現代曲考察、ベルグのソナタ

タングルウッド音楽祭参加中からずっとその是非について考え続けた現代曲。 段々ある一つの見解が自分の中で固まってきている気がする。 それは必然性の問題である。 私の独断と偏見に満ちた見解を恐れ多くもここにまとめさせていただければ、 音楽に限らず、全ての芸術作品の価値と言うのは必然性のレヴェルと比例するのではないかと思う。 その時代と、そこまでの歴史の流れを、どれだけ反映し、どれだけ必然性を持って生まれてきたか。 勿論、その芸術家の個人的な歴史の中で、個人的にその作成が必然だったと言うこともあると思うが、 その個人的必然性が一般化できなければ、その作品は偉大とは言えないと思う。 それぞれの作品の歴史上での必然性と言うのは別に、 その曲の中でそれぞれの音、和音、リズムの曲の中における必然性という物もある。 その必然性の密度が高ければ高いほど、楽譜に記録する価値が出てくる、と思う。 楽譜と言うものは、世界中の音楽の中でも特に西洋音楽にユニークな記録・伝達方法だ。 私は民俗音楽に疎いので間違っているかも知れないが、 ここまで作曲家の指示・意図が微細に記録できるのは西洋音楽の楽譜だけだと思うし、 だから西洋音楽は他の音楽に比べて大きく、素早く、歴史と共に(超えて?)発展することができた。 その発祥自体が西洋音楽の性格と、長点、そして限界を元から含んでいると思う。 カトリック教会において、神を讃える方法としてのチャント(俗にグレゴリアン・チャント、6世紀?)を それぞれの地域のローカル性、世俗性を含まない、完全に統一されたものとしてコントロールしよう、 と言う考えから発達された方法なのである。 ここでちょっと話を飛躍させて、私がいつも考えている「記録する」と言う行為について書きたい。 言語には(私が理解する限り)2種類あって、それは文字を持った言語とそうでない言語である。 例えば、日本語はもともとは文字をもたなかった言語だ。 アメリカン・インディアンの言葉もそうである。 文字を持った言語がより「優秀」な言語かと言うとそうでは無くて、態度の問題だと思う。 言葉で捉え得るものを記録する価値があるものとするか、否か。 記録する価値がある、とした文化は記録したものの上に考えや見解を積み重ねていけるから、 文化的発展や、自信・信念を確固と持つことはより可能になる。 でも、記録しないことによって、瞬間瞬間の感覚をより新鮮に、直接受け止める能力、と言うのもある。 先入観、と言うものができにくいからだと思う。 記録しないものを発展させるのは、自然とより長い時間がかかるが、 でも、意思の力が介入しにくい分、より自然、あるいは「本当」の発展ができる、と言うこともあると思う。 楽譜に記録する必要性の高い音楽、と言うのは実は少ないと思う。 例えば、古典派の音楽では「革新」的であると言うのは必ずしも望ましいことではなかったので、 音楽家どおしの「常識」と言うのは幅広く、作曲家がヒントの様な事を書けば 後は演奏家と「ツーカー」で分かりあうところが多く、だから強弱記号など、省いても良かった。 それが、歴史が進むにつれて作曲と演奏と言う行為がどんどん分業化されて、 しかも音楽が「革新的」「独創的」であることがどんどん良しとされ、 今まで誰も思いつかなかったことを作曲家が血眼で捜すようになり、 楽譜の記法がどんどん複雑になり、現代音楽がどんどん一般から遠いところで存在するようになった。 ミルトン・バビット(Milton Babbit, 1916年生まれ)が1958年に書いた 「Who Cares If They Listen?(聴いてくれなくても、気にしない)」と言う有名なエッセーがある。 前衛的作曲家のバビット氏が 「最先端の科学は私たちの日常生活と何の関係もないけれど、その意義を社会的に認められ、大学にその居場所を確保されている。前衛音楽も同じように、一般聴衆とは全く別のところで大学に居場所を保障されるべきである」 と論じるエッセーだ。 これが、今までの芸術の歴史の流れと、今の世の中を反映した、芸術観? それではあまりに悲しすぎる。 私は一人の聴衆、演奏家、そして人間として、それに甘んじることはできない。 今度の11月に私が弾くベルぐはショーンベルグの弟子で、後に無調性、12音階の作曲家となるが 私が今回弾くピアノソナタはその作品1、ちょうど100年前の作品だ。 […]

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