August 2009

音楽評論家とピアノ録音鑑賞のクラス。

今日は、Richard Dyerと言う、元ボストン・グローブの音楽評論で、 最近はクライバーン・コンクールの審査員も務めた人のピアノ研修生の為のクラスが在った。 主に古い録音を聴き比べたり、クライバーンの逸話を聞いたりと、 割とカジュアルなクラスだったが、面白かった。 始めにMr. Dyerは歌と楽器を弾くと言うことの関係について述べ、 例としてホロヴィッツが「どのピアノ教師からよりも多くの事を学んだ」と評する バリトン、Battistini(19世紀後半から20世紀の始めまでのスーパースター)を聞いた。 お酒が入っているのかと言うような、私たちにはいい加減に聞こえる音程とリズムで、 聴きながら皆で笑いをかみ殺していたが、でも音楽的自由さ、と言うのはよくわかった。 そのあと、Richard Dyerの先輩の音楽評論家、Michael Steinbergが公開レッスンで 楽器奏者たちに詩の朗読をさせ、言葉のリズムと抑揚を演奏に結び付けるよう奨励した話や、 ソフロニツキーのシューベルト・リストの冬の旅の最後の歌の録音を聞かせてくれた。 「最近の若い人は、歌のピアノ独奏用の編曲、例えばワーグナー・リストの「トリスタン」などを弾く場合でも、 歌詞はおろか、ストーリーさえ把握してないんでは、と思われる場合が多い。 それに比べて、昔の人は、歌の編曲で無くても、メロディーの息使いまで伝わってくるような弾き方をする」 と言っていた。 リヒテルはソプラノと結婚していたし、彼女との録音に素晴らしいものが在るそうだ。 コルトーも、演奏キャリアの最初の半分は歌手との共演で成り立っていたらしい。 コルトーの公開レッスンで、生徒にそれぞれの曲を正確な形容詞で描写する能力を厳しく求め、 さらに同じ性格のオペラを熟知して、ピアノで弾けるようにすることを要求し、 それができなかった生徒を叱咤し、変わりにトリスタンの3幕目を朗朗と弾きまくった、 と、Richard Dyer自身が目撃したエピソードも披露してくれた。 他に、ドビュッシーに「バッハを弾かせたら最高」と評された、アメリカ人のピアニスト、 Walter Rummelのバッハも聞いた。 この人はのちにナチスに入れ込み、そのための反感で音楽史から事実上抹殺されてしまったようだが、 タングルウッドのあるマサチューセツ州のStockbridgeと言うところに住み、 ドビュッシーの前奏曲の世界初演や、アメリカ初演を手掛けたそうだ。 バッハはまるでブゾーニ編曲のように、低音にオクターブや和音がたくさんつけ足され、 とてもドラマチックなバッハだったが、感情的にとても訴えるものが在って、 オルガンみたいで面白かった。 それに比べて、ブゾーニの前奏曲とフーガ一番は、透明で、鮮明で、すべてがクリアで、 ブゾーニのバッハ編曲からは想像もつかない、楽譜に忠実な、洗練された演奏だった。 他にランドウスカがピアノで弾いてるモーツァルトのソナタや、 コルトー、Micholowskiのシューマン等を聞いた。 別世界に飛んで行ったような一時だった。

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最近会った有名人、その3&その4

今日は二人の有名人に会った。 一人はピアニストのGarrick Ohlson, もう一人はソプラノ歌手のDawn Upshawである。 Garrick Ohlsonには公開レッスンでスクリャービンの小品を聴いてもらい、 Dawn Upshawには歌のコーチングでブリッテンのセレナーデとプーレンクの歌を聴いてもらった。 しかし、タングルウッドに来てからはジェームス・レヴァインとか、エマニュエル・アックスとかに教わったし、 ヨーヨー・マとか、マイケル・ティルソン・トーマスとかも、別に正式に会ってはいないけれど、 トイレの列で前後したり、コンサートの会場とかですれ違ったりしているので、 最近会った有名人その1のジョン・アダムスの様な興奮はもうしなくなってしまった。 皆同じ人間で、不安や、心配や、小さな幸せを日常的に感じ、 おやつも食べるし、トイレにも行くんだなあ、と言う感じ。 Garrick Ohlsonにはスクリャービンの左手の為の夜想曲、作品9-2と エチュード嬰ハ短調、作品2-1を聴いてもらった。 この曲はもう5月位から何回か演奏している曲だし、 本当は新しい曲でもう少ししっかりと長い曲を聴いてもらいたかったのだが、 何しろタングルウッドに来てから忙しかったし、 他のピアニストも「持ち曲が。。。」とこの公開レッスンはしり込みする感じの人が多かったので、 この曲達で出させてもらった。 Garrick Ohlsonは本当に良い人で、 「君の役に立つならば、何でも聞いてくれ! 何でも答えよう、一緒に考えよう」、 と言う雰囲気が言動のすべてからあふれ出てくる感じで、 一緒の部屋にいるだけで嬉しくなってしまった。 私のやっていることを全て最初に肯定してくれたあとで、 「でも、ここはこういう風にも感じられるし、 こういう風に見ることも、または反対にこういう風に分析することもできるけれども、 そういう選択肢を全て検証した後で、やっぱり今の自分のやり方が一番いいと思う?」 と言う形で質問提示をしながら、レッスンを進めていく。 そうすると、まだまだもっと曲や、自分の考え方を掘り下げられることが分かる。 自分の知っていること、経験したことを総動員して、惜しみ無く伝授してくれている感じが ひしひしと伝わってきて、感動した。 色々言ってくれたけれども、特必が一つ。 「こういうゆっくりな曲で、音の少ない曲は、弾き始めるのに勇気がいるよね。一度、僕が17歳だった時、カーネギー・ホール・デビューを当時30歳だったアシュケナージがシューベルトのソナタで始めた。僕は楽屋で『こんなにプレッシャーの大きなリサイタルで、どうやってこんなに隠れようの無い、透明な曲で弾き始める勇気を得たのですか』思わず聞いた。そしたらアシュケナージは『そんな勇気はとても無いよ。でもだから、舞台袖で頭の中で、一度提示部を全部弾いてから舞台に出たんだ。だから、舞台の上で弾き始めた時は、すでに曲は自分の中では始まっていて、僕はリピートの部分から弾き始めたんだよ。だから、なんとか弾き始められたんだ。』と答えてくれた。それから僕もいつもそうやって演奏を始めるようにしている。そうすれば自我や、無駄な邪念に邪魔されることなく、始めから音楽の為だけに弾けるからね」 Dawn Upshawも、タングルウッドに来る前には レッスンを受けられるなんて信じられない!と言う感じの有名人だったが、 会ってみたら、とても静かにゆっくりと一言一言丁寧に発音しながら喋る ちょっと仙人のような人で、舞台や録音の印象とはとても違った。 そして、とてもとても謙虚な人だ。 「私は自分の声が醜い、とずっと感じていて、 でも言葉を大切に発音し、その意味を深く感じ、考えて、表現することに意義を感じ、 そのことに誇りを感じてキャリアを積んできました。 音楽は、正直に言って子育てを含む自分の今までの人間関係のどれよりも多くの事を 私に今まで教えてきてくれましたし、私はそのことに本当に感謝しています。」 と、公開レッスンで声楽とピアノの研修生全員に向かって言い、 私はその潔い正直さに感じ入った。 今日も、言葉をいかに、一番効果的に伝えるか、と言う感じで音楽の事を考えていくレッスンだった。 こういう風に教えられるのは、二人とも、それぞれ試行錯誤を繰り返し、 時には自信喪失したりして、音楽の道を進んでいるから、 私たちの問題に同感できるんだなあ、と思った。 有名人と言うイメージが無くなって、変わりに偉大なる先輩、と言う風に思えてきた。

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突然、ぽっかり暇

昨晩の演奏会の後、タングルウッド主催のパーティーがあり、 教授、指揮者、研修生、事務の人達、みんな無礼講で飲んで踊り、結構な騒ぎがあり、 中には近くの湖まで真夜中の水遊びに行った人たちまでいて、お祭り騒ぎだった。 そして今日はぽっかりと突然、音楽祭終焉に近くなった実感がする日だった。 さびしいような、ホッとするような、信じられないような、嬉しいような、不思議な気分。 そして、いつもよりお互い優しくなり、いつもより沢山何気ないおしゃべりで時間を費やして、 お菓子や、インスタント・ラーメンや、 今までいつ非常食が要るか分からないけちけちサヴァイバル・モードだったけど もう太っ腹になっても大丈夫、と言う気持ちでみんなで大いに食べ、飲み、 なんだか休日の様な一日だった。 そして夜、現代曲フェスティバル最後のイベント、 現代曲専門のピアニスト、Nicolas Hodgesによる、現代曲だけのピアノ・リサイタルが在った。 プログラムは以下。 Frederic Rzewski Nanosonata, Book I (2006) Pierre Boulez Incises (1994) Henri Dutilleux Trois Preludes (1973 – 1988) intermission Hans Thomalla Piano Counterpart (2008) Pierre Boulez une page d’ephemeride (2005) Michael Finnissy Mit Arnold Schoenberg (2002) このプログラムについてのコメントは、現代曲考察についてのエッセーで触れたいと思うが、 ピアニストたちはみんなで一緒に座って、なんだかいっぱい目と目で通じあった。 時に「なにこれ?」とか、時に一緒に静かに笑いを押し殺したり、 時には「面白い!」と目を合わせ会ったり。 良い友達を持って良かった。 この2時間は一人で聴いていたら、本当に苦痛だったと思う。

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タングルウッドでの演奏、その9

今日はタングルウッド現代曲フェスティヴァルの一巻として、 研修生によるオケの現代曲コンサートが在った。 私は、Enrico Chapelaと言うメキシコ人の書いた"Inguesu"と言う交響詩のピアノ・パートを弾いた。 この曲は1999年にあった国際サッカー連盟主催の、メキシコで開かれた大会で、 メキシコ対ブラジルの試合で、当時負け知らずだったブラジルにメキシコが勝って フィーバーした事件に触発されて書かれた曲である。 作曲家によれば90分の試合が9分の曲に凝縮されていて 木管がメキシコ・ティームの選手たち、金管がブラジル、 打楽器がベンチの選手たちで、ピアノとハープがそれぞれのチームのコーチ、 そして弦が観客だそうだ。 指揮者は審判で、笛と、イエロー、及びレッド・カードを持っていて、 曲の途中で、ベース・トロンボーン奏者に笛を吹いてイエロー・カードを見せ、 曲の終盤クライマックスの前では、同じくベース・トロンボーン奏者にレッド・カードを出し、退場を命令。 ベース・トロンボーン奏者の不満げなカデンツァに続く退出の後、 曲は一気にメキシコ勝利のクライマックスへと盛り上がる。 リズムが軽快で、大変楽しい曲なのだが、私の位置は打楽器のすぐ横である。 オーケストラ・ベルが肘が当たりそうなくらい近くにあり、 それを打楽器の係の人がハンマーで向こう側からこちらに向かって思いっきり叩いたりする。 (鼓膜の危機!)と懸念し、今日のドレス・リハーサルでは耳栓をしてみることにした。 オケの奏者はよく、耳栓を利用する。 金管のマン前に座る木管の人や、打楽器の前のホルンなどは、 器用にフォルテッシモの前にサササ、と耳栓をはめ込んだりして鼓膜を守っている。 私はそんな器用なことはできないから、とりあえずベルに向いている左耳だけ耳栓をすれば 右耳からの音で、大抵大丈夫なはず、と思っていたが、大間違いだった。 ここでちょっと話をそれて、オケ・ピアノで何が大変かと説明させてもらえれば、 オケの奏者はそれぞれ自分のパートだけが書かれたパート譜から演奏する。 だから例えば50小節とか、100小節とか、ただ単に「50小節休み」とか書いてあって、 そのあとにぴろぴろっと音がかいてあり、また「20小節休み」だったりする。 普通の曲なら「このメロディーが来たら、ここで入る」とか言う記憶でかなり大丈夫だが、 現代曲の場合、何を聞いたらいいか分からないようなことが延々と続いたりするし、 「4分の4拍子で12小節休み」「そのあと8分の9拍子で3小節休み」とか、 小節の単位が変わったりするので、もう必死に 「1~、2~、3~、4~」と12回やってその次に「123456789」と3回やったりしなきゃいけない。 結構大変なのだ。 普通のオケ奏者は高校生の時からこういうパート譜を読み、オケで弾くことに慣れているが、 ピアニストはそういう経験はたいていほとんどしていない。 数え慣れていないのである。 耳栓をして始まったドレス・リハーサルでは、 オケが弾き始めた瞬間、ほとんど何も聞こえないことが判明。 パニクッた私は「1~、2~、3~、4~」とやるのをまるっきり忘れてしまったのだ。 大慌てでとりあえず耳栓を外したが、もう皆がどこを弾いているのか丸っきり分からない! パート譜のところどころに「耳頼り」の合図 (例えば、オーボエがこれを吹いたら次の小節の頭で入る、とか) が書いてあるのだが、それを頼りにやっと自分のパートを弾き始めた時、 もう9分の曲の2分くらいは経過していた。 そこからはちゃんと数えて、ちゃんと弾いて、無事に終わったのだが、 通し終わって指揮者が問題点をさらい直している時、最初のピアノ・パートの事を何も言わない。 なんでだろう、と考えて、実はピアノ・パートは全然聞こえていないことが判明した。 ピアノが弾くときは他の楽器もバンバン弾いている。 大抵打楽器と一緒だし、木管や弦と同じ旋律を弾いていることもある。 オケ・ピアノと言うのは、オケの一番後ろに配置され、大抵他の楽器の色添えで、 「ピアノが聞こえる!」と言うパートはとても少ない。 特にこの曲では金管も打楽器も最大限の音を出しまくっているので、 聞こえるわけがないのである。

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タングルウッドでの演奏、その8

7;30 身支度、朝食、キャンパスに移動 9   練習、リハーサル、 10   研修生による現代曲フェスティバル演奏会で、演奏 1   お友達と芝生でピクニック 2;30 ボストン交響楽団(ショスタコーヴィッチ・チェロ協奏曲、ヨーヨー・マ独奏、J.Kuerti指揮) 4   お友達と芝生でワイン 5;30  寮で夕飯 8    研修生による現代曲フェスティバル演奏会。 今日は、キューバ出身の女流作曲家Tania Leonの"Singing Sepia"の演奏が在った。 ソプラノ、クラリネット、ヴァイオリン、とピアノ4手の為の曲で、 詩はRita Doveの奴隷制度に虐げられた女性の視点から書かれたもの5点を取り上げている。 私はこの曲の楽譜を見た時から、「指揮者がいなくちゃ出来ない!」と思い、 この曲用の指揮者が割り当てられていないことを知ってからは、 リハーサルが始まる前から私は「指揮者が要ります、指揮者なしでは弾けません」と騒いでいた。 例えば、 一人の奏者がカデンツァの様な非常に速い、拍を数えるのが不可能な自由なパッセージを弾いている間 残りの奏者は一つのパターンを繰り返し、 その「カデンツァ」が終わったところでみんな一斉に次のセクションを始める、とか それぞれのパートを熟知するだけの時間と、リハーサルがあれば指揮者なしでも良いかも知れないが、 タングルウッドの限られたスケジュールの中では、指揮者がいた方がずっと簡単に楽譜を実現できる、 そういう曲だったのだ。 私が大騒ぎしたにも関わらず、最後の二回のリハーサルまで指揮者がいなかったのは、 作曲家自身が「この曲は指揮者無しで」と要望したからだが、 最終的に私と、アンサンブル皆の要望が受け入れられて、Stephen Druryが指揮をすることになった。 しかし、それまで指揮者が無くても なんとか一緒に、少なくともそれぞれの楽章を一緒に始めて終われるように それなりに合図とか、いろいろ考慮してリハーサルして来ていたので、 突然指揮者が登場して、大抵のところはずっと簡単になったもののかなりの調整が必要で、 最終リハーサルでは「今日のリハーサルの出来次第では、この曲は見送りにします」 と、リハーサルの始めに宣言されるまでに至った。 私の4手のパートナーのピアニストが全く現代曲の経験がなかったことも困難の一つの原因だった。 この曲は本当に本番が終わるまで、どうなる事やら開けてびっくり、と言う感じだった。 しかし、うまく行ったのだ。 ドレス・リハーサルと本番を聴いてくれた作曲家も満足してくれていた。 完璧とは言い難かったが、最終的には的確さよりも、 詩と、詩からくる感情、雰囲気を大事に演奏しよう、と皆で頑張って 今までのどのリハーサルよりも皆で団結して、上手く弾けた。 良かった、良かった。 お客さんも喜んでくれたし。

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