったイギリスに渡り、1713年にはアン女王のスポンサーまで得ている。ここですでに同時期のバッハの二倍の給料。さらに英国オペラ会の監督に任命される。しかし数年後、オペラの人気がちょっと衰退したと思いきや(余りにも沢山の人が沢山の劇場をいっぺんに公開しすぎたのです、制作費もとっても高いし)、今度はヘンデル、英語のオラトリオと言う新しいジャンルを開発、一攫千金するのである!イギリスで製作されるオペラはイタリア語で上映されていた。これには収入の面で二つの問題がある。一つはイタリア人歌手を雇わなければいけない―高い。もう一つは中産階級のイギリス人がイタリア語が分からない―客足が遠のく。しかも、教会の命令で復活祭までの4週間は劇場を閉めることを命令―この間収入が無い。と言うことで、いつでも上演でき、しかもイギリス人歌手(安い)でOKで、しかも舞台装置も衣装も背景も要らないから制作費がずっと安い、「メサイア」を筆頭にする、英語のオラトリオ!ハレルヤ・コーラスなどはベートーヴェンの「喜びの歌」と同じくらい、馴染み深いだろう。これは全部、このオラトリオ出典なのである。これは音楽史上初めて作曲された、作曲家の死後一度もマイナーになったことの無い曲たちである。あの「西洋音楽の父」バッハでさえ、死後一度ほとんど忘れられているのである。19世紀に復活するのだが。 そのバッハだが、逆に涙ぐましいような苦労人生を送っている。生涯独身貴族を通したヘンデルと比べて、バッハは22歳で結婚。20人の子供を二人の妻に出産させ(一人目は七人目を出産後に他界)、幼年期に無くなった7人を除く13人を育て上げるのである!しかもヘンデルの10分の一くらいの収入で!そしてその仕事量が並大抵では無い。ヘンデルだって40のオペラ、30のオラトリオ、100位のカンタータ、36の協奏曲と、頑張って書いているのだが、バッハに比べるとまるで遊び暮らしていたかのようである。バッハは生涯オペラは一つも書いていないが(コレも面白い)、協会用のカンタータ(ルター派の教会ではカンタータが日曜日のミサの目玉で、バッハは教会に勤めているときは毎週一曲は新曲を出していた)300以上、ミサ曲、受難曲、オラトリオ、モテット、オルガン曲、ハープシコード曲、室内楽、協奏曲…子供が13人いて、その上、文字通り数え切れない数の曲を書いて、さらにラテン語や音楽を毎日4時間教え、作曲だけでは無く、パート譜のコピーも自分でし、その上教会の合唱団のリハーサルと本番を指揮し、学校の優秀な生徒のレッスンを教え、そしてアルバイトで結婚式や街のイベントのために曲を書いたりもしているのである。人間業とは思えない。 バッハもヘンデルもそのオルガン奏法で有名だったが、(そうそう、バッハはオルガン製作のコンサルティングもやっていた)楽器自体の改良・発展がどんどん行われたのもこの頃である。オルガンの改良・発展はオランダと北ドイツを中心に行われた(1650-1750)。そしてヴィオリンを始めとする弦楽器作成の最高峰、アマッティ、ストラディヴァリ、そしてグアルネリがなぜかほぼ同時期、皆北イタリアはクレモナと言うところに出現したのが、1600年から1750年にかけてである。そして、良い楽器が出てくると、その楽器のためのジャンルが発展するのである。ドイツでは特にルター派のミサでのオルガン使用が奨励されていたため、その為のレパートリーがどんどん発展する。バッハのオルガンコラール、トッカータ、前奏曲とフーガ、などを思い浮かべていただこう。そしてヴァイオリンは、コレリのソナタ、ヴィヴァルディの協奏曲。 そろそろ終わりたいのだが、余りにもフランスを軽視しすぎた。フランスで一番大事なのは、Jean-Philip Rameau(1683-1764)であろう。他にもルリーやクーペランなど、偉大な作曲家は居るのだが、バロック以降への発展が余り無いので、ここでは割愛。しかし、ラモーについては一言だけ。この人は凄くユニークなキャリアの持ち主で、40代までほとんど無名だった。しかし、1722年に出版した「Treatise on Harmony(和声論)」と言う本で一躍有名になり、それ以降フランスを代表とする主に劇音楽の作曲家として活躍する。この和声論という本に説明されていることは、今の楽典のクラスで世界各地の音楽学生が勉強することとほぼ同じである。それまでの音楽理論はそれぞれの声部を一つずつ水平に追っていき、声部と声部の間の距離を協和音とするか、不協和音とするかを考える、と言う方法を取っていた。でも、ラモーはこれを縦割りで考える方法を提唱下のである。今のドミソの和音が始めて理論として提唱されたのである。コレリの時代からすでに実践されていたことではあったのだが、それでもきちんと命名と定義と説明ができる、と言うのはえらいことである。 バロック大要でした。思いがけず頑張って書いてしまいましたが、結構楽しかった。 明日から、古典派!

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夢でも勉強!

睡眠中は日中の学習の記憶を整理する大事な時間で、従って猛勉強中はできるだけ沢山の睡眠時間を取った方が効率が良い、と言う説を本でも読んだし、色々な人に聞いていて、努めて少なくとも7時間は毎日眠るようにしていた。ところが私は心配になるほど、安眠・熟睡なのである。そして予想に反して、日中の勉強に関係のある夢なんて、これっぽっちも見ない。大丈夫なんだろうか… そしたら、快挙!今、見たのです!(寝起きです) 昨日はルネッサンスが一段落して、お祝いと中休みで友達と夕飯と映画鑑賞で夜を丸々休んだのです。とても楽しいひと時だったのですが、そしたら真夜中の3時ごろに目が覚めてしまって(自分に課した模擬試験で落とした質問があったにも関わらず遊びに行った!起きてミスした問題の復習を今するべし!)と言う居てもたっても居られない気分で、ごそごそ起き上がり、復習して、寝なおしたのが朝5時半。そして見た夢が… 私はパーティーに呼ばれていて、大きな食卓でご飯を食べています。そしたら真向かいの人が、「1500年生まれの芸術家は盲目が多い」と言う話をしています。私は思わず「エ!?1500年生まれの作曲家にも盲目が多いんですよ!」とさえぎります。向こうは尋常ならぬ興味を持って「例えばどんな作曲家ですか?」と聞いてくれる。私は一生懸命「クレメンス・ノン・パパ(1515-55)とか、ニコラス・ゴンベルト(1495-60とか、クローディン・セルミシー(1490-1562)とか…」と時間をかけて考えながら答えます。 (長い脚注:ただし、これ等の作曲家が盲目であったと言うのは夢の中の作り話です。中世とルネッサンスの作曲家で盲目だったのは二人。ダンテのDivine Comedy(1307)がきっかけでイタリア語だって素敵な芸術が出来る(それまでのイタリア世俗音楽は主にフランス語!)と言うことになり、イタリア世俗曲(中世マドリガル、カッチア、そしてバラッタ)が流行した、『トレチェント』と言う時代があります。その代表の作曲家、フランチェスコ・ランディー二は絵描きの息子として生まれましたが、幼少の水疱瘡がきっかけで盲目となり、音楽家になりました。それから、スペインのオルガニスト・作曲家のアントニオ・デ・キャべゾン(1510-66)。彼は聖ローマ帝国の皇帝でも在ったチャールズ5世の妻のお抱えオルガニストとして生涯をすごしたので、当時はやりの出版で稼ぐと言うことをする必要は無かったのですが、死後息子が出版した作品集によってその作品が明らかに。ジョスカン・デ・プレズのモテットを鍵盤楽器用に編曲した「モテット」が彼特有なジャンルである他、当時流通し始めていたクラヴィサンや、ハープシコードのための『ティエントス(楽器演奏のための複声部の曲)』、変奏曲などがあります。更に、彼は歴史上初めて鍵盤楽器の演奏に親指を用いたことでも重要な人物です。―歴史上、盲目の作曲家が二人とも鍵盤楽器奏者なのは興味深い事実です。さらに、思い返してみれば、このキャべゾンは『1500年生まれの盲目の芸術家』に当てはまるでは在りませんか!? 恐るべし、潜在意識) 「え、その中の誰も知らない―どういう作曲家たちなんですか?」とのお尋ねに、「これ等の作曲家はルネッサンスの始まりから音楽界を牛耳った、Burgundy出身の作曲家で、5世代に分けられるんですが、有名どころではジョスカン・デ・プレズ(第3世代1450-1521)とか、デュファイ(第1世代1400-74)とか、オルランド・ディ・ラッソス(第5世代1532-94)位で…」と私が考え、考え答えると「え、そのBurgundy と言うのは一体どこですか?」「エエえっと…フランスの北からずっと北の方のホーランドとか、…スイス?」 (長い脚注:スイスは夢の中で苦し紛れに言ってしまいましたが、うそです!Burgundyと言うのは今ではフランス中心部のディジョンとか、ブルゴーニュのあたりになるようですが、戦争とか色々な複雑な歴史のために、1400年代ではフランス北部、オランダ、ベルギーなどでした。Burgundy出身の作曲家と言うと、1532年生まれのラッソスまで含みますが、実は「Burgundy」と言う地域は1477年になくなっていて、それ以降の作曲家は正式にはFranco-Flemishなのです) 起きて、色々事実確認をしながら、このブログを書き、やっと少し安心しました。今からBurgundian の作曲家5世代の復習をして、さらにモテットと言うジャンルの復習など、ルネッサンスの総まとめをして、お昼ごろから17世紀、いよいよバロック初期に突入です。

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中世までの勉強、一段落!

今、こちらヒューストンは8月9日、金曜日の早朝6時過ぎ。 起きて、洗面を済ませたところです。 勉強は順調。 昨日、予定通り中世に一段落をつけました。 中世の勉強を始めた8月5日は、まだ時差が取れておらず、 勉強の焦燥感もあって朝(と言うより夜中)の2時や3時に目が覚めて、 そのまま飛び起きて勉強を始めていました。 その代わり、夕方は6時を過ぎると、目が閉じてきてしまう。 「眠い」、「疲れた」と言った自覚はほとんど無いのですが、 教科書を読んでいるつもりで、気がつくと目がいつの間にか閉じて、眠っている。 いけないのは、その睡眠状態のうちに 新しい史実をまるで読んだかのように夢見てしまうのです。 例えば、バルトークについて読んでいて、 ハッと気がつくといつの間にか眠っていた。 最後に読んでいたのはバルトークのお姉さんの事。。。 と、思いながら読み返すと、バルトークの姉のことなんて一言もどこにも書いていない。 もう一つ困ったのは食事です。 何しろ時間感覚が全く狂っていて、 勉強中、小腹が空くたびに好きなものを取りあえずつまんでいたら、 自分が食べ過ぎているのか、食べたりていないのか、全く分からなくなってしまった。 だって、時差ぼけの上にぶっ続けで勉強していたから 「一日」と言う区分の感覚さえ、無くなってしまったのです。 と、言うことで一日の食事の配給を書き出してみることにしました。 起きてから、眠るまでに、食べていい食品の数々です。 朝、これをバーッとやって置いて、一つ食べるたびに消していきます。 これは良いアイディアだった。 ついでに運動も同じようにすることにしました。 さて、折角ですから勉強したことの大体をここに復習も兼ねて、まとめて見ましょう。 まず、西洋音楽以前。 石器時代、現存する最古の楽器は36,800BCのもの―凄くないですか!?そして、6、000BC頃の壁画から猟やダンスと共に楽器演奏が行われている記録が見られます。 青銅時代(4,000BC)になると、青銅を利用した楽器(ベル、シンバル、ホルン)などが加わります。弦をはじいて演奏する楽器が始めて見られるのも、この頃です。 メソポタミア文明(4,000BC-2,000BC)では、最古の作曲家の記録が…しかも女性!Enheduannaと言う讃美歌を書いた女司祭です。メソポタミア文明は文字を使った始めての文明でその書物の中には音楽理論も、見られます(1,800BC)。この頃のスケールは今の私たちのスケールと同じ。さらに、即興や演奏についても書かれています。1,400BCには現存する最古の楽譜も残っていますが、読解されていないようです。 古代ギリシャ文明(800-146BC)は、その音楽に関する言及で後世の西洋音楽に多大な影響を及ぼしました。音楽はその調和が宇宙や肉体、さらには精神の調和を反映する物だとされていて、だから逆に音楽の調和を用いて、肉体や精神の調和をコントロールも出来ると考えられ、非常に大事な社会的、教育的要素だったのです。プラトンの『共和国』や、アリストテレスの『政治』これ等の概念、そして哲学について言及しています。さらに、音楽が具体的どのように調和するのか、研究するのが音楽理論。 ギリシャ文明の数学者や、天文学者が沢山の書物を残しました。有名なのはピサゴラスの研究と、発見。彼は、弦を弾いて研究し、協和音というのは、弦の長さがきれいに分化されたときに起こる、と証明しました。オクターブは2:1、5度は3:2、4度は4:3、など。 西洋音楽に置ける中世は教会音楽の確立と、その記譜法の発展と確立で始まります。教会(ローマ法王)と、政治(カール大帝-即位800AC、フランク王国)の権威がで合同でローマ・カトリック教会の聖歌・祭典を全て統一しようと試みようとしました。これには、その音楽を聴いたことが無い人が、楽譜を見れば再現できるほど明確な記譜法が必要でした。 1. まず、フランス語のアクセント・サインのような物で、言葉の上にごちゃごちゃと斜め上向きや、下向きや、そう言う印(Neumes)が出てきます。(850年ごろ) 2. 次にこれを色々な高さに置くことによって、どれだけ高いのか、低いのか、表示。 3. そこに横線を引っ張って、この高さ、低さをより鮮明にしようとします。 4. さらに線の横に音の名前を書いたり(ト音記号、ヘ音記号の先祖)、線を色分けすることによって、どの線がどの音を示しているのか、表現します。 5. 最後にリズム。リズムは元々は歌詞に頼っていたので必要なかったのですが、単旋律だけではなく、複数の旋律が同時に歌われるようになってきて、声部と声部が上手く一緒に歌えるようにするために必要に駆られて発明されました。音符の形を変えることで、リズムを表す方法が確立されたのは1320年頃。さらに拍子の概念が確立されたのは、1340年。ここで初めて複雑なリズム(シンコペーション)などが可能になりました。 記譜法の発展と共に、それまでにはっきりと確立済みだった教会音楽に、色々な装飾が施されるようになります(Trope,Sequence,Liturgical Drama,9世紀頃~)。そして、その装飾に新しい歌詞が乗せられ元々の歌詞の解釈が歌われたり…そしてその装飾の延長線上として、複旋律の音楽(Organum, Clausala, Motet、10世紀ごろ~)が発祥・発展しました。記譜法によって可能になったから音楽がより発展するのか、音楽に要求されて、記譜法が発展するのか… ここで面白いのは、リズム記法の発展に、教会の権威の衰退が見れることです。三位一体(Trinity-父と子と精霊)の概念をとても大事にする教会では、3と言う番号は非常に大事。と言うことで、3拍子と言うのがカトリック教会音楽の基本で、リズム記法も最初は3拍子しか念頭に無かった。2拍子とか、4拍子とか、書きたくても書けないのです。でも、人間には足が2本あって、歩く時はいつも2拍子ですから、2拍子の方がずっと自然なんですよね。その2拍子の記法が提唱されたのが、1320年。この頃ローマ法王は実はローマに居なかったんです。1305年にフランス王フィリップ4世が「フランス人がローマ法王になれば、自分の政治に実に都合が良い」と言って、強引にフランス人(Clement5世)をローマ法王にしてしまいます。ところがローマは外国人が大嫌い。と言うことで、Clement5世は「行きたくない!」とだだをこね、Avignon(フランスの南東)に隠れてしまいます。そのまま、ローマに法王不在がなんと1377年まで続くのです。1378年からは方々から「我こそはローマ法王」と名乗り上げる者が続出し、一番多い時で3人の「ローマ法王」が居た時もあったんですよ!一番の皮肉は、この逃げたローマ法王の隠れ家のAvignonで、一番多く、宗教と関係の無い、新しい記譜法とそれによって初めて可能になったリズムのバライエティーを多いに駆使した実験的な音楽が「ローマ法王」のスポンサーによって行われていたことです。 そして、ちょうどこの頃から、複旋律の世俗音楽が重要な発展を遂げてきている、と言うのも面白いタイミングです。フランス、Notre Dame楽派(マショーが有名ですよね)のArs Nova(『新芸術』1300年から1400年)音楽に置ける複旋律のBallade、Rondeau, Virelai と言ったダンスから発祥した歌のジャンル。さらに、元は教会音楽だったのですが、世俗化して複旋律のテクニックの発展に大きく貢献したモテット。イタリアでもトレチェントと言う、複旋律の世俗音楽(マドリガル、カッチア、バラータ)が栄えました。 教会の衰退は教会の責任だけではなかった。例えばペストの流行(1347-50)でヨーロッパの人口が2/3になってしまったのはこの頃ですし、さらに100年戦争(1337-1453)や、人口の1/10が死んだ飢饉(1315-22)。エリートは観念的に神や権威者の正当性を疑問視し、小市民が刹那的になって、どちらも自分の感覚の快楽に走るのはしょうがなかったのかも知れません。 口伝に頼っていた音楽が、記譜法の発展によってより簡単に習得でき、さらにずっと観念的に発展出来る音楽となり、西洋音楽を世界の他の音楽から確立したのは、副作用です。でも、そのお陰で西洋音楽はこんなに早い、物凄い発展を遂げ、勉強するような歴史が出来たわけです。 あ、中世音楽で一つ言及し忘れた重要な部分は、トルバドゥール(南西フランス)と、トルヴェール(北フランス)です。単旋律のラテン語では無く自国の言葉の世俗音楽は、彼等によって12世紀に始まりました。これをきっかけにドイツやイギリスでも、自国の言葉の世俗音楽が発展を始めます。

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試験勉強の作戦!―先輩Lのアドヴァイス

今、一年先輩のLの家から帰ってきたところ。 勿論、一年先輩と言うことは、 今私が準備中の博士課程総合試験を去年受けた、と言うことである。 このLと言う先輩は私がひそかに(こいつは要領が良い!)と見込んでいる人で、 この人の試験勉強経験はきっと私の役に立つ、と言う信念の元、日曜の朝、お邪魔。 そして、行って良かった! 復習のためにここに書き出します。 まず、絶対に作戦は要る、と言うこと。 ① まず、最後の2週間を復習に残し、 どの時代にどれだけ時間を費やすか、大体の計画を立てる。 私の場合、試験は9月の23日。 ちょうど7週間ある。復習までは5週間。 最初の週の半分 (8月5日から8日)―中世。 (ここは音楽史の初期で、特に最初の方は出典の分からない曲が多く、後世への影響も少ない。試験する側が尋ねられる質問にも限りがある。記譜法の発展、中世モテット、トレチェント(イタリア1300年代の特に世俗的音楽の新しい動き)、Ars Nova(フランスの1300年代の特にポリフォニー、特にマショー)に絞り、あとは割愛。 次の一週間半(8月9日から18日)―ルネッサンス  次の5日間(8月19日から23日)-バロック 次の5日間(8月24日から28日)― 古典 次の5日間(8月29日から9月2日)-ロマン派 次の5日間 (9月3日から9月7日)―20世紀と近代 最後一日 (9月8日)書誌学の復習。「ある作曲家について記事を書かねばならないが、グーグルでヒットしない。リサーチの方法を述べよ」「1890年に書かれた記事についてその背景情報を調べたい。リサーチ方法を述べよ」など、書誌学に関する質問が最後に出る。これで落第すると、その他の質問が満点だったとしても、歴史のテストを合格できない。簡単な復習でOKだが、RIPM, RILM, RISM, RILM, Worldcat, Jstor, Grove Music on-line, などの正確な名前、カヴァーされている年代と、文献のタイプ(例えばRIPM=Retrospective Index of Musical Periodicalは1800年から1950年の定期発行出版物で出版された文献のみを扱う、など)の、事実確認が必要。 ここまででやることは以下。 ― この時代に関する専門書を小説を読むように読み流す。 ― 次に一般音楽史の教科書で、上の文献のまとめを読む。 ― 一般音楽史を読みながら、ノートをとるのだが、この時筆記のノートと共に大事な語彙や概念の簡潔にまとめたノートを読んで音声録音をし、この録音を移動中や、食事中などに聞く。 ② 最後の二週間を切ったら、今度は教科書は全部排除し、自分の取ったノートとまとめ本(グラウト編集の音楽史の本の教師用マニュアルは、箇条書きでこれにぴったりだそう)だけに集中し、兎に角暗記。さらに、ここで25日が試験日の音楽理論の勉強を始める。音楽理論の概念の多くは音楽史を勉強している時に必然的に出てくる。これを小まめにその時にちゃんと理解しておけば、音楽理論の勉強はここまで待って、大丈夫。 ③ 勉強中の注意。 - 焦らない。焦って先走りして、きちんと理解・記憶をせずに次の史実に行っても、後で戻って復習する羽目になり、効率が良くないし、大きな歴史の方向性ばかりに頭が行って、かえって圧倒される。 ― 集中するために、耳からも目からも入って来る情報を極度に制限する。勉強する時は必ず耳栓。視界内に勉強道具以外のものが目に入らないように工夫。 ― 三時間、三時間、三時間など、時間を区切って勉強。一日中勉強していると効率がかえって悪い。練習は毎日一、二時間続ける。でも、この練習ははかどらないもの、と決める。練習中に脳みそが勉強していることをプロセスしていて、練習自体は物にならないそう。 ― 不眠は覚悟。きちんと睡眠時間を確保しても、横たわると脳みそが復習モードに入り、中々寝付けないそう。何度も起き上がり、ノートを確認する羽目になるそうだ。 ④ 試験当日。 - 耳栓、ガム(砂糖入り)、水。 - 落ちても(この私が要領が良いと評価する先輩Lは、実は試験の直前・直後に沢山の演奏会を抱えていて、一回目は準備の途中で決意して勉強をギブアップ。落第している)自分の価値は全く変わらないと言う事実を胸に、おおらかな気持ちで試験を受ける。 - 最初に試験全てに目を通し、大体の時間配分を決める。簡単で絶対に得点が取れる質問から着実に答えて行く。

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