お金について

お金と言うのはつくづく不思議なものである。 お金が無くても感心するほど太っ腹の人もいるし, お金が沢山あるのに凄い検約家の人もいる。 私は、音楽家にしては金銭的にはまあ、文句を言えばバチが当たる部類だと思うけど、同時にいつも頭の中でゲームの様に、ロビンソン・クルーソ―の様に、生き延びるのに必要最低限の支出で、といつも考えて生きてきた。だから、普通の日本人より「高い」とか「安い」とか思う、金額のケタが一つ違うと思う。支出に関しては、そうやって最低限、最低限、と考えていれば良いだけだから、一貫していて簡単である。 ところが、収入に関しては、もうこれはどう考えていいか全く分からないのだ。こういう仕事だから、相場が非常に曖昧である。多くの仕事は、仕事の前に金額の打ち合わせは無く、終わってから頂いた金額を受け取るだけ。シューマンの妻で、幼少から天才児ピアニストとして騒がれ、19世紀を代表するピアニストとして歴史に名を残したクララ・シューマンでさえ、演奏会の後に花束だけを寄贈され、ギャラをもらえなかった時に憤慨して日記に「私が花を食べて生きていると思っているのでしょうか?」と書いている。その一方、そう憤慨して書いているにも関わらず、彼女が主催者に抗議や再交渉に行った形跡も無いのである。私の場合は、支出がそんなわけで少ないし、出演する演奏会も、大体経費と収入の予測のつく小規模なものが多いので、いただける金額は全て有難い。問題は、時々私にとってはけた違いに大きな金額が急に手に入る時である。 今週、私は学校が設定した金額によって、コルバーン入学希望者のオーディションの伴奏を引き受けた。かなりの数をこなしたし、まあ正直昨日は疲労困憊したけれど、譜読みも含めてキャンプから帰って来た先週の木曜日から一週間の仕事である。それだけで、私の貧乏生活ならば2か月は優に自活できる額を稼いでしまったのである。不思議なものである。伴奏はかなり一定した需要のある仕事だ。ただ、独奏と随分違った技術を要するし、私の音楽観に及ぼす影響を懸念して、私は生活の為に必要で無い時は最小限しかして来なかった。しかし、私はいつも自分のことを貧乏だと思っていたが、そしてそれは自分の選択によるものだ、と納得していたけれど、こんなに簡単だったとは。 しかしここで、(じゃあ)と思って定期的に伴奏をするようになると、どんどん自分の練習時間が無くなって行くのです。現に私は今週は自分のソロのプログラムをさらったのは正味2時間弱だったと思うし。

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