February 2010

先入観 vs. 予備知識

この前のブログで、ポップスのコンサートに行くファンと言うのはコンサートに行く前にすでに覚えるくらい演奏される曲を何回も聞いているらしい、と言う内容のことを書きました。クラシックの演奏会でも「耳馴染みのあるものを」と希望されることは良く在りますし、アンコールでドビュッシーの「月の光」や「革命のエチュード」など、有名な曲を弾くと、聴衆の皆さんがワッと盛り上がるのが分かる時があります。 でも、ここがクラシカル演奏家のジレンマなのですが、西洋クラシック歴史は実に300年以上あり、レパートリーは星の数より多く在ります。すでに知っている曲よりも、これから耳馴染みになってほしい曲を紹介したい!と言う意欲も、自分自身がまだ演奏されることの少ない曲に挑戦してみたい、と言う欲も在ります。それに300年の歴史の膨大なレパートリーの中で有名なのは数えるほどの曲のみ。普通に選曲すれば、有名な曲に当たる確率の方が低い、と言う事実も在ります。 そのギャップを埋めるべく私を始め多くの演奏家が最近試みているのが、演奏の合間に曲や、曲の背景を紹介するトークを入れる、と言うことです。プログラム・ノートの解説は理屈っぽくなる傾向があるのに比べ、トークでしたら聴衆の皆さんの反応によって臨機応変に内容を変えていくことが出来ますし、質問を受け付けたり、時にはお客様にコメントを付け加えていただいたりすることも出来ます。でもこれにも問題は在って、演奏者の解釈が聴衆に曲に対する先入観を与えてしまう危険性がある、と言うことです。私は出来るだけ事実に徹したトークをしようと心がけていますが、それでもアドリブのトークですので、どうしても私の好み、嗜好がにじみ出てしまいます。 先週、ロサンジェルス・タイムスと言う大手新聞の音楽評論家、マーク・スウェードと言う人の講義を聞く機会に恵まれましたが、彼によると、この頃増えてきた、演奏会で演奏者による曲の解説と言う流れに反発して、最近曲目を印刷したプログラムを配布することもせずに、何の情報も聴衆に与えないで曲を演奏する、と言うコンサートの試みが行われているそうです。先入観を全て取っ払って、音楽を音楽としてのみ、聞いていただきましょう、と言うことだそうです。これはとても面白い試みだと思いますが、でも聴衆がかなり積極的に曲に興味を持って想像力を働かせてくれないと、退屈してしまうかも知れません。演奏者の腕や気合いにもよると思いますが。 私はこういうことを試みてみたい。 2時間の独奏会の前半と後半を全く同じ曲を弾きます。 でも前半は、プログラム無し、トーク無し、先入観無し。 そして休憩中に曲の解説のトーク、さらに質問会をして、プログラムを配り、後半が前半と、同じ曲ながら得た知識によってどういう風に違って聞こえるか、体験してもらうのです。

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クラシック vs. ポップス

私はロックとか、ポップスとか、普通の若い人が喜んで行くようなコンサートに行ったことが無い。 しかし、最近「マライア・キャリーが好き」と言う人の話を聞く機会があった。この人はマライア・キャリーのコンサートに何回も言っており、今までの人生で一番幸せな思い出はそのコンサートでも特にクリスマスの特別企画のコンサートだそうだ。こういうコンサートには何千人、何万人と言う聴衆が動員される、と言う知識は私も持っている。一体この人たちは何を求めてこういう演奏会に多額の料金を払って行くのか?こういうイベントと、クラシックの演奏会トは何が違うのか? この人によると、こういうコンサートでは周りが熱狂して叫んだりしているので、音楽はほとんど聞こえないそうである。 でも、大抵の曲はもう何回も聞いて覚えているので、かすかに聞こえる最初のイントロであとは自分の頭の中で勝手に鳴ってくれるので、別に聞こえなくても支障無いそうだ。新曲とか、たまたま自分が知らない曲は、後で買って聞くから良いそうだ。要するに、自分と同じくマライア・キャリーで興奮出来る人たちと、時空を共にしてマライア・キャリーを身近に見る、と言うことに意義があるようだ。 この間のブログで、河合隼雄さんが「芸術とは作者が意図した以上の意味を持ち得る深みを持った作品」と云ったのを読んで感銘を受けた、と書いた。この定義によれば、マライア・キャリーのコンサート自体は余りにも視覚、聴覚に解釈を与える隙を与えないほどの刺激を与えるので、芸術とは言えないかもしれないが、マライア・キャリーと言う歌手そのものは「芸術作品」と言えるのではないか。プロデューサー、演出家、衣装のデザイナー、そう言う人たちが寄ってたかってファンを熱狂させるある幻想をマライア・キャリーを通じて、作り上げる。 どうだろう? それとも、解釈の余地は無く、ファンは皆興行者の思うつぼにはまって皆同じ夢を見ながら踊らされているだけなのだろうか?だったらちょっと空恐ろしい気もちょっとする。 マライア・キャリー自身の才能とか、存在感と云ったものを全く無視した書き方になったが、でも、どんなに一人の人に才能があっても一瞬で何万人の人を熱狂するパワーと言うのはテクノロジー抜きには不可能な話で、やっぱり不自然なことだと思うのだ。

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会話(の欠如!?)

私はNYやLAや東京と云った、いわゆるヒップな都会ばかりに住んできたが、その割には夜、遊び歩くということは余りしない。早寝が好きなのもあるし、アルコールに弱いのも、人前で踊ると自意識過剰になることも、全てが原因の要素だと思うが、こんな私でも何度かは有名なバーやクラブに言ったことがある。そこで受けた強烈な印象は、まるで会話を妨げるような、ツンボになるような音響でかかっている音楽について、である。「会話を妨げるような」と書いたが、これは形容で書いたのでは無く、実際そう言う目的があるのではないか。薄暗い、非日常的なスペースで、未知の人と密接してお酒を飲んだり踊ったりする。会話は、出来ない方が実は皆気楽なのでは無いか? そしてお店側にしてみれば、会話なんかしてくれない方が、皆どんどん飲むから、売上も上がるだろう。 最近、公的なパーティーに招かれた。次から次へと、これでもかこれでもかとご馳走が出てくる中(中華だったのですが、北京ダックの直後にチキンの丸焼きが出てきた時は、ちょっとびっくりしました。)色々な団体の代表が次から次へと挨拶やスピーチをする。隣の人に「ちょっとスプーンを取ってください」と頼むのもひそひそ声で、と言う感じだ。これもやはり、スピーチが必要なのでは無く、会話の必要性を避ける手段なのでは?と思ってしまった。 面白かった。皆シャイなのだろうか?

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新体験に無我夢中

生まれて初めてのことをするのは、ドキドキする。 今日、私は生まれて初めて自分で髪を染めました。 実は(ここは後で編集で削るかも知れない告白ですが)白髪が出て来てちょっと悩みの種だったのです。勇気を出して薬局に行き、薬品を買い、説明書を読み、そして小一時間かけてやってみました。結果は大成功!こんなに簡単ならもっと早くやってみれば良かった。 一般的に皆どうなのか興味がありますが、私は何でも初めてのことをやるのは大好きです。我を忘れて没頭してしまいます。今回だって単純に説明書の言うとおり簡単な作業をするだけなのですが、その一々に感心して、そして約束通りの結果に非常に感動して本当に一日中嬉しくなってしまいます。私が旅が好きなのも同じ理屈かも知れません。私は良く旅行中に周りの景色や人間観察や、見たことの無い新しい飛行機の機能などに熱中の余り、何のためにどこに行くのかをすっかり忘れている自分にハッと気がつくことが多々あります。例えば演奏会の為に移動している時など、そう言う道中の事柄にすっかり気を取られて興奮する最中、突然(いけない!明日はどこそこで演奏会だった。ちょっとここで寝ておかないと)と思いだしたりします。そう言う新しい興奮がなるたけ多い人生が送りたいなあ、と常日頃思います。 でも、「ワクワクする新鮮な要素を発見する」と言うのは、同じものに囲まれていても才能と叡智によって、出来るものらしい、とここで話しを音楽に飛躍させます。パブロ・カサルスは何十年も毎朝、平均律の前奏曲とフーガを弾いていたそうです。あるインタビューで「飽きないのですか?」と聞かれた時、カサルスは「全然。毎日新しい発見があります。」と答えたそうです。カサルスが凄いのか、バッハが凄いのか。多分両方でしょう。私はまだ全然その域に達せず、練習している曲にマンネリしてしまい、レッスンで先生の指摘によって見えてなかった部分が分かって慌てることがしばしばあります。そういう自分を向上するべく、私は新年明けてから大体毎日、カサルスに見習って平均律を一曲ずつ弾いて行っています。 今、立花隆さんと色々な専門家との対談集、「マザーネイチャーズ・トーク」と言うのを読んでいるのですが、その中で河合隼雄さんが「夢」(夜見る方の夢です)と、芸術の必要性について面白いことを言っていました。 1)人間には自己破壊的な要素がある。 2)その自己破壊的な要素を発散させる手段の一つとして、夢がある。夢は自分の全存在がかかっている(例えば、夢を見て人は実際に泣いたりする)ので、ある種の「体験」だと言うことが出来る。 3)芸術には作者の意図を超えて、鑑賞者が自己投影をすることが出来る包容力があるので、夢と同じような、人間の自己破壊的要素を発散出来る力がある。 芸術には作者の意図した以上のことが在り得る。 これは、私が常日頃考えている芸術と娯楽の違いの一つの大きな定義となりえるのでは? そして、もう一つ。 芸術をやっている以上、同じ曲を何年弾こうが、毎日新しい自分を投影しなければいけない。 惰性で弾いてはいけない。 ロスには珍しく、このごろ雨や曇り空が多かったのですが、今日は抜けるような空の気持ち良い日でした。 こういう日は、ブログも含めて全てに力が入ります。

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今日の本番を振り返って

今日の演奏会場は前もって「非常に残響が多い」と色々な友達から聞いていたので、気持ちの準備は出来ていた。 でも、弾き始めて、ペダルを気を付けて加減して、出る音に集中して弾いていたら段々楽しくなってきた。 「その楽器、その部屋の音響と言うのは共演者と考えて、その性格やくせと『共演』することを楽しもう」と云ったのは私の友達のライアンだけど、今日はばっちりそれが出来た感じ。 しばらく新しい、「音響設計」がばっちりなされたホールばかりで弾いていた。クリーンで、完璧でかえって気が飲まれてしまう感もある。今日は久しぶりに古い、計算されて設計された訳では無いホールで弾いて、ちょっとゲーム見たいで楽しかった。残響が多い、と言うことは残響をコントロールできればピアノと言う打楽器的な、発音だけしかコントロール出来ない楽器でもかなり「歌う」ことができる、と言うことだ。 こういうのも悪く無いなあ、と思った。

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