2016

書評:アンチ・ヴィルチュオーゾ闘争

明日の締め切りに向けて書き始める前に最後に読んだ記事。 Dana Gooley著 ”The Battle Aginst Instrumental Virtuosity” in Franz Liszt and His World, ed. by Gibbs and Gooley, Princeton University Press, 2006   ま、またまた新しくて非常に面白い見解をいくつも学んでしまった…   まず、人々がなぜ19世紀の初頭からヴィルチュオーゾにそこまで魅了されたのか。   社会学者Richard SennetteのThe Fall of Public Man(1974)を受け… 最初に18世紀から中産階級の人々は啓蒙主義を受け、「内面」と言う物に目覚める。 この「内面」のモデルを、人々は演劇の中の登場人物などに見出した。観客はこれらのモデルが「非現実的」と言う事は認識していたが、必ずしも「偽り」だとは思っていなかった。 19世紀初頭の都市化でプライヴァシーの問題が浮上した。 人々は自分たちの「本当の内面」を隠したい、でもそれに常に本当でありたいと言う気持ちと、社会的外面が偽りではないかと言う気持ちとの間の交渉に悩んだ。 1830年と40年に絶大な人気を誇ったヴィルチュオーゾは、強力な個性の誇示を持って「内面を公開」する方法、しても良いと言う勇気、そしてヴィルチュオーゾの個性に反応して観客として感情表現をする場所を提供してくれた。   次に歴史家Peter GayのThe Naked Heart(1995)に基づいた「内面」に関する観察と、それがなぜヴィルチュオーゾへの敵対心と言う結果になるのか。 19世紀半ばの中産階級は「内面」を熟考することを好んだ。 まず、「内面」と言う物を自分の中にあるスペースと言う風にイメージ化。そしてそこにロマン派の詩人や小説家の作品を自身の反映として詰め込んでいく。さらに、自分も手紙・日記・自伝・伝記と言ったものを執筆し、ひそかにそれを公開したいと思っている。 内面と外面の間の摩擦が起こる。 ヴィルチュオーゾが「偽りの空虚な内面」を見世物にしてもてはやされている、と思う。 この敵対心が一番強く表明されたのがドイツだった理由はドイツの中産階級が一番強く自分の内面性を音楽活動に見出していたからかも知れない。   さらにこの本は、ヴィルチュオーゾへの敵対心と言うのは、少なくともドイツに於いては1802年から発表されていたんですよ~、と言うとんでもない情報をくれる。(ふつう、ヴィルチュオーゾの全盛期は1820年代から48年の革命まで、とされ、ヴィルチュオーゾへの敵対心もヴィルチュオーゾの繁栄への反応、と言う風に理解される)。 ヴィルチュオーゾと言えばパガニーニ(1782-1840、ただし演奏旅行の全盛期は1820年以降、それまではイタリアからあまり出ていない)とリスト(1811-1886神童としてデビュー、1832年にパガニーニの演奏会を聴いて一念発起してパガニーニ級のヴィルチュオーゾを目指す)だ。両方とも1820年代から活動し、リストは47年で演奏旅行からは引退している。その結果、ヴィルチュオーゾの全盛期が1820年代から48年の革命で旅行が困難になるまで、とされるのだが…   でも放浪旅芸人と言うのは実はどの世にもいた。そして1802年にはこう言う人達はすでに「ヴィルチュオーゾ」だった。(このイタリア語はもともとは音楽に長ける人と言う意味でむしろ作曲家や音楽理論家に使われていた。)Farinelli (1705-1782),は歌手。 そしてご存知Mozart (1756-1791) […]

書評:アンチ・ヴィルチュオーゾ闘争 Read More »

書評:ヴィルチュオーゾを主題に

ヴィルチュオーゾを敵対視する、と言う19世紀の動きは19世紀の様々な側面を反映している。 1.ヴィルチュオーゾの流行 2.ヴィルチュオーゾの音楽体現性に真っ向から反対する精神性を重要視した「ばりばりクラシック」と言う考え方の浸透 3.②の背景にあった音楽の抽象性を神聖化する哲学の動き。   これをまとめたのが、この本。 Zarko Cvejic著、The Virtuoso as Subject: The Reception of Instrumental Virtuosity, c. 1815-c. 1850 Cambridge Scholars Publishing. (2016)   この本はヴィルチュオーゾと言う現象はあまりにも19世紀に敵対視され、事実上音楽史から抹殺されてしまった。でも、演奏様式や演奏者を検証すると言う立場から音楽史を見直すと言う最近の動向に賛同して、1815から1850年くらいまでのヴィルチュオーゾとその抑圧について検証する、と言う本である。   この本はフランスとドイツとイギリスの批評の引用が非常に多いし、それから最近の学術論文の引用も多い。それから考えをまとめてリストにする。と、言う意味では参考になった。しかし、内容は私が知らなかった事にはあまり言及せず、むしろ(そろそろ私もこの狭い分野の中では物知りになってきた。そろそろ書けるかな?)と勇気づけてくれた。

書評:ヴィルチュオーゾを主題に Read More »

ドイツ理想主義の音楽に関する言及のまとめ

私は哲学史は全くの素人です。 私は19世紀のピアノ演奏様式の中でなぜピアノ曲が暗譜で演奏されるようになったのか 博士論文で書こうとしているだけです。 でも、その中でどうしても哲学と美学の歴史に触れずには片手落ちになることを無視できず、しょうがないので付け焼刃で(えいや!)と音楽に関係があるところだけをつまみ読みしたものをまとめているだけです。 誤解にお気づきになられた方はメッセージでご指摘いただければ大変助かります。 更には、文献のご提案なども本当にありがたいです。   私が以下に書くものは次の文献に基づいています。 更に、論文を書いていく上で整理が必要になったらこのブログに戻って校正する予定です。 多分どんどん付け足していく事になると思います。   Zarko Cvejic著「The Virtuoso as Subject」Cambridge Scholar’s Publishing (2016)   Immanuel Kant (1724-1804)が人間の主観と、実際の世界の間にギャップがあると最初に提唱した。これはコペルニクスの地動説に次いで、思想史の中でも非常に革命的な事だった。カントに続く哲学者は、このギャップをどのように埋めるかと言う事を重大テーマとした。その中で抽象性を持つ芸術が「真実」を垣間見させる、あるいは「真実」に到達させる、と言う考え方が主流になってきた。   後世の哲学者とは違い、Kantは「演奏や演奏家を無視した音楽そのもの」と言う概念に至らなかったので、音楽の抽象性をそれほど高くは観ていなかった。(「自分は音楽をあまり知らない」と言っている。)しかし、美の条件を「無私でどんな概念からも独立している」とした上で、こう言う物に打ち込む時、人間の自由な理性と道徳性を通じて、総合意識のような物に到達できる、とした。   Johann Gottlieb Fichte (1762-1814)はカントを引き継ぐ。それ程美的意識を重要視したわけではないが、私の論文に於いて重要なのは私が絶対的な自由(主観と客観を超越した域)に到達できるのは道徳を通じてのみで、この道徳と言うのは個人が自由意志によって自己を抑圧する事である、と言う所が演奏者が作曲家のお筆さきとなるべく自分を消す、と言う態度に似ている。    Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831)はベートーヴェンと同じ年に生まれている。さらにA.B. Marxと言う私の論文に重要な音楽評論家と同時期にベルリン大学で教鞭を取っている。ヘーゲルの講義はエリートを気取る連中が鈴なりになって聞きに来たようで、音楽理論や作曲の教授だったMarxも講義に通った。カントに続き、芸術活動(能動的でなくてはいけない)は自分と世界を同時に知るために重要だと考えた。芸術は、個人の個性(=独立性)を反映できると考えた。しかし、ヘーゲルは芸術は感覚に訴え、個人を啓蒙へと導くきっかけのみだとした。美の感覚によって啓蒙に導かれた個人はこの後、精神性(ヘーゲルにとってそれはルーテル派)、そして哲学へと段階を経て、最終的に絶対的な真実へと到達する。   Friedrich Wilhelm Joseph Schelling (1775-1854)はピサゴラス・ボエティウスの「音楽=宇宙を体現する数式」を引き継ぎそのまま「音楽=形式」とした。ハンスリックはシェリングの圧倒的な支持者。シェリングは音楽を神を体現するものとした。   Arthur Schopenhauer (1788-1860)は無神論者でシェリングが「神」を据えるところに、「意思」を据えた。芸術のみが人々が客観的に時間を超えた真実を垣間見られる媒体だとした。そして音楽は「表象」の過程を超越し、「意思」その物を体現できる最高の媒体だとした。我々は究極的には主観から自由になる道は「死」のみだけれど、『美』に我を忘れる事によって瞬間的にこの自由を垣間見ることができる、とした。          これ等の哲学者に於いて、音楽とか芸術の抽象性の重要度と言うのは、それぞれの哲学者が個人と言う物をどれだけ自由と観ていたかに大体反比例している。   音楽の重要性:Kant <

ドイツ理想主義の音楽に関する言及のまとめ Read More »

タイマーは効果抜群!今日も頑張る!

昨日は20分タイマーで論文・練習と交互にやり、非常な効果を上げた。 20分と言うのは集中すると意外と長い。 そして「もうすぐ終わるから頑張る!」と言う気迫が効率を良くしてくれる。   今日は贅沢な事に丸一日練習と論文に充てられる。 朝5時に起きてすでに1時間半、文献を読んだ。 軽く外を散歩して、朝食を食べ、これから12時間、頑張る日にする。 今日は論文40分、練習10分の、約1時間サイクルで頑張る。   論文は今、Schumann’s Virtuosityと言う本を中途まで読み進んでいる。 これを読破して書評を書き、さらにThe Virtuoso as Subjectも読破するのが目標。   最近焼きタンポポ茶と言うのを毎朝何杯も飲んでいる。 まず鍋一杯の水にしょうがのスライスを入れて沸かし、そこに茶葉を入れて煮立てる。 「肝臓の能率を上げる」と言う能書きなのだが、なんだか飲むとお腹がすっきりする。 そしてカフェインとは全く違った感覚でお腹の中からモリモリと元気が湧いてくるのである。   さ、今日も頑張るぞ。音楽人生、万歳!

タイマーは効果抜群!今日も頑張る! Read More »

20分タイマーの巻:精神(論文)と実技(練習)のバランスの試みその①

来週の木曜日に論文最終章をある程度形にして見せる、と言う締め切りがある。   しかしムズムズするほど、練習もしたいし、 来年以降の演奏の企画に関するミーティングが今週はほぼ毎日ある。 その度に演目の案が協議され、掻き立てられる。 さらに英国のEU離脱に続き、今度の大統領選の結果は今年2度目の大ショック。 ニュースやFacebookの外部からの雑音も多いが、 これからの経済や移民法、医療を含める社会福祉問題など、 将来への不安も内部からの雑音となって湧き上がってくる。   ええい、やかましい!黙れ皆の者!心頭滅却火もまた涼し。   これからどうなるのかなんて、誰にも分らないし、今は何にも出来ない。 今はただ、自分の道に専念してこれから何が起きても対処できるように、 出来ることを鎮静に一生懸命やっておく、 片づけられることを大事な事から順番に片づけていくだけ。 私にとってそれは、論文と練習。   20分タイマーをかけ、練習と論文を交互にする。 その間はトイレも水飲みもメールもメディアもストレッチも深呼吸も無し。 タイマーが鳴ったら、10分何してもよし。 ブログ、トイレ、Facebook、メールチェック… でもまた10分タイマーが鳴ったらすぐに集中!   私が今やっているのは: ハンマークラヴィアの4楽章(フーガの変奏曲)、ゴールドベルグ変奏曲、エロイカ変奏曲。 全部変奏曲で細切れなのが、このスタイルの集中に利用できる。 論文ではまず今日は3章のまとめを仕上げ、Romantic Anatomiesを復習してノートを取り、 Schumann’s Virtuosityの論文への関連を見極め、全部読むべきか見極め、 そして3章を肉付け執筆していく。   私は頑張る! 音楽人生万歳!

20分タイマーの巻:精神(論文)と実技(練習)のバランスの試みその① Read More »