October 2014

論文を書いてます。中間報告…

う~ん。 論文を書くと言うのは、なかなか苦しい。 リサーチはどんどん面白くなっているのです。 一般的に暗譜での演奏を始めたのは クララ・シューマン(1819-96)とリスト (1811-86)と言う事になっていますが、 実は1800年くらいを境目に、ピアニストはどんどん暗譜で演奏していたらしい。 それに、モーツァルトなんかも楽譜に起こす時間が無くて、 スケッチのような物をチョコチョコット書いた五線譜から演奏したりもしたそうです。 しかも、クララは11歳でのデビュー以来ずっと暗譜で弾いていたにも関わらず なぜか1837年にベルリンでベートーヴェンの「熱情」のソナタを暗譜で演奏した、という史実が 良く暗譜での演奏の最初の例として引き合いに出されるのです。 なぜか。 一つにはベートーヴェンがいかに偉大な歴史的象徴だったか、と言うことがあります。 ベートーヴェンは音楽を 娯楽や宗教音楽、貴族のBGMと言った社会的役割を果たす物から 「自己」を表現する芸術へ、と押し上げ、 必ずしもいつも心地よくなくとも、啓蒙主義的な主張のある音楽を書いた作曲家とされています。 彼が難聴(そして最終的には全く聞こえなくなるのですが)を克服して書き続けたと言う事実も 彼を啓蒙主義の神様のような存在に押し上げたのでしょう。 その彼の、時には苦しい、難解な音楽を暗譜で弾く! これが大事みたいです。 ツェルニーとか、メンデルスゾーンとかモシュレスとか、 クララとかリストよりずっと前に暗譜で演奏していた人も皆 「ベートーヴェンのソナタ全曲」とか「ベートーヴェンの交響曲を楽譜なしでピアノで」とか 兎に角最初の暗譜の記録はいつも「ベートーヴェン」なのです。 もう一つにはクララが女性であった、と言う事実。 モーツァルトの時代には作曲家が自作自演をする、と言うのが普通でした。 ところがクララの時代になると、作曲しないピアニスト、演奏しない作曲家と言うのが出てきます。 そして、作曲しないピアニストは同時代の作曲家だけでなく、 すでに過去の偉大な作曲家の作品を演奏し始めるのです。 こう言うピアニストの多くは女性でした。 なぜか。 女性には「創造力」が無い、と思われていたからです。 例えばこのちょっと前の時代までは楽譜があっても 記譜されている音に装飾音を付けたり、簡単なパッセージを挿入したり、 時にはセクションをリピートして変奏曲にしたり、そう言うことが当たり前でした。 ところが作曲家が偶像化され、 すでに亡き偉大な作曲家の歴史的な曲が崇拝されるにつれて 演奏者が楽譜に手を加えるのは恐れ多い、と言う風になってきます。 この時に作曲家は「主」の立場なのに対して演奏者の配置は「従」の立場。 そしてCreateは男にしか出来なくても、Re-createは女にも出来るんです。 面白い… しかし、今はかいつまんで書きましたが、これには実に複雑な歴史背景があり、 このすべてをどうやってまとめたら良いのか。 書いては消し、書いては消し、 そしてリサーチを続け,ますます議題が複雑に成り… ウオおおおおおおおおおおおお~~~~~~~~~~~~~!!!! これは大変です。 本当に大変です。 マキコ、チャレンジ!

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私にとって大事な物、その3「青春」

アメリカは飲酒年齢(21歳)に関して、日本よりずっと厳しい。 特に週末の夜とか週日でもある一定の時間以降の、 主にお酒をサーヴするお店への入店は、 年齢を明記した身分証名が無いと入店拒否される場合がある。 先日の金曜日、修士をやっている後輩とご飯を食べた後、 深夜近くに他の友達と合流する、と言う彼女に誘われて 「じゃあちょっとだけ顔を出そうかな」、とのこのこ付いて行った。 飲むつもりは無かったし、本当に10分とか20分とか一緒にすわるつもりで、 荷物はすべて車の中に置いていった。 そしたら身分証明が無くて、入店拒否されてしまったのである! 「…私、白髪があるんですけど…」 と言っても「褒められていると思ってください。とても若く見えるので。」と言われてしまい、 にこやかに、しかし頑として、このアラフォーの私を入れてくれない。 まあ、夜更かしは論文執筆にたたるので「縁が無かったんですね」と帰ってきたが、 ちょっと淋しいような、でも嬉しいような、複雑な気分だった。 この年で学校に属して音楽を勉強している人間は少ない。 自分より若い人に常に囲まれ、同年齢扱いされていると 多分身振り手振り、そして態度が若くなるんだと思う。 そして私は多分ちょっと童顔なのだ。 アジア人は若く見えるというし、 いまだに「学部生?」と、いかにも私より年下の人間に聞かれたりする。 子供の時は私は異常に背が高かった。 小六で165センチあり、 「オリンピックのバスケットボール養成チームがあなたを見に来るかも知れないから」、 と先生に言われたことがある。 実際には運動神経は皆無に近かったし、養成チームは結局来なかったのだが。 小学校3年生くらいから駅の駅員さんに (その頃は切符にパチパチ「使用済み」パンチを入れる駅員さんが居た) 「お客さ~ん、これ子供の切符ですよ~」と なぜかいつも胸の辺りをじろじろ見られながら言われたし、 小学校4年生の時には一度ラーメン屋さんで店員さんに 「OLさんですか~」と聞かれた。 私は一生、年齢不詳人間なのかも。 ”Youth”と言う詩がある。「青春」と言う日本語訳も有名だ。 青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。 人は信念と共に若く 人は自信と共に若く 希望ある限り若く     疑惑と共に老ゆる 恐怖と共に老ゆる 失望と共に老い朽ちる 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。 Youth is not a time of life – it is a state

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私の人生で大事な物、その2.「自由」

昨日は夕刻から就寝まで、かなり集中して博士論文にかかり切った。 結構満足な仕事が出来た。 NYの旅の疲れと時差(一時間だけですけど)もあったのか、 仕事のペースダウンが著しくなってきた9時半に潔く就寝。 こういう風に自分の調子の良いときに仕事に専念できて、 疲れてきたらすぐ眠れる自由って幸せ 今朝は5時45分に目覚め、即仕事開始。 まず12月に予定されているクリスマスコンサート。 私がリーダーなので、奏者のプロフィールや曲目などをまとめて送信。約一時間の作業。 我ながら、強力なつわものを共演者にそろえることができて、今から楽しみ。 楽しみにできる演奏の機会があって幸せ 朝ごはんはいつもと一緒: 黒ゴマ黄な粉と麻の実をそれぞれ大匙山盛り一杯。 麻の実は菜食主義の私のために、 菜食の先輩が高たんぱく食品を色々紹介してくれた時に知った、 非常にオツな一品。 ちょっと高値だけれど、プチプチの食感がお気に入り。 これにプルーン3個とバナナ半本と豆乳を加えて、 いただきま~す ちょっと高値でも、かなり珍しくても、 気に入っている健康・自然食品を買い求められるって幸せ。 毎朝日課で、朝ごはんを頂きながら、中国茶を頂き、 同時に食器乾燥機を片付け、お弁当の用意をする。 今日のお弁当はマイクロウェーブで蒸した紫芋のぶつ切りと、 洗ったシュガーピー(さやごと食べられる青エンドウ)とパプリカ。 そしてオレンジ丸ごと2個。 美味しい生野菜や果物を種類豊富に食べられるって幸せ 朝ごはんのあとは コミュニティーカレッジで担当している 音楽非専攻の学部生のための音楽理論入門、 Music Fundamentalsのクラスの中間の採点。 このクラスには兄妹がいる。 始めは二卵性双生児かと思った。凄く仲が良いし。似た雰囲気だし。 でも、実はお兄さんの方が2歳上で、なのに妹の方が少なくとも音楽に於いては器用。 (これはお兄ちゃんは苦しいなあ)と思い、チャンスを見ては手放しで褒めるようにしていた。 そしたら今回の中間ではおにいちゃんがクラスでトップ! 採点し終わって(でかした!)と踊りだしたいような気分だった。 見るからに頑張って、良い点を確保した生徒がいるかと思いきや、 もうどう工夫しても落第点にしかならない答案用紙もある。 提出してくるたびにヒントを出し続け、何とか及第させたかったのだが どう逆立ちしても、無理。 落第した生徒は、クラシックの『ク』の字にも今まで触れてこなかったような生徒たち。 同じような状況でも、ちゃんと勉強してまあまあの点を取っている生徒もいるのだが、 中間で落第した生徒だって、クラスで放棄していた態度かと言えばそんな事は全く無い。 特に必修の課目の話しからずれて、一般的な音楽の話しとかすると かぶりつくように聞いている。 私に「YouTubeで見つけたこの曲、凄いからMakiko聞くべき!」と大騒ぎをして その曲がクラシックともショパンとも知らずに私に幻想即興曲を聞かせたりする。 私は教えることがやっぱり好きだ。 教える場があって幸せ。 今学期、このクラスを教えられて、本当に良かった。 しかし、来学期、そして来学年度と、教え続けるべきだろうか? 学校からは、光栄なことに教え続けることを乞われている。 しかし、給料は本当に安い。

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私の人生で大事なもの。

友達の占い師さんがフェースブックにポストした長~い逸話です。 フェースブックで話題の逸話なんだそうです。 今日のブログのイントロに使わせていただきます。 『ある大学教授が哲学科の教室で生徒達の前に立っていました。いくつかの品物を前に置いて。 授業の初めに教授は無言で、大きな空っぽのマヨネーズの瓶を取り上げ その中にゴルフボールを入れ始めました。 瓶が一杯になった時、教授は学生達に、この瓶は一杯だと思うかと尋ねました。 学生たちは、そう思うと答えました。 次に教授は小石の入った箱を取り出して、 小石を瓶に移し、瓶を軽くゆすりました。 小石はゴルフボールとゴルフボールの隙間にはいりこみました。 そこでまた教授は学生達に、「瓶は一杯か?」とたずね、学生たちは、「そうです。」と答えました。 続いて教授は砂の入った箱を取り出し、砂を瓶の中に入れました。 当然、砂は瓶の中の残っている隙間にはいりこみました。 教授はまた、「瓶は一杯か?」と尋ねました。 学生たちは異口同音に、「はい。」と答えました。 さらに、教授はコーヒーの入ったカップを二つ持ち出して、マヨネーズの瓶にそれを注ぎ込みました。 コーヒーは、砂の中に浸み込んで行きました。 学生たちは笑い出しました。 「さて、」笑いが収まるのを待って教授は話し始めました。 「この瓶を人生だと思ってごらん? ゴルフボールが表わしているのは、大切なものだ。 家族とか、子供たち; 健康; 友達; 夢中になれるもの―― もし仮に、他のものが全部なくなっても、これさえあれば良いと言えるものだ。 小石はその外の比較的大事なもの、仕事とか、家、車などのようなものだ。 砂は、その他のいろんな物事―どうでもいいものだ。 もし、最初に砂をこの瓶にいれてしまったら、小石やゴルフボールの入る余地は無くなってしまう。 人生も同じことだ。 もし、どうでも良いような事に時間や労力をつぎ込めば 大事な物事の入る場所はなくなってしまう。 だから・・・ 君たちは、自分にとって掛替えのないものに注意をしなさい。 子供たちと遊び 健康診断のために時間を作り 奥さんを連れて食事に出かけなさい。 家の掃除や、ゴミの始末は後で出来るさ。 先ず第一に、ゴルフボールをいれること つまり、本当に大事なものを先にするのさ。 それさえちゃんとしておけば、後の物事は砂みたいに何所にでもはいるのさ。 一人の学生が手をあげて、コーヒーは何を表わしているのかと、尋ねました 教授は「良い質問だ」と、笑顔で答えました。 どんなに忙しくても 友達と一緒にコーヒーの一杯や二杯飲む時間ぐらい、その気になれば見つかると云う事さ。 ゴルフボールを先に入れる。 これがなかなかできません。 砂ばかり入れているような気がします。 これからコーヒーでも飲みますか?』 私は今、人生分岐点にあって、この話しのようなことを随分と考えています。 私にとってのゴルフボールはなんだろう。 博士課程終了間近の私を思って、色々な方が色々なお話しを持って来て下さいます。 大小様々な演奏の機会からから継続的な教えの仕事まで、色々在ります。 その度に悩んでしまうのは、自分の指針、つまりゴルフボールがはっきりしていないから。

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ニューヨーク対ヒューストン

実は今、NY. 10年以上の旧友が沢山。 街のいたるところに思い出が沢山。 NYとヒューストンは飛行機で三時間。 安いティケットで乗り換えが在ってもまあ5,6時間。 パーティーに行くと、ずっと昔沢山共演した友達に 「え~、NYはしょっちゅう来るの?来月コンサートがあるんだけど、一緒に弾かない!?」 とか、すごく、凄く嬉しいことを言ってもらえたりする。 対してヒューストンは5年目。 新しくてわくわくする友情が沢山芽生え始めている。 そしてNYやLAの平均家賃の半分以下で10倍のスペース、 プラス固有のトイレと風呂、そして洗濯機付きのヴェランダが借りられる。 ヒューストンの経済はアメリカ全土の経済からは独立して、石油で非常に潤っている。 芸術に対する関心お金も沢山。 南部の劣等感もあるのか、特に西洋音楽に対する関心は意外に高いように思える。 生徒を公募していなくても、 ライス大学で博士課程を始めた最初の年から教えて欲しいと個人レッスンの問い合わせがあった。 NYはアメリカ大陸ではヨーロッパ側だから、ヨーロッパ文化に近いし、そう言う誇りもある。 クラシック音楽のマネージメントの約90パーセントがNYにあるそうだ。 そのせいもあるのだろうか? 若手の多くがNYに集中している。 そこに居ないと、遅れをとるかのような錯覚を覚える。 しかし。 あまりの競争率の激しさに、ちょっとしたアルバイトでもゲットするのが大変だったり。 何か興行の企画を立ち上げても、演奏会も文化企画もありすぎて、 地域へのインパクトが少なく、自己満足で、赤字で終わる場合が多い。 でも、だから良い物が際立ってくるし、 そこで生き延びることを目標に皆がしのぎを削って頑張る。 対してヒューストンは文化都市としてはまだ若く、知名度も少なく、 従ってそう言う芸術家や文化イベントの密集率が低い。 何かをやれば有難がってもらえる割合が高いし、 直コミュニティー還元に繋がる。 資金集めもNYやLAのような、ちょっと文化食傷気味の都市よりもし易いし、 インパクトも与えやすい。 しかも、ヒューストン・シンフォニー、ヒューストン・バレー、ヒューストン・グランド・オペラを始め、 美術館、博物館、現代音楽シリーズ、など、刺激は求めれば必ずある。 競争率が低い分、プレッシャーでコチコチになること無く、自由に自己表現ができる。 どっちも大変魅力的。 私はまだどちらかと言うとNYびいきなのだが、 それはただ単にNYの方が年数が長く、従って十年来の友達が多く、 しかも今現在住んでいないから美化している、と言う事もあるかも知れない。 ヒューストンはまだ5年目。 呼んでもらえる時はちょっと無理してもNYに行って、 今あるコネや機会を大切に育て続け、 ヒューストンで新しい根っこを育て続ける。 取りあえず、そう言う感じ、ですか?

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